第九章  見捨つるほどの祖国はありや  令和十年十二月十四日(木) 杉原たかね

令和十年十二月十四日(木) 北海道札幌市・杉原たかね宅


 なんて、茶番だ……ッ。

 あの場所に望月巡査が見計らったように現れた以上、私はに過ぎなかったということだ。相手は令状なしの非合法活動中とはいえ、私は桜の紋章に弓を引いた。与えられた軍務をこれ以上続けていては、私の身が危なくなることすら考えられた。

 戦いの現場から自宅に戻った私は身の回りの品をかき集め、私服のパンツスーツに着替えて部屋を放棄することにした。

 私は、一人っ子の父子家庭に育った。だが銀行員だった父は、遺品から推理するに大昔の拓銀破綻に関係して何者かによって謀殺された。恐らくは、融資絡みで政治屋に口を封じられたのだろう。私が逃げたところで迷惑をかける家族など、既にどこにもいなかった。

 今夜までの私は、心血を注いで軍と国家に忠義を尽くしてきた。だが自分の立場が危うくなって、初めて気付く。


 ――私が祖国に尽くしてきたのとは裏腹に、祖国は私からあらゆるものを奪い去ってきたということを。


 父親。戦友。そして何よりも、私の武人としての誇り。

 これらは全て、国家という巨大な暴力機構によって葬り去られた。挙げ句の果てが、今晩の『反逆』である。

 小五郎は私の『武人としての力』を求めていると言っていた。そして共和同盟には、朝鮮戦線の戦友も多く所属しているとの話だ。

 ……情に流されて小五郎の逃走を幇助ほうじょした以上、私に残された選択肢は多くない。

「それが祖国きさまの下した結論ならば……私はただ、私の戦場に赴くまでだ」

 思想の左右など、今の私にとっては何の価値もない。小五郎のもとに参じ、武人としての価値をいま一度証明して見せようではないか。

 小五郎の言う『戦場』とやらが、私に居場所と存在意義を与えてくれることを願う他にない。私に『不用決定』を下した上層部の連中に、是非とも一矢を報いてやる。

 腹をくくった私は、旅行鞄をぶら下げて扉へと向かう。もはや一刻の猶予もならない。速やかにこの部屋から離れる必要があった。私は電気を点けたまま、鍵を開けて玄関の取っ手に手を掛けた。

 ――その途端、扉が物凄い勢いで開いた。私が『押した』からではない。扉が『外から』引かれたのだ。私は思わずつんのめり、部屋の前の廊下へと転がり出た。体勢を立て直す前に何者かが馬乗りになり、私の手首を冷たい手錠で戒める。まるで手品のような早業だった。私は思わず首をひねり、私の上の賊に目をやる。

「あ……甘粕先輩……」

 これは……憲兵隊逮捕術。賊は、昨日会ったばかりの甘粕先輩だった。かたわらに控える部下が、逮捕状と書かれた紙を広げて提示する。

「お静かに。あまりコトを荒立てたくありません。午前一時十三分、被疑者確保。杉原たかね少尉、軽犯罪法第一条十六号違反容疑で逮捕します」

 軽犯罪法……普通は身柄を確保することなく処理するのが通例なのだから、完全な口実だ。何か他の用件があることは目に見えていた。一体何の用事があるのか、それは取調室でのお楽しみというわけだ。

「立てますか? 杉原少尉」

 甘粕先輩が、おとなしくなった私から腰を上げる。そして私の手を取り、立ち上がらせた。

「汚い手を使う。千両役者ですね、先輩」

 私の非難にも、先輩は涼しい顔を崩さなかった。

「そう思うのなら、虚偽の内部調査を上げるのは控えることです。――行きましょう、杉原少尉。下に車を待たせてあります」

 手錠を掛けられた私は、促されるままに階下へと向かう。

 ――すまない、小五郎。そこに行くのは、どうやらもう少し後になりそうだ。


         ▼


 黒塗りのハイエースに乗せられて連れてこられた先は、真駒内衛戍地にある憲兵隊の庁舎だった。取調室には、私と甘粕先輩だけが向かい合わせで腰掛けている。扉の外では、深夜だというのにひっきりなしに人間が出入りしていた。

「手荒なことをしてすみません。ですが、あのままだと我々の真意を伝えられないまま、貴女が共和同盟に加わるおそれがあった。それだけは避けなければならなかったのです」

「――ご用件は? 私を衛戍監獄に入れるのなら、好きになさればいい」

 出された玉露に口を付け、訊ねる。

 『共和同盟に加わるおそれ』――ということは、私と小五郎のやり取りも先刻承知というわけか。下手に隠し立てはしないほうがいいだろうな。

「まあ、そう話をくこともないでしょう。立会人がいない以上、これは正規の取り調べではありません。ただの雑談です。どうでしたか、あの望月巡査は?」

「なかなかの遣い手です。そして、間違いなく人を斬ったことのある剣でした。一目で分かります。あの年頃なら普通、剣さばきは荒く、そして素早い『だけ』です。しかし、彼女は違った。あの年齢にして、練達の気風すら既に備えている。女は頬骨が低いから、男に比べて視界も広い。私の太刀筋はそのギリギリの死角をつくものですが、そのアドバンテージはあの者には通用しないでしょう。彼女はいったい……何者なのですか?」

「内務省警保局保安課……特高警察の実動部隊『強制介入班』の剣客巡査ですよ。高等女学校を出たばかりで、年齢は十九。たったひとりで、膠着した政治情勢をひっくり返すために北海道へと渡ってきました」

「目的は、連中お得意の白色テロですか?」

「付け加えるなら、最大の狙いは北川小五郎。……貴女のかつての恋人です」

 まあ、そうだよな。憲兵隊だもの、そりゃ知ってるよな。私は再度、玉露で喉と唇を湿らせることにした。

 先輩は席を立ち、取調室の隅に立てかけられていた細長い木箱へと歩いていった。

「私達の貴女への依頼は――あの娘を、斬っていただきたいのです」

「――今、なんと?」

「斬っていただきたい、と言いました。困るんですよ。管轄権もないのに私達の庭先で、陸軍内部の思想事案にまで要らぬおせっかいをされては。権限踰越ゆえつはなはだしい」

 剣呑な言葉に私が訊き返すと、先輩はその古ぼけた木箱を持って机へと戻ってくる。先輩の言葉は小五郎の発言通り、憲兵隊――ひいては陸軍が本質的なところでは、『アイヌモシリ共和国』運動に反対はしていないことをほのめかしていた。先輩は無言で、木箱の周りに巻かれた緋色の紐を解いた。

「望月巡査との戦いで、あなたの軍刀は失われたと聞きました。これはこんなこともあろうかと、彼女との戦いのため軍刀ごしらえに直した貴女の刀です。受け取ってください」

「これは……?」

「『会津兼定あいづかねさだ』。箱館戦争の折、黒田清隆の官軍がかの土方歳三から回収した名刀です。――貴女ならこの刀で、彼女を斬れるはずです」

「――拝見します」

 軍刀を手に取り、峰を下にして水平に掲げる。そして鯉口を切り、静かに抜刀した。

 刀身に目をやると、薫りたつような刃文はもんが視界に入ってくる。その形は吸い込まれるほど鮮やかで、とても幕末の作品とは思えない。

 この刀なら、あの跳ねッ返りの死に水をとってやるにふさわしい。先輩は、全てを見透かしたかのような声で続けた。

「おやりなさい、杉原少尉。遠慮は要りません。……目を見れば分かります。貴女……りたくてウズウズしているのでしょう?」

 悔しいが、先輩の言葉は当たっていた。

 あの娘を生かしておけば、小五郎が狙われ続けるのは確かだ。その意味で、あいつを叩いておく意味は充分にある。だがそれ以上に私は、あの娘との合戦を心から所望していた。

 軍刀を折られ虚仮コケにされたままでいることは、私のプライドが断じて許さない。この刀があれば、奴とまともに渡り合えることは間違いない。

「よろしいのですか、先輩? 私は北川の逃走を幇助ほうじょしたのですよ?」

 そう、それがゆえに私は、軍でのキャリアを捨てる羽目になったのだ。

「あんな凶手が襲ってきたんです。情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地はあります」

 けだし、剴切がいせつである。私は目を閉じてしばし考え込むと、パチリと切羽せっぱを鳴らして軍刀を納めた。

「――万事、掌握しました。私を含む『剣客』にはみな、人生を賭すに値する丕業ひぎょうがある。鴻業こうぎょうがある。仮にそれがなければ、我が身は時代遅れの剣術屋に過ぎません。此度こたびの任務、謹んでお受け致します」

「ありがとうございます、杉原少尉。全てが終わったら、どこへなりと好きなところに行って構いません。私達は、誰も貴女を追いませんから」

 運良くあの娘を仕留められれば、共和同盟への良い手土産となる。これは、その意味でも悪い話ではない。先輩は満足げに頷くと、私の名前が記された逮捕状を破り捨てた。

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