第05話 砂の城
え……? お母さん、いま、なんて言ったの……?
お母さんの言っていることがよく分からない。異国の言葉を聞いているような感覚。音は耳に入ってくるのに、それを情報として脳が処理できない。
「晴夏が……亡くなった?」
「
お風呂とココアで温まった体から、再び体温が失われ、冷たくなった口はわなわなと震え、何かしゃべりたいのに一つとして言葉にならない。
わたしの顔はだんだんお母さんと同じくらいに蒼白になっていく。お母さんの方はわたしの戸惑いを見て、少しだけ冷静さを取り戻し、電話の内容を話し始めた。
「病院の向こうに『あかり岬』があるでしょ?」
「……うん」
海岸からの景観は地元の人に限らず、旅行者にも人気のあるスポットだ。病院の患者さんが付き添いの方と一緒にお散歩しているのをよく見かける。海の眺めと安らかな波の音は、きっと現代医学では解明できない治癒効果があるのだろう。
舗装された道を辿っていけば安全なのだが、柵を越えて砂利道の方へ行くと、だんだんと傾斜が急になり、その先に道はない。絶壁だ。高さ十メートル以上はあり、落ちれば奇跡的に助かっても致命傷は免れない。
自然には人々を魅了する美しい側面と、命を脅かす危険な側面があり、それらは表裏一体であること教えてくれる。
危険だから、子ども同士では遊びにいかない事――地元の人間なら誰もが子どもの時に教わる、この町のルールだ。
でも、それが何? それが晴夏の死と何の関係があるの?
いや、白々しく
「崖の下で倒れているのを発見されたそうよ。発見されたときにはもう……」
「でもっ! それが晴夏だって決まった訳じゃないじゃない! 別の人かもしれないし」
そうだ。きっと、なにかの間違いだ。同い年の女の子なんていくらでもいる。きっと誰かと間違えているんだ。晴夏は今も風邪で寝込んでいて、もう少ししたら完治して、また一緒に遊ぼうって誘いに来てくれるんだ。
「見つかったらしいのよ」
夢から覚ますような、お母さんの冷たい言葉。何が、と聞きたそうなわたしを尻目に先に教えてくれる。
「晴夏ちゃんの名前が入った遺留品が。本だって聞いたけど」
「そんなの証拠にならないっ! 名前が入った物があったからって、本人とは限らない。誰かが晴夏から借りた本かもしれないじゃないッ!」
「雨愛ちゃん……。晴夏ちゃんのご両親もね、もう確認しているのよ」
さっきまでとは打って変わって、お母さんは随分と落ち着きを取り戻していた。反対にわたしは、威嚇するような声でお母さんを睨みつける。お母さんは全く悪くないのに。
「信じないから」
「……雨愛ちゃん」
「わたし、絶対に信じないからっ!!!」
最後は怒鳴って、階段を駆け上り自分の部屋に入って勢いよくドアを閉めた。タオルケットを上からかぶり、ベッドにうずくまる。スマホを起動して、会話の履歴を開く。
晴夏の病態を心配するメッセージとスタンプ。あの日から――終業式の日から途絶えた会話のログ。
「うそだよね……。何かの間違いだよね……」
枕に顔を埋めてスマホをぎゅっと握る。
「明日になったら返事くれるんだよね。病み上がりなのに無理して、いつもみたいに笑ってさ。またわたしをからかってってくれるんでしょ……。そうだよね、晴夏……」
窓の外では、まるで町ひとつを流すような勢いで雨が強まっていた。憂いも、悲しみも、すべての感情を洗い流す様に。
*
昨日の大雨が嘘のよう。空は透き通った青さを取り戻していた。午後一時になると家のチャイムが鳴った。晴夏のお父さんだ。お母さんが出迎えてリビングに案内する。
晴夏のお父さんの来訪は、お母さんの話を信じようとしないわたしに現実を突きつける様だった。
わたしの隣にお母さん、テーブルをはさんで晴夏のお父さんが向かい合うにように座る。そういえば
夕渡さんは重々しくも、けれど昔と変わらない優しい言葉遣いで、ここ数日の経緯を教えてくれた。
話を聞いている最中、わたしは無言だった。何も話さず、何も反応せず。夕渡さんはわたしの顔色を窺いながら話していたが、最初の数分で思考が止まったわたしは虚空を見つめたまま耳だけを傾けていた。
夕渡さんがいつ帰って、最後にどんな言葉をかけてくれたのかさえ、もう思い出せない。夕渡さんが我が家のチャイムを鳴らした瞬間から、まるで時の流れが早くなったように、瞬く間に今日という一日が終わった。
*
結論から言えば、遺体の身元は
現場にあった一冊の本。表紙の袖に記されていた晴夏の名前が身元特定へとつながった。しかし、そこにはもう一つ別の名前が併記してあった。
まさか……と思った。でも、頭に浮かんだものを否定する。だって、あるはずないから、そんなこと。そう、あるはずない。仮にあったとしても、もう関係ない。そう……、関係ないから。
死因は崖からの転落による頭部損傷、および全身強打による外傷性ショック。
晴夏は風邪を引いていた。だから、病院に行って薬をもらい、帰りに海を見に行った。その時、つい出来心で海岸の絶壁へと足を踏み入れてしまった。水平線の彼方が見えた刹那、足を滑らせ崖下に落ちた。わたしはそう考えていた。
つまり、事故死だ。
しかし、その淡い期待は晴夏のお父さんの一言で簡単に砕け散ったのだ。
――自殺。
晴夏は自殺だった。つまり、自らの意志で飛び降りたことになる。最初は信じられなかったし、今でも信じられない。
一学期終わりの日、あんなに楽しそうだった晴夏が。
長い付き合いの中で、一度もそんな暗い一面を見せなかった晴夏が。
いつも笑顔を絶やさず、周りにも笑顔を振りまいていた晴夏が。
どうして自ら人生を諦める選択をしなければならなかったのか。
晴夏の部屋から遺書が発見されたらしい。自殺の理由は精神的な問題と晴夏のお父さんは簡単に説明した。きっとプライベートな部分、あるいは家族の問題があるのかもしれない。遺書の内容をちゃんと話せなんて言う権利は、わたしには無い。
遺留品の本にはわたしの名前も書かれていたので、当初は遺体の身元がわたしか、そうでなくとも重要参考人として何か事情を知っているのではないかという憶測が立てられた。が、晴夏のご両親の立ち会いと、遺書の所在から、晴夏の死が決定的なものとなった。
一通りの説明を聞き終えた後に残ったものは「悲痛」だった。もちろん亡くなった事実以上に悲しいことは無いが、それ以上に一番の親友に心の闇を
晴夏は一番の親友だ。晴夏もそうだったら嬉しいなって思ってた。
なのに……。
彼女は内面の闇を他人に見せなかった。わたしにさえ。一人で悩んで、一人で逝ってしまった。そのことが何よりも悲しかった。
なんで……なんで……。
なんで頼ってくれなかったの……なんで相談してくれなかったの……。
晴夏……なんで……ねぇ、……どうして……。
晴夏……、はるか……、……はる……か……。
瞳から生者の輝きを失ったわたしは、その後も呪文のように同じ言葉を繰り返す。
二人で築いてきた親友の絆。思い出という名の砂で作り上げた「砂の城」は、ひとつの波で簡単に崩れ去ってしまうことを、今日のわたしは知った。
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