第34話 優しい理由

 夕方の涼しい風が吹く中、わたしは走っていた。


 まだ風邪の熱っぽさは残っているけど、そんなのはもはやどうでもいい。先生に怒られても知ったことではない。


「ハァ……ハァ……」


 肺の味がする。足がもつれて上手く走れない。いっそ歩いた方が早い気もするが、はやる気持ちを抑えられずに大地を蹴る。


 向かっているのは自宅の方角。でもわたしの家じゃない。通い慣れた第二の家――優しい笑い声とマドレーヌの香りがする家。そこを目指した。



***



「あら、雨愛あめちゃん!?」

「ハァ…ハァ……、こんにちは」


 呼び鈴を鳴らすと、明葉あけはさん(晴夏のお母さん)が玄関の扉を開けてくれた。


「どうしたの! すごい汗よ!?」

「ちょっと、走って来て……」

「さあさあ、上がって」

「ありがとうございます。お邪魔します」


「おや、雨愛ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは、お邪魔します」


 仕事から帰宅していた父の夕渡ゆうとさんにも挨拶する。明葉さんはお煎餅と麦茶をテーブルに置いて、夕渡さんの隣に座った。テーブルを挟んでわたしもソファに腰かけ、三者面談のような構図になった。


「雨愛ちゃん、今日はどうしたのかな?」


 夕渡さんが探るような口調で尋ねる。二人ともわたしの来訪に驚いているようだ。もちろんアポも取らないで突然伺ったのもあるが、やはり晴夏の一件が影響している。


 もちろん、わたしが遊びに行きたいと申し出れば、二人は温かく迎えてくれる。でも、わたしの方が遠慮するだろうと、二人は無理に誘ってこない。わたしもわたしで、夕渡さんと明葉さんの心境は理解しているつもりだ。


 だから、互いに遠慮して、わたしは晴夏の家に行かなくなったし、二人も遊びにおいでと言わなくなった。そんな中での突然の来訪だったので、二人とも戸惑いの色を隠しきれないのだ。


「お二人にお話があるんです」

「話? 僕達にかい?」

「はい」


 きょとんとする二人を見つめて、わたしは両手を膝の上でぎゅっと握った。


 雑談の時間さえ惜しい。わたしのただならぬ気配を察したのか、夕渡さんと明葉さんはわたしの話を真剣に聞こうと姿勢を正した。


「晴夏の病気についてです」


 明葉さんは右手を口元に当てて目を丸くし、夕渡さんは息を呑んだ。二人は一度視線を交わすと、再びわたしに向き直った。どうやらわたしの一言で全てを察した様だ。


「……誰から聞いたんだい?」


 決して責めるような口調ではなく、いつもの夕渡さんらしい穏やかな声で質問してきた。


「橘先生です。凪ヶ丘総合医療センターの」

「ああ、そうなんだ。そっか、橘先生が……」


 まるで、わたしの言葉に魔法が宿ったように、二人の表情から少しずつ緊張が解かれていった。


 息を整えて、橘先生との会話の内容を話し始めた。



***



「晴夏が……病気?」


 橘先生が黙って頷く。


「いや……、先生、なにかの……間違いですよね。晴夏は一度もそんなこと……」


「雨愛ちゃんは一番のお友達だったからね、打ち明けるのを躊躇っていたんだ」


「え……、いや、うそ……だって……」


 言葉がおぼつくわたしに、先生は専門的な話は噛み砕きながら事の経緯を説明してくれた。


 ――晴夏には先天性の持病があった。骨髄の病気だったらしい。そして、橘先生は晴夏の担当医師だった。


 晴夏の病気は、症状の進行を遅らせることはできても、根本的な治療方法は未だ開発されていないらしい。


 欧州の最先端治療を受ければ、日本で治療を続けるよりも快復の可能性はあるらしいのだが、それでも一の位の数字が僅かに上がるだけ。渡航費、滞在費、治療費などを含めると、その金額は膨大になる。


 それでも治る可能性がほんの僅かでもあるなら海を渡ろうと、晴夏の両親は晴夏に提案したらしい。もちろん、目の前の橘先生も同じ気持ちだっただろう。


 しかし、結果的に晴夏が欧州で手術を受けることはなかった。


「どうして……、どうしてっ、晴夏は治療を受けなかったんですか!!」

「晴夏ちゃん自身が、手術を断ったんだ」

「え……? どう……して?」

「経済面でご家族に負担を強いたくなかったんだ」


 海の向こうで本格的に治療に専念しようと思ったら、多額の費用がかかる。行って手術を受けて、すぐに治るものでもなければ、完治する保証もない。仮に治るとしても、どれくらいの期間を要するか分からない。


 時間がかかればかかるほど、滞在費も治療費もかさむ。それに加えて、慣れない土地での手術だ、身体的にも精神的にも厳しい闘いになるだろう。


 でも――。


「命より大切な物なんてこの世にない!! いくらお金がかかっても、例え完治する可能性が僅かでも、奇跡の確率に賭けてみるべきだった! そうでしょうッ? 先生!!」


「雨愛ちゃんの言う通りだ。ぼくは医者だから、患者さんの笑顔が戻る望みが少しでもあるなら、最後まで最善手を尽くし、導く義務がある」


「なら、どうしてッ――!!」


「でもね、雨愛ちゃん。患者さんの気持ちを尊重してあげることも、同じくらい医師の務めなんだよ。晴夏ちゃんが手術を受けたくないって言った以上、それ以上の無理強いは出来ないんだ」


 なによ……それ。


 二の句を継げずにいるわたしに、橘先生は苦悩を振り絞るような声で続ける。


「それに、海を渡るとなれば、今のお友達ともお別れしなくちゃいけない。雨愛ちゃん、君ともね」


「…………」


「もしかしたら、もう日本には帰って来れないかもしれない。むしろ、向こうで骨を埋める位の覚悟がなければ手術なんて成功しない。少なくとも、晴夏ちゃんの病気はそれくらい深刻なものだった」


 なんなの……それ。なんなのッ、それッ!!


 全ては過去――終わってしまった話だ。わたしが幾ら感情をたかぶらせても、晴夏は戻って来ない。目の前の罪なき先生に怒りをぶつけても、何の解決にもならない。


 そんなことは分かっているのに、鬱積うっせきした思いはその矛先を失くす。悔しくて、悔しくて、奥歯を歯ぎしりさせて唇を強く噛む。


 先生は一旦席を外すと直ぐに戻って来て、自販機で買ったフルーツジュースを手渡してくれた。


「先生、晴夏の病気っていつ頃から……」

「生まれつきだけど、幼児期を過ぎたころから徐々に症状は悪化していったんだ」


 晴夏は小学校に入るよりも前からの付き合いだ。一緒に遊んで、駄菓子屋に行って、悪いことをしたら二人して怒られて……。


 その一つ一つのシーンと、晴夏の向日葵のような笑顔が鮮明に蘇る。


 あの時――すでに晴夏は病に冒されていた? あんなに楽しそうにしていた晴夏が……?


「慢性的な症状としては全身の倦怠感や食欲不振。それよりも薬の副作用の方がずっと辛い」


 体の成長に伴って投与される薬の量も増えていった。副作用による嘔吐、関節・筋肉通、貧血……挙げればきりがない。そんな悪魔と、ついこの間まで戦っていた……?


「そ……そんな……。だって、晴夏も、晴夏の両親も、一度もそんなこと……」

「周りに心配をかけるのが嫌だったんだろう。晴夏ちゃんはそういう子だったから。雨愛ちゃん、君が一番よく知っているだろう」


 これが性質たちの悪い冗談だと思いたい反面、優しい晴夏の性格を考えると、本当のことかもしれないと心揺らぐ自分がいた。


「何か心当たりはなかったかい?」


 先生の一言に記憶を遡らせる。


 そういえば晴夏は、家の「用事」で時々学校を欠席したり、早退したりしていた。雪原さんが言っていた今春に開かれた美術部の合宿――あれも欠席していた。そういう楽しい行事には目の色を変えて飛びつく、あの晴夏が。


 その「家の用事」の詳しい事情は、わたしは知らないが、小さい頃からよくあったことなので、特に気にも留めていなかった。


 もしあれが、病魔と闘っている最中だったら……。通院したり、体調が優れなかったりで、学校や行事を休んでいたなら……。


 体の内側に嫌な汗が伝う。


 病魔は体の成長に比例して主を蝕んでいく。投与される薬の種類と量も増えていき、強い副作用がさらなる追い討ちをかける。それは言葉にし難い苦痛だろう。


 薬は症状を緩和できても、根本的な解決にはならない。先生も明言は避けたが、先天的な病気であるのに加えて、ここまで快復の兆しがないことを踏まえると、おそらく不治の病に近いのだろう。


 一人で悩み、一人で苦しみ、一人で闘う。ゴールの見えない孤独のマラソンを走らされるのは、どんなに過酷だろう。


 きっとそれは、本人にしか分からない。


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