第八章  我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)  令和十年十二月十三日(水) 杉原たかね

令和十年十二月十三日(水) 北海道札幌市・狸小路一丁目


 札幌を南北に貫く創成川通に沿って、二条市場とは反対側の車線に赤のダイハツ・コペンを停めると、『巡査諸君へ 当方公務中 第十一旅団』というプレートをダッシュボードに掲げておく。駐禁に引っかからない魔法の手だ。二条市場から見て創成川公園を挟んだ反対側が、待ち合わせ場所である狸小路一丁目にあたる。

 既に陽は落ちており、空から粉雪が舞っている。雲の具合を見る限り、夜半には本降りになるだろう。私は滑らぬよう足下に注意を払いながら、狸小路へと足を向けた。待ち合わせは一丁目の喫茶店『人魚亭』だ。この店の名前は……やっぱりシェイクスピアも通ったという、ロンドンの有名な『人魚亭』にあやかったんだろうな。

 外とうと軍帽の雪を払い、店内に足を踏み入れる。そして帽子を脱ぎながら、テーブルに素早く目を走らせた。私を呼び出した当事者――南高尋常科で一期上だった、甘粕先輩を探すためだ。幸い努力するまでもなく、お目当ての人物は一目で見つけられた。

 憲兵隊の現場を統率する彼女は、よっぽどのことがない限り制服は着ない。今日も私服で、新聞を折りたたんで眺めながらエスプレッソを傾けている。

 時計に目を落とすと、時刻は一六五四。今までのキャリアで叩き込まれた、『五分前』の精神だ。私は帽章を手前にしてテーブルに置き、外とうを脱ぐと先輩の向かいに腰を下ろした。

「ご注文は」

「レギュラーで結構」

 ごく短いやり取りでオーダーを取り、ウェイトレスは厨房へと戻っていく。

 先輩は新聞から視線を外すと、私へと意識をくべてきた。

「杉原少尉、任務報告」

「は。11BのOに対するARBの浸透状況については、このUSBメモリにファイルを入れてあります」

 私はそう告げると、黙って一本のUSBメモリを差し出した。調査報告書、という訳だ。

 Bというのは軍の略語で、Brigade――旅団のこと。つまり11Bだと、第十一旅団。OはOfficerの略で、将校。そしてARBは『アイヌモシリ・リパブリカン・ブラザーフッド』――アイヌモシリ共和同盟のことだ。

 公衆の面前でやり取りをする以上、軍機に関わる単語は隠語に置き換えないとまずい。

 もともと、十一旅団内偵の話は旧知の甘粕先輩から持ち込まれたものだった。

 第十一旅団には朝鮮での労働改造によって共和同盟と共同歩調を取るものが増えているところ、憲兵隊としても実態を把握しておきたい――。

 先輩からはそう説明を受けたが、気乗りがする話ではなかった。

 なぜならそれは、朝鮮戦線での仲間を売れということを意味するからである。――私は既に十一旅団から配属将校へと転出していたが、それだけはできなかった。私は、戦友を売るほど落ちぶれてはいない。

 前線童貞の憲兵隊は、砲弾の飛び交う中で命を預け合う連帯感を知らない。だからこそ、『彼らと同じ前線に立った』私を内部調査に使うという愚行に出たのだ。

 私達朝鮮帰還兵は、みな白頭山はくとうさんのふもとで心のネジを落としてきた。魂の切れ端を、鬼の餌にしてだ。それだけの絆で、我々は結ばれている。

 すべての始まりは激化する朝鮮戦線に、第十一旅団抜刀隊の隊長として私が送り込まれたことだった。わが隊は戦果も出したが、最終的には敵――『人民軍』の捕虜となった。辛うじて私は脱走に成功したが、残留組には強烈な労働改造を受けて赤化する者が多発した。その結果、捕虜交換で札幌に帰還した彼らは、続々と『共和同盟』に加盟した。その赤化帰還兵の規模は、既に旅団の中枢に食らいついているレベルである。そして今も、拡大工作を続けている。

 虚実入り混じったフェイクの情報を先輩に渡したことに良心が咎めはしたが、後悔はなかった。先輩が上位者ではあっても上官ではない以上、軍の論理としてはその言葉に従う義務はない。それは『命令』ではなく、あくまで『要請』に過ぎないからだ。

「先輩もお忙しい身でしょう。他に用事がなければ、先に失礼させていただきたく存じます。他に用向きがありますので」

「分かりました。コーヒー代は払っておきます。この件の礼は、いずれ」

 最低限の事務的なやりとりを交わして、私達は別れた。『情報』を取り扱う際に最も邪魔になるのは、『余計』な要素である。それを極限まで排除すると、畢竟ひっきょうそういうことになる。そんなことは、将校教育を受けた軍人ならだれでもわかることだ。

 私は路上駐車したままの愛車に戻るとイグニッションのボタンを押し、ダッシュボードに置いた警察向けのプレートを裏返した。


         ▼


 雑務のために南高の配属将校室へ戻ると、部屋宛てに一通の電報が届いていた。不在の間に、教務係経由で配達されたらしい。

 発信者欄は『R』。受信者欄には『J』。開くまでもなく、それだけで意図は分かった。『来るかもしれない』と予感していた連絡ですらあった。

 無線の世界には文字の聞き間違えを避けるため、『フォネティック・コード』と呼ばれる概念がある。『イ』なら『いろはのイ』といった具合だ。同様に、アルファベットにも一文字ごとに定められた単語がある。Rは『ロメオ』。Jは『ジュリエット』。大っぴらに名を明かせず、なおかつ私をジュリエットにたとえる人物と言えば一人しかいない。元帝国陸軍軍医大尉、ダーヒンニェニ・ゴルゴロ――通称、北川小五郎だ。今はお尋ね者だが、代理人の弁護士を通して今度の道会議員選挙にも立候補手続きを取っている。公民権が停止されておらず、かつ推定無罪の原則が働くから可能な話だ。


『初めて口づけした場所に、ガラスの靴を履いて』


 歯の浮くような文面である。私は思わず眉をしかめたが、これなら確かにアシのつきようがない。私と彼にしか、この文章の正確な内容は分からない。

 何も相談せず勝手に軍を辞めておきながら、今更何を言うつもりなのか。あの日以来、ただの一度も便りをよこしたこともない癖に。……どうなんだ、小五郎?

 私が彼と出会ったのは、朝鮮の戦場でのことだった。本隊から孤立し捕虜となった抜刀隊が、『人民軍』の本拠地へと移送されたときの話だ。部隊の中で隊長の私だけが、国際法に則り将校用の別房へと監禁されることになった。その部屋の先客が、小五郎だった。

 皮肉な話だが、私達が五体満足で生還できたのは、捕虜をかえりみない我が軍の空爆によってだった。軍は捕虜が収容されていることを知りながら、容赦ない対地攻撃を仕掛けてきたのだ。急造の捕虜収容棟は破壊され、ことに下士官兵を収容していた大部屋は直撃を受けた。そこにいた全員が負傷ないし死亡し、逃げ出せる状況にある者はいなかった。

 幸いにも無傷だった私と小五郎は、そのときの混乱に乗じて脱走を図った。息のある部下を置いてその場を離れるのは、私にとって後ろ髪を引かれる思いですらあった。しかし、当時はそれしか選択肢がなかったのである。

 私達は、五日間に渡る逃避行に入った。追撃が思いのほか激しかったため、不眠不休の厳しい逃走だった。最後のほうは、私としたことが記憶が飛んでいてよく覚えていない。

 自陣に帰還した私に、部下の救出に向かう体力は残されていなかった。というより、軍医である小五郎に止められたのだ。敵陣地の状況を指揮所に伝えるのがやっとだった。当の小五郎は私を診察した直後、システム車に乗って前線へととんぼ返りした。とことんタフな男だった。

 真駒内に帰ってから、私と小五郎は親しくなっていった。私は挙げ句にあの男と何度も夜を共にしたのだが、小五郎はある日忽然と姿を消した。今になって考えると、彼はこちらに帰還してすぐさま共和同盟に入ったのだろう。市内での政治テロが始まったのが、ちょうどそのころだった。

 彼は今、ススキノ騒乱事件を扇動した件で関係各所からの手配を受けている。もちろん、憲兵隊も血眼になって彼を捜しているはずだ。

 ――ふん、下らん。何が『口づけ』だ。今の私は、あんたの敵方にいるのだぞ?

 一瞬だけ躊躇ためらったが、私は電報を足元のシュレッダーへと叩き込んだ。


         ▼


 ……私も、まだまだ甘いな。

 真っ直ぐ家に帰ってはみたものの、結局は例の電報が気になって仕方なかった。気がつくと家で身支度を調え、指定の場所へと向かっている自分がいた。

 午前零時ちょうど、シンデレラの魔法が解けるころ。廃ビルに挟まれた路地裏の角を曲がった途端、親しんだハイライトの煙が鼻孔をくすぐった。あの男が好んで吸っていた煙草だ。

 角の向こうの街灯の下には、紳士帽を目深にかぶった背広男が佇立ちょりつしていた。私は左腰の軍刀をいつでも使えるよう、外とうのボタンを全て外す。男はくわえたハイライトをポトリと雪に落とし――、

「たかね――か?」

 間違いない。私のかつての恋人、北川小五郎――ダーヒンニェニ・ゴルゴロだ。

「動くな、北川小五郎ッ! いまさら私に、何の用だ!?」

 ありったけの眼力を込めて、彼をにらみ付ける。私は軍刀のさやを左手で握り、親指で鯉口こいぐちを切ると鋭く吐き捨てた。フルネームを呼ばれた小五郎は、愉快そうに言葉を紡いだ。

「つれないな、たかね。久方ぶりの再会だというのに」

 言って、小五郎はこちらに踏み出してくる。私はすかさず、軍刀の柄に右手をやった。

「聞こえなかったのか? 動くなッ!」

 喝破かっぱする私の声にも、小五郎は動じない。彼は新しいハイライトを取り出し、手で覆うと火をともした。

「お前が抜くわけがない。もしもその気なら、そもそもお前はここに来てなどいない。待ちぼうけを食った哀れな男に、遠くから一発射てばよいのだからな」

 呆れるほどの正論だった。もとより、私には彼を斬る気など毛頭無い。ただ、私を呼び出した意図を掴みかねていたのだ。私は軍刀から手を離し、軍帽のひさしを直した。路地裏を抜ける風に、軍用外とうの裾が揺れた。

「――何のために、いまさら私に連絡を取った? 今のあんたはお尋ね者だ」

 小五郎は不遜ふそんなたたずまいを保ったまま、煙を吐き出す。立ち上る煙は、もうもうと夜空に溶けていった。

「もちろん、そんなことは分かっている。――時は金なりだ。率直に言う、たかね。われわれ共和同盟に加わらんか? 知っての通り、朝鮮戦線での戦友も多く所属している。このまま不当人事に甘んじ、一介の配属将校として軍人生活を終えるつもりか?」

 何かと思えば……。そんな戯言たわごとを伝えるために、私を呼び出したというのか?

「今の私は、帝国陸軍の杉原たかね少尉だ。北方民族でもなければ、社会主義者でもない。祖国を裏切ることはできん」

「それが、裏切ることにはならんのだよ。何しろ共和同盟と帝国政府は、新国家樹立という一点において利益を共有している。反対しているのは、メンツを潰される形になる内務省――つまり特高くらいのものだ。陸軍ですら、中央レベルでは賛成している。陸軍省直轄の憲兵隊や情報保全隊も同様さ」

「――なんだと? どういうことだ? アイヌモシリ共和同盟は、コミンフォルムの傘下でソ連からの資金援助を受けているのではないのか?」

「北海道と樺太の独立は、日ソ両国にとって緩衝地帯の成立をも意味する。『アイヌモシリ共和国』に関しては、お互いに腹芸だ。ソ連は緩衝地帯としてのアイヌモシリ共和国の成立に関与する代わりに、帝国政府と密約を結んだ。――新国家に対する、核配備の容認だよ。つまりは経済と軍事の分離だ。共和国は社会主義経済を採用する一方で、将来的には帝国政府と安全保障条約を締結する。軍事的にはあくまで、帝国陸軍のコントロール下に置かれることになる。それが条件闘争の結論だ」

「! なるほど。帝国政府にとって悲願の核武装か。合意が拘束するパクタ・スント・セルワンダ――国際法に照らせば、確かに新しく成立する『アイヌモシリ共和国』は国家承認がなされるまで、核不拡散条約NPTの適用を受けない」

 国際法とは条約と国際慣習法をあわせた総称であり、核不拡散条約は前者にあたる。核不拡散条約ではソ連を含む核保有国が、日本を含む核を持たない『国家』に核兵器を譲渡すること、および非保有国が核を保有することそのものが禁じられている。

 だがこの条約に拘束されるのは、あくまで条約を批准した国家だけだ。つまり国際法の論理としては、『謎の第三国』が『偶然にも』北海道に出現した『主権の空白地帯』において物理的に核兵器を放置し去っていくことは、条約違反とはならない。

「その上で、もう一度言うぞ。われわれ共和同盟は、武人としてのお前を必要としている。近いうちに、お前がくべき戦場がこの島に訪れる。そのときまでに決めておくことだ」

「真偽はともかく、話は分かった――が、一つ訊いてもいいか? あんたは一年前、なぜ私を残して姿を消した?」

 小五郎は煙草をくわえたまましばし考えこみ、口を開いた。

「百の嘘があったとしても、男と女にはたった一つの真実さえあれば、それで足りる。自分が軍を辞め、お前のもとを去ったのは、お前が疎ましかったからではない。お前を無用な危険から遠ざけるためだ。それだけは……分かってくれ」

 小五郎は少しかがみ、軍帽を取ると私の額に口づけた。そのまま、私の体に腕を回してくる。私の肩が、反射的にびくりと震えた。

 厚い胸板が、目の前に来る。懐かしい感触だ。私は思わず、頬を胸板に押しつけた。

「たかね。――今でも愛している。この世界の誰よりも。お前の代わりになる女など、存在しない。自分にとって、女はお前しかいない」

 私を抱く小五郎の力が、一層強まる。その甘い言葉が、私には音楽に感じられた。心地よく鳴り渡り、何もかもを忘れさせるような――

 真っ白になった頭で、胸板を二度ほど叩く。避けようのない嗚咽が、私の喉を絡め取った。

「なんて……悪い男だ……ッ」

 こらえようと思ったが、自然と涙がこぼれる。この感触を忘れたことなどない。許されるなら、朝までこうしていたかった。背中をまさぐる小五郎の手が、何か意を決したように空を掴むのを感じた。

「――馬鹿。いい歳をして、泣くんじゃない」

 私の頭に軍帽を戻すと、小五郎はその場で回れ右をした。

「シャンプーと香水は、あのころから変えていないのだな」

 仕立てのよい外とうを羽織った後ろ姿は、ビジネス街の勤め人と何ら変わらないように見えた。

「小五郎、待――ッ」

 待ってくれ、と言おうとした。だが喉元まで出かかったその言葉が、口にのぼることはなかった。

「気が向いたら、いつでも連絡しろ。北海道日報の一行広告で、『ロミオ』宛てにな」

 彼は振り返りもせず、軽く手を挙げて歩き出す。


 ――そのときだった。小五郎の背中目がけて、一陣の黒い塊が襲いかかってきたのは。


「――北川小五郎、その首級くび頂戴つかまつる」


 私はとっさに、『塊』から小五郎を守る位置に立つ。鋭敏に張り詰める神経。静寂に凍る世界。乾いた鞘鳴りを従え、私は軍刀を居合の要領で抜き放つ。奇しくも、相手の得物も私と同じ日本刀だった。

「っ――!」

 まみえる刃に、散る火花。音叉のように鋭い音が、路地裏に響く。迷いのない太刀筋は間違いなく、私と同じ『人を斬ってきた剣』だ。

「警察――!?」

 襲撃者は、二十歳にも満たないだろう少女。そして彼女が身にまとっているのは、女性警察官の制服だ。まさか、堂々と正面から首を獲りにくるとは。

「お退きあれ、杉原少尉。用があるのは、貴官にあらず」

 鍔迫り合いのさなか、相手は鈴を転がすような声でそう告げてきた。涼しげな顔立ちに、和風の落ち着いたキュートボブ。黒髪を小気味よく揺らしながら、私と剣を交えている。

 ――先ほどの剣さばきには、見覚えがあった。かつて『位の桃井もものい』と呼ばれた鏡新明智流きょうしんめいちりゅうによく似ている。戸山学校時代、警察の連中が使っていた『警視流』だ。陸軍の両手軍刀術と並び、現代日本の二大流派と言われている。

「走れ、小五郎ッ! 特高だッ! ここは私が食い止めるッ!!」

「――すまんッ!」

 背後で、小五郎が逃げていく気配を感じた。あとは、無事に逃げ切れることを祈るばかりだ。

 武人にとって剣客にとって、事態とは『どうなるか』ではない。節義をもって『どうするか』だ。ゲームの参加者は、これで決まりだな。

 私は敵の目を見据え、短く問うた。

不調法ぶちょうほうであろう。其許そこもとも剣に生きる者ならば、夜討ちをかけるにしても枕を蹴ってから致されよ。お手前てまえ、名はッ!?」

 私の言葉に、相手はくつくつと喉元を揺らして笑いを噛み殺した。

「な……何が可笑しいッ!?」

「杉原たかね、噂にたがわぬ剣姫けんきなり。――本職が名は望月もちづきさくら。内務省警保局、保安課の平巡査。しかと覚えられい」

「保安課……やはり、特高警察の総元締めか。貴官――現役将校の私がそばにいることを知りながら、なにゆえ斬られたかッ!?」

「これは異なことを申される、杉原少尉。特高警察は、政体に刃向かう者すべてを斬り捨てるための組織。本職は、その本分を果たしたまでのこと」

「適正手続という言葉があろう!? 文字通り斬りかかる者がいずこにおるかッ!」

「ッ!」

 剣気がぶつかり合い、互いに後ろに退いて間合いを取る。……すでに抜刀している以上、得意の居合は使えない。

 軍刀のこしらえを、汗に濡れる手で握りなおす。文目あやめも分かぬ闇の夜に、かつて幾度となく敵兵に振るった愛刀。時代遅れの剣術屋と蔑まれようが、私にはこれしか能がなかった。

 この狭い路地裏では、刀身の左右への立ち回りは問題ではない。斬り下ろすか、突くか、はたまた斬り上げるか……その読み合いになる。

 神道無念流で『霞』と呼ばれる型――。私は柄頭を持つ左手を右耳の脇に寄せ、切っ先を前に向けながら峰を下に構えた。

 対する相手は私と真逆に切っ先を真後ろに引き倒し、左の手首をこちらに向け、右肘の上に峰を乗せる。あんな構えは初めて――いや、戸山学校の資料で見たことがある。駒川改心流の『八相』だ。

 ……『曲者』だな、この相手は。剣理を弁えながらも、流派の枠を超えた己の剣を振るう。そういう輩だ。

 仮にお互い、斬り下ろしの勝負になった場合――刀身から相手までの距離はこちらの方が短いが、交差した両腕を裏返す刹那、こちらに隙ができる。つまり相手の剣の速度を、私が読み切れるかが問題となる――

「ッ!」

 瞬間、相手の初動が起こった。半円の弧を描き、私の脳天を目指して白刃はくじんはしる。

はやいッ!)

 とっさに軍刀を翻し、目前で斬撃を受け止める。押しつ押されつ、構図はまたも鍔迫り合いへと移った。

(……よし、体格と力ならこちらが勝っている)

「らあぁッ!」

 力押しで刃を足元に巻き落とすと、軸足を据えて蹴りを放つ。軍靴が相手の脇腹に当たり、その体が跳ねた。

 ……が、手ごたえは浅い。瞬時に身を引いて、直撃を避けたか。道場剣法だけってわけじゃないみたいだな。

「はぁ……はぁ……」

 お互い、肩で息をしている。次にどちらが動いて、どちらが致命傷を負ってもおかしくない。それほどまでに、状況は拮抗している。

 ――瞬間。金属の衝突音が響いたかと思うと、火花とともに私の軍刀に衝撃が走った。

「な――」

 私はあっけにとられる。しまった、刀身に大穴が空いて割れ……くそ、狙撃か!

 恐らく、狙撃地点は上からだ。私は弾丸の軌跡から大まかな発射方向を割り出し、廃ビルに身を沿わせて第二撃に備える。

「!」

 と。敵の刀にも、『何か』が当たった。

 尾を引く音を立て、敵……望月巡査の日本刀が地面に落ちる。

 見ると、その刀身も穿たれた穴を中心に――真っ二つに折れていた。

 こちらも狙撃……『私の知らない援軍』からだ。

 同じ標的を狙ったのは、『自らが相手と同等以上の腕を持っており、相手が射ち抜いたものと同じものを報復的に攻撃する』と宣言したに等しい。

 そこで、空気は弛緩した。互いに剣客、得物を失ってまで争いはしない。

 自らの陣営が無粋な真似をしたのは、お互い様だ。さきほどの経緯を見る限り、狙撃屋はけん制に終始してこれ以上は射ってこないだろう。

「……望月巡査、次は容赦なく斬る。その時までに、新しい刀を探しておけ」

はこちらの台詞ぞ、杉原少尉」

 愛刀を失ったのは痛恨の極みだが、致し方がない。

 私は死闘を繰り広げた路地裏を背に、空になった鞘を吊るして家路へと歩を進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る