第35話 マドレーヌの香りが消えた家
「今、
わたしの話が一区切りつくと、じっと耳を傾けていた
本当なら否定してほしかった。
その最後の希望は無慈悲にも
「どうして……教えてくれなかったんですか?」
医学の権威ですら治せない難病だ。わたしに話した所でどうにもならない。それでも、一言くらいあってもよかったんじゃないか。
「わたしって、晴夏の親友に足らないでしょうか? わたしって……そんなに信頼が無いでしょうか?」
「違うよ、雨愛ちゃん。それは、全然違うよ」
夕渡さんは強く否定して、同じ台詞を今度は優しく添えた。
「むしろ逆だよ。晴夏はいつも言っていたんだ――雨愛ちゃんには心配かけたくないし、雨愛ちゃんにはいつも元気な自分を見ていてほしい、って」
橘先生も同じことを言っていた。それが晴夏の本心だって事はもう理解できていた。ただ認めたくないだけ。
でも、仮にわたしが晴夏の立場だったら、心の叫びを周の人に気付いて欲しいって思うだろう。いかに晴夏が強い人間だったかが分かる。
(馬鹿だな……。本当に、馬鹿だよ……晴夏は)
晴夏の気持ちが手に取るように伝わってくる。その優しくも儚い理由に涙腺が緩む。
「晴夏の病気は生まれつきだって聞きました」
「ええ、そうよ。あの子は小さい頃、よく体調を崩してね。一度ちゃんとした検査を受けさせたの」
代わって明葉さんが答える。
「そしたら血液細胞に異常が見つかってね。骨髄の病気だって判明したの」
骨髄の病気と言えば白血病などが真っ先に思い浮かぶ。晴夏の病気は、明確な原因も治療法も確立されておらず、限りなく不治の病に近い。
生まれて間もない愛娘がそんな重い運命を背負っていることを知らされた二人の心境は想像するに堪えない。
「入院とか手術はしたんですか?」
「ええ、短い検査入院は何回もしていたわ。高校生になってからは比較的落ち着いていたんだけど、中学生の頃に大きな手術を一回したの」
そしてその手術は結果的に功を奏しなかったことが暗に語られる。
“中学生の頃”というワードを聞いて、頭からつま先に嫌な電気が走るのを感じた。それは、わたしが晴夏と会っていなかった時期だからだ。
中学の時、晴夏とは同じ学校だったのに、とある事情から疎遠になっていた。その原因を作ったのはわたしだ。病気のことも手術のことも知る機会を自ら放棄していたことになる。
そんな奴が今更どうして親友を名乗れる? わたしが疎遠だった間、晴夏の両親も橘先生も、筆舌に尽くしがたい思いを重ねていたのだ。
自分の愚行に呆れる。さっきまで晴夏の両親や橘先生を責め立てるような口調で話していたのに、親友の秘密に気付いてやれなかったのは他でもない自分じゃないか。
「あの、差し支えなければ、晴夏が残した遺書を見せてもらえませんか?」
遺書は晴夏から両親に残されたもので、わたしは部外者だ。断られたら潔く下がるしかない。厚かましい願いと承知の上で、晴夏の……親友の心の闇を知りたいと思った。
わたしにこれ以上の隠し事をするのに罪悪感を覚えたのか、夕渡さんと明葉さんは無言で目線を交わした後、雨愛ちゃんになら……ということで、遺書を持ってきてくれた。
遺書と言うと清書され封筒に入れられた厳かな形状を想像するが、晴夏のそれは薄いピンク色の便箋で、まるで女の子が友達に送る手紙の様な可愛らしいものだった。
何枚か重ねられ三つ折りにされた便箋をゆっくり開いていく。少し筆圧が強くて丸っこい文字が現れる。うん、間違いなく晴夏の字だ。
一文字一文字、ゆっくり、大切に、淡い色の遺書を読んでいく。
そにには、育ててくれた両親への愛あるメッセージ、生みの親よりも先に旅立ってしまうことの謝罪、そして自殺の理由が
自殺の理由――それは晴夏が抱えていた心と体の闇。闘病の記録と苦痛の日々が
途中から読むのが怖くなって何度も目を逸らしたくなった。色々な小説を読んできたのに、これほど次の行に目を移すのが億劫になる文章は初めてだ。
わたしですらこんな気持ちになるのに、夕渡さんと明葉さんはどれだけ心を痛めつけてこの遺書を読んだのか。
涙すら枯れるのを感じる。橘先生から聞かされた半信半疑な内容が、晴夏の言葉で語られることで現実味を帯びてくる。
きっと、こんな数枚の紙に全てを盛り込むことは不可能だったのだろう。まだまだ書きたいことがあって、でも書ききれなくて、悔しくて、悩んで、――晴夏の気持ちが行間から滲み出てくる。
わたしは遺書を元通りに整えて渡し返した。
「ありがとうございます、読ませていただいて」
「いいんだ。むしろ、今まで秘密にしててごめんね。雨愛ちゃんには絶対話すなって、晴夏に口止めされてたから」
こんな厄介な爆弾を抱えながら、あんなに明るく振る舞っていた彼女に感心してしまう。
「雨愛ちゃんがさっき言った通り、欧州の医療施設に頼めば治る可能性は僅かながらあった。当然、僕たちも晴夏に手術を勧めたんだ」
欧州の最先端医療なら治る可能性がある――とは言っても、奇跡の確率が天文学的確率に変化する程度のもの。人間が地球上で普通に生活している分にはまず巡り会う事の無い神が投じるルーレット。
「でも、晴夏は断った。僕たちが何度も手術を受けるように説得しても、決して首を縦に振らなかった。僕たちに金銭面で迷惑をかけるのを危惧して、そして雨愛ちゃん達と離れ離れになるのを嫌だと言ってね」
夕渡さんは両手を組んで額につけ、顔を歪ませて涙を流した。夕渡さんが泣いている所を見るのは晴夏の葬式以来だ。
「あの時、なんでもっと説得しなかったんだろうって後悔している。晴夏が生きていた時、無理やりにでも手術を受けさせていれば、今頃は生きていたかもしれない。もっと娘に寄り添う言葉を掛けてあげられていたら、違った未来があったかもしれない」
ああ、そうか。二人はずっと辛かったんだ。自分の娘が形無き悪魔に蝕まれている様子を黙って見守ることしかできず、晴夏が亡くなってからは自分たちを責め続けることしかできなかった。
「晴夏を殺したのは、病気じゃなくて、僕たちなのかもしれない……」
「橘先生も同じことを言っていました。自分に出来ることがまだあったんじゃないかって。だから、どうかそんな言い方はしないで下さい」
橘先生は最終的に晴夏本人の意志を尊重することに決めた。夕渡さんと明葉さんも同じなのだ。二人とも、最後まで立派に親としての責務を果たしたのだ。
「遺書にも書いてあった通り、晴夏はお二人にとても感謝していました。生を与えてくれて、慈しんでくれて、そして最後の最後までわがままを聞いてくれて、ありがとうって」
ポタポタと膝の上に涙の雫を落とす二人を見つめて、わたしは続ける。
「わたしは晴夏の親友です。そのわたしが保証します。彼女ほど素晴らしい人間は他にいません。そんな子を育ててくれたたお二人はご立派です。最後まで模範的な保護者でした。だから、胸を張ってください。沈んでいたら、それこそ晴夏が悲しみます」
夕渡さんと明葉さんが顔をぐしゃぐしゃにして
テーブルに置かれたお煎餅と汗をかいた麦茶。マドレーヌの香りが消えた家に、悲痛な声が
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