Episode 2 濡れた刃
第10話 答えの出ない夜
その日の夜。
わたしは暗い部屋で本を読んでいた。デスクスタンドの光だけが真っ暗な部屋をぼんやりと照らしてくれる。
昔はよく「暗い所で本を読むと目が悪くなる」とお母さんに注意されたけど、わたしはこの時間がけっこう好きだった。なんだか外の世界から離れて、居心地のいい殻に閉じこもることができる気がしたからだ。
それなのに、今は全く本の世界と一体になれる感じがしない。同じ箇所を何度も読み返しているし、ストーリーが全く頭に入ってこない。
気持ちを落ち着けるためには、趣味や日常生活のルーティンに没頭するのが効率的だ。だから、わたしは文庫本を取り出した。
しかし、ちっとも中身に集中できない。本の世界に入ろうとするほど、今日の夕方の光景がわたしをそこから引き離す。
お墓参りから帰宅した後、家族三人で夕食を囲んだ。大好きなカニクリームコロッケだったのに、ほとんど喉を通らなかった。
とても静かな夕食だった。わたしの家は食事中にテレビを見てはいけない、なんて厳格なルールはないので、いつもならバラエティ番組を見ながらワイワイと食事を楽しむ。
でも今日は、そんな明るい番組も雑音にしか聞こえず、テレビの笑い声が虚しく食卓に響くだけであった。
(お父さんとお母さんに悪い事しちゃったかな……)
せっかくまた三人で食卓を囲めるようになったのに、数日前に逆戻りしたみたいだ。
でも違うんだよ、と言いたい。両親は、わたしがお墓参りに行ったことで晴夏のことを思い出し、また気が病んだのでは……と思っている。だから積極的に話しかけてこないで黙々と箸を口へ運んでいる。
でも違う、そうじゃない。お父さんとお母さんが、そんな深刻な顔になる必要も、遠慮する必要もない。
晴夏の件が思考の障害になっていることは変わらないけど、これは全く別の問題だ。状況は、昨日までとは変わってしまったのだ。
結局、小さなカニクリームコロッケをひとつも完食することなく、付け合わせのスープとサラダを少し食べて、箸を置いた。
*
「晴夏を……殺した?」
「ええ」
「…………」
言葉を失い呆然とする。
人間は予想を上回る出来事が起こると、脳の処理速度が追いつかなくなり、
「ちょ、ちょっと待って、葵ヶ咲さん。晴夏は自殺なのよ」
そう、晴夏は自殺だ。自ら崖の底へ身を乗り出し、この世界に別れを告げた。
「どうしてそう言い切れるの?」
「晴夏のお父さんが教えてくれた。遺書だって見つかってるし」
「遺書は本物よ。わたしが書かせたのだから」
「遺書を……書かせた?」
それって、つまり……、自殺に見せかけて晴夏を手に掛けたってこと?
「何のために?」
「それは言えないかな」
「どうしてっ!」
語気が強くなるわたしを、葵ヶ咲さんは瞬きひとつせずに見つめる。
「じゃあ、遺書の内容を教えてよ」
「それも言えない」
「なんで? 葵ヶ咲さんが晴夏に書かせたんでしょ? なら、あれは晴夏の遺書じゃない。晴夏に代筆させたあなたの手紙のようなもの。なら、わたしには内容を聞く権利があるわ」
「わたしが書くように指示したのは確かよ。でも
詭弁だ。でも、まさに彼女が言ったプライバシーの観点から、晴夏のお父さんは遺書の内容を曖昧にしたし、わたしも踏み入ることを遠慮したのだ。
その内容を教えてくれれば、少しは葵ヶ咲さんの発言にも信憑性が生まれたかもしれないが、言えないの一点張りでは話にならない。
「葵ヶ咲さんは、どうしてわたしにこの話を?」
他人を殺してはいけない。人が人である以上、絶対に犯してはいけない古今東西のルール。そのルールを破り、人の道を踏み外した事実が明るみになれば、相応の罰が下る。
そんな真似をすれば、人に知られたくないと考えるのが普通。墓場までその秘密を持っていくだろう。しかし、彼女はわたしに打ち明けてきた。なんのために?
「その質問にも、答えられないわ」
やっぱりだ。彼女は晴夏の自殺を否定し、真犯人が自分であると告白してから、それ以上を語ろうとしない。
「自首のつもり?」
「それなら潔く警察に行くでしょ」
「それもそうね。でも、わたしが真実を知ってしまった以上、警察に話すかもよ?」
「笹希さんは、まだ私の言ってることに半信半疑って感じだけど?」
「……」
「まぁ、好きにしたらいいわ。南橋さんの遺体はもうないんだし、捜査も打ち切り。それに、遺書が本物である以上、警察も新しい情報には耳を貸さないでしょ」
葵ヶ咲さんは出入り口、つまりわたしが立っている方へと歩き出し、わたしとすれ違う瞬間にぼそっと言った。
「ごめんさない」
それは小さな声で、本当に聞き取れるかどうかくらいの小さな声だった。そのまま葵ヶ咲さんの影はどんどん小さくなっていった。
ごめんなさい? ごめんなさいって何だ。
最初に頭を
わたしの親友――物心ついた時からいつも一緒だった友達。そのかけがえのない友達の命を奪っておいて、
大きく息をして肺に溜めていた空気を吐き出す。葵ヶ咲さんとの会話が終わった瞬間、長い金縛りから解かれた気分だった。
色々なことがあって、色々なことを考えた。それらはひとつも「答え」という形になってくれない。
悶々とした気持ちと、強い怒りを胸に、わたしはただ夜が迫る紫色の空を眺めることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます