第5話

 やがて太腿がだるくなった。フィンを着けて浜を出発した時から、この抵抗はちょっとしたものだぞ、と思っていたが、その通りだった。ばた足の仕方を変え、膝を曲げたり伸ばしたりして、同じ筋肉を使わないようにする。直子は大丈夫なのかと思う。彼女の黄色いフィンは、小暮の斜め前で動き続けていた。

 直子は泳げないが、シュノーケリングとダイビングはできる。浮かぶことはできるが、シュノーケルなしでは息継ぎができない。たいした勇気だ、と小暮は思う。目の前に底が見えていても、彼女にとっては、溺れるのに充分な深さなのだ。

 海底からそびえた八メートルほどの岩山が現れた。直子は勢いをつけて潜り、岩の側面に沿って下がっていく。小暮の方を向き、底近くの窪みを指さしてから浮き上がってくる。木暮も潜ろうとするが、体が下へ行かず、へっぴり腰でしばらくもがく。くそっ、と思い、頭をうんと下げて水をかくと、何とか潜って行けた。直子がいたあたりに行くと、岩の窪みに、蛍光色の大型魚が隠れていて、じっと小暮を見返した。

 二人はまた進みはじめる。シュノーケルに少しずつ水が入り始めたが、息で吹き飛ばしてしてしまえば問題なかった。

 直子が止まり、立ち泳ぎをしていた。何かと思って前を見ると、その先の海底が、いきなり断崖になっていた。垂直に十メートルほど下に落ち込み、その先に、踊り場のような狭い場所があり、そこからさらに深く落ち込み、その先の底は薄暗い闇に消えている。

 断崖を堺にして、水の色が違っていた。むこうの水は強烈で重いブルーだった。目を凝らして見るが、遠近感のない一面の青色で目隠しされてしまう。だが、その奥から何かが伝わってくる。向こう側に何かの世界がある。

 ここから先は、人間に容赦のない大洋なのだ、と木暮は思う。

 不意に衝動が起り、木暮は思いきり水をかいて前に出た。断崖の縁を離れる。真下十メートルほどに一段低い砂地があり、そこを緑色の大型の魚が三匹、はうように進んでいた。

 見ていると、言いようのない不安を感じる。体を支えているものが何もないのに、十メートル下に落ちていかないのが不思議だった。周囲は三百六十度どこもかしこもブルー。狂ったブルーの色に体が染まり、上下左右の感覚がなくなり、自分がなくなってしまいそうだった。四、五メートル離れて、直子がおどけてダンスのような泳ぎ方をしている。その体も、青く染まって見える。

 めちゃくちゃな泳ぎ方があるもんだ、と小暮は思う。次の瞬間、体の芯が緊張した。

 ちがう。

 小暮は直子に向かってゆっくり水をかき始める。

 何かあったのだ。

 彼女は体を丸め、両腕をマッチ棒のようにピンと広げていた。足で水を蹴ってはいるが、膝が曲がっているのでフィンはまるで効いていない。その場で小さな浮き沈みを繰り返している。

 何も今でなくとも……と小暮は思う。俺と直子は始まったばかりなのだ。これから二人で、楽しいことをたくさんしなければいけないのに。不運が今起るのは早すぎる。

 もがく直子にあと二メートルほどまで近づいた時、木暮の頭に不吉な考えがよぎった。溺れる人間は無我夢中でしがみついてくる。下手に助けに行くと、しがみつかれて一緒に沈んでしまう……そんな話を昔聞いた。直子も人間ならば、そうするはずだ。

 このまま放っておく……か……

 一瞬だが、確かにそれを考えた。その時、直子の感じている苦しみが、小暮の中に、実際のことのように起った。窒息の苦しみを感じ、暗い場所に落ち込む恐怖を感じる。想像ではない。直子は今、これを感じている。

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