第33話 見落としていた物
意識を失っていた時間はそんなに長くなかったらしい。点滴と、ついでに処方してもらった薬のおかげで、空が朱色になる頃には体調が少しだけ快復していた。
医師の許可が下りたところで帰り支度をして病室を出た。
「おーい、
広々とした待合フロアの彼方から声がした。声のする方に顔を向けると、白衣に身を包んだ一人の男性が駆け寄ってきた。
「久しぶりじゃないか、雨愛ちゃん」
「橘先生! お久しぶりです」
幼少のわたしは貧血が酷くて、一度小児科ではなく専門の部門で診察してもらったらしい――その時に診てもらったのが橘先生だ。
ちなみに、貧血は大人に限った話ではなく、乳児や幼児にも起こる。乳児は母親から鉄分を摂取するが、母乳に含まれる鉄分の割合はそんなに多くない。
離乳食が始まっても、わたしみたいに少食な子どもは鉄分不足になりやすく、貧血症状を引き起こす。わたしの場合はその症状が比較的酷かったらしい。
橘先生のおかげで、今では不便なく日常生活を送っている。何はともあれ、先生とはもう十五年以上の関係ということになる。
「それにしても珍しいね、こんな所で。風邪でも引いたかい?」
「はい、実は――」
道端で倒れてからここに至るまでの経緯を説明する。
「たっはっはっは! それは災難だったね~。でも、気を付けなくちゃだめだよ。雨愛ちゃんは成長期なんだからいっぱい食べて、いっぱい寝なきゃ! そうすれば風邪なんか怖くないさ! たっはっはっは」
返す言葉もなく、顔を赤らめて俯く。
「もう具合はいいのかい? 一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です。ご心配おかけしました」
橘先生は親指をぐっと立てて優しい表情をした。
わたしはそれで帰るつもりだったのだが、先生はまだ少し話があったらしい。
先生はさっきまでの明るい表情は消えて、まるで朱色の空模様とシンクロするような
「
「あ……」
ここ――凪ヶ丘総合医療センターは凪ヶ丘町で一番大きな病院だ。健康診断からちょっとした風邪の診察、そして手術に至るまで幅広い医療を受けられる。
先生や看護師さんはみんな優しく、町民との距離も近い。橘先生もわたしと晴夏が仲が良かったことを知っている。
この病院は『あかり岬』――晴夏の遺体が発見された場所の目と鼻の先だ。発見された晴夏はここに運ばれたのだ。
「まだ心の整理はつきませんけど、……でも大丈夫です」
わたしの表情を見ると、橘先生も白衣のポケットに両手を突っ込んで、軽く息を漏らした。その瞳は虚空を見つめる。
「ぼくはね、雨愛ちゃんに謝らなければいけないのかもしれない」
「えっ? 何のことです?」
この病院に来るのも、橘先生に会うのも久しぶりだ。なのに、何を謝るのだろう。きょとんとするわたしに、まるで言葉に質量が宿ったように先生が重い口を開ける。
「もっと晴夏ちゃんをサポートできたんじゃないかって後悔してるんだ」
………………?
「晴夏ってほぼ即死だったんじゃないですか?」
「え? ああ、うん、そうだよ」
晴夏の死因は転落による頭部及び全身の外傷だ。橘先生は血液内科の医師だから、一見関係のないように思えるけど。わたしがこういう医療施設の事情に明るくないだけで、もしかしたら晴夏の件で橘先生も何かしらのサポートにはいったのかもしれない。
「ぼく達医師は患者さんの心をケアするのも大切な仕事だ。そういう意味では、ぼくは医者失格かもしれない」
「そんなことないですよ! 先生は立派なお医者様です。みんな知っています。わたしが今元気でいられるのも橘先生のおかげです」
自分で言っておいて、言葉の隙間から違和感が顔を覗かせる。それが、晴夏の死と、わたしへの謝罪に何の関係があるのだろう。
「でもね、もっと元気の出る言葉があったんじゃないか……そうすれば晴夏ちゃんもあんな早まった真似はしなかったんじゃないか、って今でも考えてしまうんだよ」
そこでようやく違和感の正体に気付いた。先生は、晴夏が自殺したものと思っているのだ。つまり、葵ヶ咲さんがでっち上げた偽の自殺話を信じていて、彼女に殺されたという真実を知らないのだ。
考えてみれば当たり前だ。それは世間に公表されていない――わたしと葵ヶ咲さんだけの秘密なのだから。
しかし――。鬼ごっこのように、一度は振り払った違和感の鬼が再びわたしを捕まえようと迫ってくる。
「病気に打ち克つのは最先端の治療でも、医者の技術でもなく、最後は本人の意志だと、ぼくは信じている」
待合室の固い椅子に腰かけて、先生は手を組んで下を向いた。
「晴夏ちゃんが悩んでいる時、ぼくはマニュアル通りの励まし方しかできなかった。自分にがっかりしたよ。一体何年、医者をやっているんだ、てね」
後悔の念のような、自己嫌悪のような複雑な感情を滲ませながら、交差した指に力を込める橘先生。
「晴夏ちゃんの自殺に僕が全く関与してないなんて言いきれない。引き留められる余地があったのかもしれない。もしそうなら、一番の親友である雨愛ちゃんに申し訳が立たなくて……」
(待って……。待ってよ、先生。晴夏が悩んでいた? 何に? それはいつの話? 先生は何の話をしているの?)
なんだろう。さっきから先生との会話が噛み合わない。同じ話をしているはずなのに、お互いに別々の景色を見ているような感じがする。
「先生……、晴夏が悩んでいたって……」
「自ら命を絶つくらいだからね。最期の瞬間の気持ちなんて本人にしか分からないよ」
え……? ちょっと待って……。
一旦、頭の中で話を整理する。晴夏には何か悩み事があって、それが原因で自殺した――先生はそう言っている。
自殺も、それを裏付けた晴夏の遺書も、葵ヶ咲さんが"でっちあ上げた物"なので、正確にはこれは真実ではない。それは別にいい。
でも晴夏が何かしらの”悩み”を持っていたのは事実らしい。その悩みってなんだ。
「先生、晴夏の悩みって何ですか? 晴夏は何か悩みがあったんですか?」
「だからほら、晴夏ちゃんの病気のことだよ」
「晴夏の病気……? 病気ってなんですか……」
「え……、雨愛ちゃんには聞かされてるはずじゃ……」
わたしが首を横に振ると、先生は幽霊を見たかのように目を見開いた。焦燥に駆られて次の言葉を待つわたしの表情を確認しながら、先生は言葉を思案している。
……まだ事件は終わっていない?
当然だ。わたしが葵ヶ咲さんと決別したことで、勝手に終止符を打ったと思っていただけで、事件の真相は何一つ明かされていない。
自分の愚行に呆れる。ここで
あの日――あの時間から止まってしまったわたしの秒針が、再び動き出そうとしている。
「確認しておきたいんだけど。雨愛ちゃんはどこまで知ってるのかな?」
「晴夏は遺書を残して自殺しました。それだけです」
「自殺の理由とかは――例えば、その遺書の内容とかは聞かされてないのかい?」
「精神的な問題とだけ……。晴夏のお父さんからも詳しいことは聞かされてません」
葵ヶ咲さんが絡んでいる部分を伏せながら、事実と虚構を半分半分で伝えた。
「そっか……」
先生は小さく声を漏らして、自問自答するように目線を下に遣る。そしてゆっくり顔を上げて、わたしの瞳の奥を見るような眼差しで問いかけた。
「雨愛ちゃん、ぼくは医者だ。職業倫理は遵守しなくちゃいけない。だから、今から話すのは他言無用で頼むよ。いいね?」
「……はい、わかりました」
事と次第によっては約束を守れる自信はないけど、了解しなければ教えてくれないと踏んで、相槌を打った。
そして――先生は咳払いを一つ挟んで口を開いた。
「晴夏ちゃんはね、……生まれつき病気を患っていたんだ」
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