第37話 夏の終わりと彼女の涙

 凪ヶ丘なぎがおか町の東海岸に位置する『あかり岬』――夏の名残りを乗せた潮風が髪を撫でながら吹いていく。


 視界に海が開けると、木製の手すりに両手をかけて海を眺める一人の少女の姿が目に入った。


 砂利道を歩く音で気付いたのだろう、軽やかなショートボブの黒髪をさらさらと揺らして彼女が振り向くと、氷のような透き通った瞳と目が合った。


「もう、会わない約束じゃなかったの?」

「そのつもりだった。約束を曲げたことは謝る。ごめんなさい」


「いいよ……。理由はともあれ、雨愛あめ……笹希ささきさんにまた会えて嬉しいから」


 彼女の口調は少し寂しげだ。


「……どこまで?」

「全部かな……。少なくとも、わたしの知りたかったことは」

「そっか……」


 言葉の切れ端だけのやり取りだけど、葵ヶ咲あおがさきさんは悟ったらしい。わたしが真実に至ったことに。


「葵ヶ咲さんは、晴夏の病気のこと、知ってたよね?」

「…………ええ。知っていたわ」


「葵ヶ咲さんは、晴夏はるかに――?」


 案外、世の中の事象は独立して存在していない。必ず因果関係で結ばれている。晴夏が病気で苦しんでいる時に、都合よく葵ヶ咲さんが晴夏を殺害するなんて話が出来過ぎている。


 つまり、二つの出来事の間には、晴夏の意志と葵ヶ咲さんの合意が介在していたのではないか。


 葵ヶ咲さんが口をつぐむ。でも、急かさない。彼女が口を開くまでじっと待つ。そして、波の音が耳の中で心地よく反響する中、彼女はゆっくりと語りだした。


「私には祖母がいてね。その日は、定期検診で祖母を病院まで送っていったの」


「検診が終わるまで待合フロアで待っていたら、遠くに南橋みなばしさんを見かけた」


「別に、ただそれだけんなんだけど、彼女がこんな所に居るのが気になった」


 人が病院を訪れるのは別に不思議なことではない。誰でも体調を崩したり、怪我だってする。当たり前のことだ。


 でも、晴夏にはその「当たり前」が似合わない程に元気だった。葵ヶ咲さんには、晴夏という人間と病院という場所が、あまいにも不釣り合いな組み合わせに感じられたのだろう。


「後を追って院内の奥に行くと、南橋さんがお医者さんと話していた。興味本位から私は、二人の話を立ち聞きしてしまったの」


「それが、晴夏の病気の話だった……」とわたしが口を挟むと、葵ヶ咲さんが小さく頷いた。


「聞いちゃいけない話を聞いてしまった……というよりも、話の内容自体が信じられなかった。だから後日、南橋さんを問い詰めたわ」


 最初は晴夏も笑って誤魔化していたのだが、葵ヶ咲さんの執着と剣幕に観念して、他言無用という条件で病気のことを打ち明けたらしい。


「自殺未遂まで図っていたことを知って、流石に私もショックだった」

「やっぱり、自殺しようとしていたのね?」

「うん……」


 予想はしていたけど、晴夏は何度か自殺を試みたらしい。生きている方が苦しい病気だ。いっそ楽になれる道を選びたいと思うのはごく自然なことかもしれない。その苦悩の日々は晴夏の遺書から痛いくらいに伝わって来た。


「でも……。自殺を図ったけど、できなかった。直前になって怖くなったの」


 人間の根底には生の意志が宿る。自殺を決意しても、最後の最後には「やっぱり生きていたい」という本能が勝ってしまう。


「それと、寸前の所で自殺を踏みとどまった理由がもう一つ。それは笹希さん、あなたよ」

「わたし……?」


「カミソリの刃を手首に当てた時。首に縄を掛けた時。最後の瞬間にあなたの顔が思い浮かんだ」

「それって……」


「南橋さんは、笹希さん――あなたのことが好きだったのよ。恋愛感情としてね」


 刹那――思い出すのは晴夏の墓前で告白した時のことだ。一方的な恋ではなかった。晴夏も、わたしと同じ気持ちだった。涙が溢れて、雲りガラスのように葵ヶ咲さんの姿が歪んでしまう。


「人間としての本能と、笹希さんへの恋心。それが最後まで南橋さんの決断を鈍らせた。だから、彼女は事情を知る私にお願いしてきたの――『私を殺して』って。笹希さん、あなたが考えた通りにね」


 両親に自分たちの娘を殺してなんて頼めない。わたしにお願いしたら病気のことも打ち明けることになる。晴夏はそれを何よりも嫌がった。


 もしくは、心優しい晴夏のことだ、わたしに殺させたら、これからずっとわたしが罪の意識に苛まれると思ったのだろう。


 だから、葵ヶ咲さんにお願いした。葵ヶ咲さんしかいなかったのだ。



「教えてくれてありがとう、葵ヶ咲さん。いいえ――」


 わたしは目尻に溜まった涙を拭いて精一杯の笑顔を繕った。


「それとも、って呼んだ方がいいのかしら?」


 瞬間。葵ヶ咲さんは全身の力が抜けたように手をだらんとさせて、氷の瞳から溶け出した一筋の雫が頬を伝った。


「やっと……。……っ、……やっと……会えた」

「葵ヶ咲……さん……?」


 彼女は小さなショルダーポーチから一枚の紙を取り出した。カードサイズよりも一回り大きい。葵ヶ咲さんは温かい命を吹き込むように、その紙に書かれた短い文章を読み上げた。


『また、あなたの絵が見てみたいです 笹希雨愛』


「それって……」


 一ヶ月前の展覧会で、『夢イスト』に宛てたわたしの感想文だ。


「ずっと、お礼が言いたかった。でも、……言えなかった。一言でいいから伝えたかった。ありがとうって」


 その「お礼」が、自分の作品を評価してくれた以上の意味を含んでいる事をわたしは知っている。


 普通、向日葵は日陰ではあんなに立派に成長しない。なのに『夢イスト』では、メインの森林と湖を差し置いて、向日葵が全体の主役であるかのように日陰で力強く咲き誇っていた。


 その考えがそもそも間違っていた。主役は森でも、湖でもなく、あの一輪の向日葵なのだ。木陰で力強く咲く花と、心の闇を抱えながらもいつも向日葵の笑顔を絶やさなかった少女の姿が重なる。


 昨日の帰りに学校の美術室に寄った。葵ヶ咲さんの過去の作品を見るためだ。案の定、絵タッチや雰囲気が『夢イスト』とよく似ていた。


 作曲家は自分の曲調を持っている。文筆家は得意な表現技法を武器にする。画家も同じだ。違う作品を仕上げても、根底の表現方法はどうしても似てくる。


 『夢イスト』の作者に辿り着くのは容易なことだった。


「ごめんね、笹希さん。ホントに……ごめんね」

「いいの、葵ヶ咲さん。わたしの方こそごめんね。あんな酷い言い方して」

「……ッ……。ううん、それはいいの。そうじゃなくて……」


 葵ヶ咲さんは地面に膝をついて堪えきれなくなった大粒の涙を両手で覆った。


「南橋さんを殺しちゃった。笹希さんの一番大切な人なのに。私が……っ……殺しちゃった」


「ううん、もういいんだよ。葵ヶ咲さんだって晴夏に頼まれて仕方なく――」

「違うの!! 私は本当に……南橋さんを殺したのッ!!」


「どういう……こと?」

「前にも話した通り、私はこの場所で南橋さんを崖下へ落とした。でも、死んでいなかったの」


「死んでいなかった?」

「突き落とした後、崖下の岩場へ下りて行ったの。そしたら、南橋さんはまだ息をしていたのッ……!」


 即死ではなかった。


 硬い岩に身体を打ち付けて、辺りには血が飛び、晴夏はもう這うのがやっと……それは無残な状況だったという。彼女が言った通り、「生きていた」のではなく、「死んでいなかった」という表現が正しい。


「急に怖くなったの。微かにうめく南橋さんを見て、私はとんでもないことをしてしまったって。足が震えて、立ってるのがやっとだった」


 当時の状況を思い出したのか、葵ヶ咲さんは右手首を左手で抑えながら、肩を小刻みに震わす。


「南橋さんは這いながら地面に転がったに手を伸ばした。それを手に取ると大事そうに胸に抱えたの。そして、私と目が合った。何かを訴えかけるような顔だった」


 おそらく、その時の晴夏はもう声を出すこともできなかったのだ。


「もしあの時――救急車を呼んでいれば南橋さんは助かったかもしれない。でも、私は、南橋さんの意志を尊重した。南橋さんの必死の表情は命乞いじゃなくて、『殺してほしい』そう訴えているように感じたの。だから、近くにあった岩で南橋さんの頭部を殴って……トドメを刺したの」


 語られる緊迫した内容に言葉を失う。


「“意志を尊重した”なんて言えば聞こえはいいかもしれないけど、結局私がしたのは“ただの人殺し”――南橋さんの意志とか、過程とか関係ない。私が、南橋さんを殺したの……ッ」


 泣き崩れる葵ヶ咲さんと呼応するように曇天が泣き出して、十秒としないうちに本降りとなった。


 葵ヶ咲さんの側に寄って、そっと頭を抱くと彼女は縋りついて声を上げて泣いた。その泣き声は、今まで聞いたどんな涙の声よりも痛々しく悲しい。


 葵ヶ咲さんは無表情で、無感情で、大切な親友を殺害した人殺し? 全部、間違いじゃないか……ッ。


 だって見てごらん、彼女の顔を、彼女の涙を。わたしと――わたし達と同い年の、どこにでもいる一人の女の子じゃないか。こんなにも儚くて可憐な女の子じゃないか。


「辛かったね……。……ッ……、辛かったね」


 今のわたしの心情に親友を守れなかった後悔もなければ、真相が解明された達成感も無い。あるのは純粋な「怒り」。


 それは、自分自身への怒りだ。戻れない過去を背負い、その秘密を誰にも言えない重苦を抱え泣き崩れる少女に、わたしは掛ける言葉が見つからない。弱い人間だ、わたしは。


 わたしよりも少しだけ高い身長は、今はこんなにも華奢に感じる。わたしの服を掴んで泣き続ける彼女の頭を撫でる。


 骨をかみ砕くような悲痛な声は、雨に溶けて流れていった。

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