第38話 あかり流し

「あかり流し? あかり流しって、確か明日やる……あれのこと?」

「うん」


 凪ヶ丘町の観光スポットの一つである『あかり岬』。そこで毎年夏の終わりに行われるイベントだ。火を入れた灯篭を夜の海に流す。形こそは灯篭流しに似ているが、本来この『あかり流し』には死者を弔うルーツはない。


「昔、祖母から聞いたんだけどね。『あかり流し』は元々、大切な人の旅立ちを安全に祈願するための催しなんだって」


 電話越しに葵ヶ咲さんが『あかり流し』の由来を簡単に説明してくれる。


 『あかり岬』は正確には『明里岬』と書く。地元に住んでいるとつい漢字の表記を忘れてしまう。『明里岬』は現在の名称で、元々は『灯り岬』と呼ばれていた。


 昔、一隻の外国船がこの凪ヶ丘町に漂着する。ヨーロッパ諸国が異国の地を目指した大航海時代。当時はまだ航海技術が未熟で、無事に目的地に辿り着ける保証はなかった。


 帝国主義の風潮を受け自国の勢力拡大を狙った輩も存在した一方で、純粋にまだ見ぬ地へロマンを馳せる者もいた。


 凪ヶ丘に着いた船員たちは、正に海の彼方を目指した冒険者だったのだ。


 夢に駆られた航海は暗礁に乗り上げる。命さながら海上を彷徨い、辿り着いたのがここ凪ヶ丘。船員たちは憔悴しきっていた。そんな彼らを凪ヶ丘の人々が救助したのだ。


 船員たちは温かいもてなしに感謝し、凪ヶ丘の住民は異国の文化を教えてもらい、互いに交流を深めていった。そして、早くも旅立ちの時は訪れる。


 船員たちが無事に故郷に帰れるように、火を灯した松明を箱に入れて海へ流した。まるで、ゆらゆらと連なる灯火が故郷へ続く道標となるように。


「それで”灯り岬”か……。当時の交流がきっかけとなって、大切な人の旅立ちや門出を祈願するお祭りになった……という訳ね」


「まあ、今では出世とか合格祈願とか、随分とその解釈が広がっちゃったけどね」


 葵ヶ咲さんが苦笑しながら続ける。


「それに、仕事の都合とかでお盆にお参りができなかった人たちが灯篭流しの意味合いも兼ねて参加したりもする。出店もたくさんあるしね。本来の慣習を重んじているのはご年配の方くらいじゃないかぁ。若い人たちにとっては、夏最後のお祭り……くらいな感覚でしょうね」


 一般の灯篭流しと言うと静粛で厳かな雰囲気を想像するが、凪ヶ丘の『あかり流し』はどちらかと言うと夏祭りのような喧騒に近い。


 その夏を締め括る祭りに一緒に行かないかと葵ヶ咲さんから電話が掛かってきたのが、今日八月三十日の夜のこと。


 相変わらず落ち着いて透き通った声質だが、なんだか以前よりも丸みを帯びているような感じがして、耳元が安心する。


「それってやっぱり晴夏の……?」


 わたしが訊くと葵ヶ咲さんが小さく「うん」と返した。


「南橋さんがちゃんと旅立っていけるように祈願したいの、笹希ささきさんと一緒に。私が提案できる立場じゃないことは分かっているんだけど」


「そんなことないよ。ありがとう、誘ってくれて。ありがとうね、晴夏のことを想っていてくれて」


 昨日の彼女の涙を思い出す。一人の尊い命を奪ってしまった業と、わたしへの償いの気持ち。過去の後悔と未来の不安が交錯する涙だった。こういう言い方が正しいか分からないけど、自分の人生を犠牲にしてまで晴夏の意志を尊重してくれた葵ヶ咲さんには感謝の念が絶えない。


「うん! 一緒に行こう、あかり流し!」


 わたしが明るく返事をすると、声のトーンが伝わったのか、電話を切る直前の葵ヶ咲さんの声も少しだけ元気が出たように聞こえた。



***



「けっこう人いるね~! あっ、出店もいっぱい!」


 モヤッとした夏の夜に出店の儚い明かりが滲む。それは夏のラストを飾る夏祭りそのもの。その傍らで灯篭を海に流して手を合わせている人の姿が目に入る。


 大切な人の旅立ちを祈る祭り。それが、これから上京する我が子の健康を祈るものなのか、はたまた安らかな眠りについた故人を見送るものなのか。それは目を瞑って手を合わせている本人にしか分からない。


 受付で灯篭を一つもらって、人目を少し外れた海岸に来た。眼前に広がる暗い海。遠くでは祭りの喧騒。夏の夜のねっとりした空気も潮風のおかげで少しだけ和らぐ。波の音だけが一定のリズムで木霊する。


「笹希さん」

「うん」


 二人はしゃがんで灯篭を海にのせる。晴夏の命を宿した木製の箱。わたしは右手を、葵ヶ咲さんは左手を添えて、静かに放した。


 音も無く、見えない糸で引かれるように、灯篭はゆっくりと水平線に向かっていく。それを二人して見守る。


「笹希さんって、やっぱり南橋さんのこと……」

「うん、好きだったよ」

「それは、恋愛として……だよね?」

「……うん。男の人を好きになったことがないから分からないけど。多分、異性を好きになるときの気持ち。そういう『好き』だった」

「そっか……」


「ねぇ、葵ヶ咲さん。晴夏が最期に持っていた本って」

「”月の影で恋を奏でる”……っていうタイトルの本」

「やっぱり……」


 わたしはもう手が届かない所まで流れていった灯篭を見つめながら呟く。


「あれは小学生の時に、わたしが晴夏の誕生日プレゼントであげたものなの」


 晴夏の訃報をお母さんから聞いたときの状況を思い出す。わたしと晴夏の名前が併記されたハードカバーの本。世界に一冊だけの本。


「だから南橋さんは最期の瞬間まで大事そうに抱えていたのね」

「でもね、その本はもうこの世に存在しないって思っていたの」

「どういうこと?」


「中学の頃に喧嘩したんだ。距離をとったのはわたしの方なんだけど、それで晴夏が怒ってね、プレゼントした本を捨てたって言ったの。わたしも頭にきて、それ以来口を利かなくなったんだ」


「でも、それは南橋さんの嘘だった?」

「うん」


 本当は捨てていなかった。今も――命を落とす最後の瞬間まで大切に持っていてくれた。何気なくあげた千円ちょっとで買えるただの本なのに。それを宝物のように。


 温かい雫がわたしの目から流れる。その様子を見た葵ヶ咲さんが私の片手にそっと自分の手を重ねる。


「南橋さんのこと好きだったのね」

「うん……ッ……! ぐすん……ぅん……すき。……大好きだった……」


 重ねる手に力がこもる。


「笹希さん。今言うようなことじゃないかもしれない。そして、私に言う権利がないことも自覚してる。それでも、……」


 葵ヶ咲さんはぎゅっと唇を強く噛んだ。


「それでもッ……私は、笹希さん、あなたのことが好き。きっと、南橋さんが笹希さんを想っていたのと同じか、それ以上に」


 前回と違って、迷いも隠し事もない真っ直ぐな告白だった。


「でも……わたしは……」

「返事は今はいいよ。まずは友達からでどうかな?」


 友達。その柔和な響きが頭でリフレインする。彼女への恐怖感や嫌悪感は、今はすっかり霧散していた。ただ、隣にいる少女の温もりに安心する。


「……うん。わたしでよければ、友達になってください」


 夜の暗い海にライトなんか不要と言わんばかりの笑顔が灯る。クールで、ミステリアスなのに、こんな表情……反則だ。


「あとね、もうひとつお願いがあるんだけど……」


 葵ヶ咲さんは俯いて少しモジモジした。


「笹希さんのこと、雨愛って呼びたいの」

「あっ……」


 甘えるような視線の葵ヶ咲さんに、少しだけばつが悪そうに声を漏らすわたし。気まずい空気を払拭するように、


「いいけど……一つだけ条件があるかな」

「うん、何?」

「わたしも、葵ヶ咲さんのこと……名前で呼びたい。雲璃くもりって。と、ともだち……だから、わたしだけ名前っていうのはフェアじゃないでしょ?」


 自分で言っておいて耳が赤くなる。そんなわたしの表情をよそに、葵ヶ咲さんが抱きしめてくる。


「いいよっ! いいに決まってるでしょ!」


 絵にかいたようなクールビューティーな葵ヶ咲さん。学校の人は、彼女のこんな子どものような一面を知らない。わたしだけが知っている彼女の特別。


 鼻の先同士がくっつく程度の距離で見つめ合った。葵ヶ咲さんの瞳にわたしの姿がくっきり映り、彼女の香りが鼻腔をくすぐる。


「名前……。私の名前、呼んで、雨愛」

「く、くもり……」

「ふふっ。もう一回。もう一回言って、雨愛」

「ず、ずるいよ。葵ヶ咲さんは言い慣れてるけど、わたしはそうじゃないから恥ずかしんだよ……」


「“葵ヶ咲さん”じゃないでしょ? ほら、何て言うの?」

「……っ。くもり……」

「がんばって。ほら」

「……! 雲璃ッ!!」

「はい! よくできました! 偉いね、雨愛」


 なんか腹が立つけど、全然嫌な気分じゃない。色々なしがらみを乗り越えて、ようやくスタート地点に立てたという嬉しさの方が遥かに勝っているのだから。


 しばらく意味も無くお互いの名前を連呼した後、雲璃はスマホを取り出した。そこには脅迫デートのネタになった忌まわしい写真が並ぶ。


 その写真を彼女は何の躊躇いもなく全て消した。


「消してよかったの?」

「もう必要ないでしょ。雨愛とは友達なんだから。それに……」

「それに?」

「これからは楽しい写真をたくさん撮っていけばいいでしょ? 二人で」


 無垢な笑顔にトクンと鼓動のギアが加速する。


 灯篭はもう水平線の彼方に消えて見えなくなったけど、わたし達が見えない海の上で命の灯火がゆらゆらと揺れているのを確かに感じた。


 八月三十一日。明日から新学期だ。


 失い、得ての繰り返しだった夏休み。その得たものがどれくらいの対価かなんて今のわたしには分からない。でも、胸に灯った儚い篝火は、この暗い海を照らす光になる。きっと。


 隣に寄り添う安らかな体温に身体を預けて、わたし達の夏は終わりを告げた。

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