第9話

 二人で講義室を出ると、中庭に面したいつものベンチに座る。

 しのちゃんはしばらくの間黙っていた。気のせいか、目が潤んでいるようにも見える。

 水色のチュニックは、花柄が好きな彼女には珍しく無地の布でできている。また、スカートが好きな彼女にはめずらしく、クリーム色のぴったりした丈の短いズボンを履いていた。

「なんだかいつもと服装が違うね」と言うと、彼女はどうでもよさそうにうなずいた。

 やがて、校舎から出てくる大量の学生の波が小さくなってきた頃、彼女はようやく口を開いた。

「私ね、実は三日前、とうとう手紙を渡したの」

「え?」

 手紙を渡す前に、僕に何かしら言ってくれるものだと思っていた。まさか、僕の知らないうちにそんなことになっていようとは思ってもみなかった。

「それからあの人、一度もいつもの電車に乗ってないの」

 僕が答えに窮していると、しのちゃんは感極まったのか、とうとう泣き出してしまった。

 ああ、しのちゃん。僕はどうやって君を慰めてあげたらいいのだろう。

 水色の柔らかそうな布に包まれた小さな肩に手を置くのも、ちょっとなれなれしいような気がする。かといって、なにもしなければ、放っているものと勘違いされてしまうかもしれない。僕はどうしたらいいのだろう。

 あたふたしながら、ポケットにお守りのように入れてある、石にそっと触れてみる。僕はどうしたらいい?

 白状しよう。こんなきれいごとを考えながらも、心のどこかでは、笑いが止まらない僕がいるのも事実だった。これはまさに、チャンスが巡ってきたというやつではないだろうか。もう一度石に触れる。ありがとう、と心の中で呟いてみる。そう、これからが本番だ。

 仕方がないけど、今は黙って見ているしかできない。しのちゃん、君が一日も早く、もとの元気な君に戻れるよう、僕は隣からエールを送り続ける……! よし、僕は君が泣き止むまで、ここで待っていることにしよう。一秒でも早く、君には僕がいるとういうことに気づいておくれ……!

 道行く人がたまに僕らに視線を向ける。もしかして、今僕たちはカップルのように見えているのだろうか、僕が彼女を泣かせているようにでも見えるのだろうか。だとしたら、ちょっとうれしいかもしれないなと思うのだった。


 しのちゃんは、僕がいつでも彼女のことを待っていることに気づいてくれて、それから、今まで以上に僕たちはたくさん話すようになって、たくさんの時間を一緒に過ごすようになって、たくさんのものを共有して……とはならなかった。その後も僕らの関係は一向に進展しなかった。

 もうすぐ夏休みだというのに、これじゃあ、「たまには学校以外のところで会わない?」とも言えないではないか。今の僕らの関係性は、講義の前後に会って、気が向くと講義の後の時間を一緒に過ごすだけなのだ。最近では、しのちゃんはサークルにもほとんど来なくなっている。何もない時に待ち合わせをして一緒に遊びにいったこともないし、休日にデートなんて夢のまた夢だ。

そして彼女が何をしているかというと、バイトだった。

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