第六章 政治少女死す 令和十年十二月十三日(水) 宮坂航也
冬は、まさにあらわれようとしている。
モスクワの雪を背に、俺と
屋敷の門は、今夜の舞踏会のために開放されている。党幹部ともなると優雅な生活だ。頑強な二人の黒服が門の両脇に立ち、来客の招待状を改めていた。はっきり言って、見比べてもどっちがどっちだか分からない。まるで双子だ。
俺達が敷地へ入ろうとすると、黒服の二人が俺達を挟み込むように歩み寄ってくる。
「失礼ですが、招待状はお持ちですか?」
「お持ちでないかたはお通しできません」
俺はカーチャと目を見合わせ、頷きあう。
「この
「ええ。アレクセイも、たまにはマトモな仕入れをなさるのね」
奴らを尻目にコートの裾を風に翻し、俺達は屋敷へと歩を進めた。
「参りましょう、ニコライ。お客様がたがお待ちですわ」
真新しい雪にアーミーブーツで傷跡を残しながら、俺達は死の行進の口火を切った。
「さァ、飲まず食わずの盛大なパーティーを!」
スタッカートの調べを秘め、バラライカの音色にも似た銃声が響く。屋敷のホールに居並ぶ招待客達を、カーチャと俺は
「逃げろ! そいつらはイカれてる!」
悲鳴と
――いいだろう、お祈りの時間だ。
「あら、
恐怖にガタガタと震えるご老人がたの前に少女が跳躍し、命乞いの間も与えずに引導を渡していく。
戦闘のさなか、返り血がびしゃりと俺の顔にかかった。俺は舌を伸ばし、鉄の苦みを味わう。そう――俺達を酔わすカクテルは、流れ出た命のリキュールで作られるのだ。
鉄火のはざまに湧き出る泉が、俺達の魂を溺れさせる。それこそが俺達の従う、あくなき因果律だ。
突如、二階の踊り場から反撃の砲火が浴びせられた。俺とカーチャはとっさに柱の影に身を隠す。俺は懐をまさぐり、
「カーテンコールはまだですわ、ニコライ。せっかく舞台に上がったんですもの、たっぷり楽しませていただきましょう?」
そうだな、張り切っていこうか。俺は頷きながら手榴弾のピンを歯で抜くと、二階へと思い切り投げ入れて耳を塞いだ。次の刹那、爆風と轟音。そして稲光のような爆光が屋敷を埋め尽くす。俺はニヤリと笑うと短機関銃を手に、柱の影からホールへと躍り出た――
▼
令和十年十二月十三日(水) 北海道札幌市・北海道庁立南高
『アイヌモシリ共和同盟、独立宣言』――
教室は、今朝の北海道日報のトップ記事の話題で持ちきりだった。それによると『アイヌモシリ共和同盟』を中心とした勢力が『アイヌモシリ共和国暫定政府』を名乗り、主要各国に独立を宣言したという。金曜に控えた道会選挙にどう影響するのか、興味深いところではある。
ちょうど数日前に『法学』の授業でやったところを頭から引っ張り出してみるが、国際法上、国家が成立する要件は一九三三年の『モンテビデオ条約』で定められた基準を適用するのが現在の通例だ。住民、領土、政府、外交能力の四つである。
アイヌモシリ共和同盟は、『共和国』として法的かつ国際的に外交を始めた。であるならば次の選挙は事実上、アイヌモシリ独立を問うレファレンダムになる。
「ボーナンマテーノン、諸君。すまんが皆、オラに時間を分けてくれー!」
朝のHRのチャイムが鳴り、高山が教室に侵入してきた。奴は教卓を教鞭で叩くと、神妙な顔つきになって教室を見渡した。
高山はチョークを手に取ると、『高山准教授転任の是非について』と黒板に書き付ける。ざわつく教室を手で制し、高山は続けた。
「先般、道庁のほうから転任の打診が来たのだが、まだ決めかねている。ついては諸君に、決を取ってもらいたい。諸君らが引き留めるなら、留任もやぶさかではないぞ。高山先生の授業を受けられるのは南高だけ! だ」
言って、奴はチョークをコトリと置く。担任が変わってもいいかと、
「私は外に出ているから、あとは諸君らでやってくれ」
形式だけの議論を経て、高山の転任には大差で承認が与えられた。同情はしないが、結果を知った高山は少し寂しそうだった。
「今日のうちに引継ぎは済ませておく。じ後は、副担任の杉原少尉が正担任になる。ではみんな、またどこかで」
高山はそれだけを言って、教室を去っていった。教師を自称する変質者が失せた途端、教室に何とも言えない
さて、新しく正担任になる杉原少尉と言えば昨日の『酔いどれ! たかねさん』である。どうもあの人は、カッコいいときとポンコツなときの差が激しい。
思えば最初の対面は、学校教練のガイダンスだった。そのとき、彼女はこんなことを言っていた。
「軍人とは、散兵線で命を賭ける者。その軍人に銃を向けるのなら、向ける者もまた命を賭けなければならない。命を賭けるということは、照準を合わせたら間違いなく敵を殺すということ――射つか、射たれるか。それが実戦の全てだ。殺し合いは、先制した者が勝つ」
泥沼の朝鮮戦線から帰ってきた少尉の言葉は、ただひたすら重かった。風の噂では、高山とも南高で同期だったという。
兵役あがりの高山とは違い、少尉は職業軍人だ。高山以上に手が早い彼女を恐れている者も多いが、断じて高山のように下劣な人格破綻者ではない。それだけは、彼女の名誉のために言っておきたい。
▼
帰りのチャイムが鳴る。今日、理由は分からないがマヤは欠席だった。
「アーニャ。昨日、少尉を送ってくれてありがとうな」
「いえ、とんでもありませんわ」
今日は部活がある日ではない。俺が立ち上がりながら声をかけると、ショートコートを着込むアーニャと目があった。
髪を波打たせながら、小首を傾げるアーニャ。その澄み通る碧眼に見つめられ、俺の脳裏に観覧車でのことが蘇る。見ると、今日のアーニャは網掛けのストッキングをはいている。普段は生足だというのに、急に色気づいて見える。
昨夜、俺とアーニャ……そしてマヤの関係は決定的に変わった。あろうことか同じ日に、二人は俺に好意を示してきたのだ。
今日はたまたまマヤが休みだから血を見ないで済んだけど、女の友情ハムより薄い、とはよく言う。結論を急がなくてはならないところはあるのだが……。
もちろん、俺はアーニャが嫌いではない。というより、率直に言えば好意を抱いている。しかし一方で、マヤとは付き合いが長い。
マヤは確かに、「待ってる」と言ってくれた。だけどそれがマヤの本心な訳はなくて……スッパリ答えを出したほうが、お互いのためにはいいんだろうな。
「――したっけ、行こうか。アーニャ」
「ええ」
俺はアーニャの側に歩み寄り、並んで昇降口へと下りていく。普段ならこのまま帰るところだが……そういう雰囲気ではないというのは、俺もアーニャも分かっていた。
日本文化というのは、察しと敬意だと俺は思っている。そういう意味では、アーニャは下手な日本人より日本人らしい性格をしている。
下校した俺達は、学校近くの中島公園をそぞろ歩くことにした。どちらともなく手を繋ぎ合い、雪に覆われた公園を進んでいくと、アーニャが不意に話しかけてくる。
「ね、航也さん?」
言って、俺の右腕にしがみついてくる。胸の感触を生地越しに感じ、俺は一瞬どきりとした。
ひょっとしたら寒いのだろうか。俺は自分のマフラーを抜いて広げ、アーニャの肩にふわりと掛けてやった。
「ふふ、お優しいのね」
たおやかに微笑み、耳元でささやくアーニャ。香水の銘柄は分からないが、優雅で甘い香りを漂わせている。俺は急にこそばゆくなり、咳払いを一つした。
「じゃあ、わたくしからもお返しを」
アーニャは鞄から、チェックのマフラーを取り出した。……一昨日、部室で編んでいた奴だ。
「いまのわたくしには、これが精一杯。お似合いですわよ?」
ネクタイを締めるように、俺の首元でマフラーを結ぶアーニャ。整った顔が近くに来て、俺はドキドキした。
しばし、何も言わずに
昨日のアーニャの真意を問わなければならないのに、横たわる沈黙が重苦しい。同様にアーニャも、何か言いたげな様子だった。二人とも、話し出すきっかけを探しあぐねているのだ。だが、このままではラチが明かない。俺は意を決し、口を開いた。
「「あの」」
声が重なる。機会を失ったアーニャは赤面し、視線を落としてしまった。俺は自然と顔をほころばせ、優しく告げる。
「いいよ。先に」
俺の言葉に、肩に羽織ったマフラーを握りしめるアーニャ。妖しいほど繊細な顔の造作に、一瞬の躊躇が浮かぶ。愛らしい金髪の少女は、数秒を置いてやっと口を開いた。
「航也さん。マヤさんからも言われていると思いますけど……わたくしと、お付き合いして下さいませんこと?」
心臓がどくりと跳ね上がる。ついに来た。雰囲気を察して覚悟はしていたものの、やはり動揺してしまう。
勘からか、それとも宣戦布告でも受けたのか。アーニャは既に、マヤが俺に思いの丈を告げたと知っていた。
「……本気か?」
アーニャは身を寄せたまま、あの澄んだ瞳で揺るぎなく俺を見つめる。俺は思わず立ち止まり、彼女もそれに従う。いつの間にか、俺達は
「――本気じゃなくて、あんなことするわけがありません」
言い寄る
「だってお前、高校を卒業したらソ連に帰るんだろ。終わりが前提の恋なんて、俺は好きじゃない」
そう。飛行機で通うには、鉄のカーテンは厚すぎる。だが何がおかしいのか、アーニャは俺の言葉を聞いてくすりと笑った。
「あら、帰りませんわよ? わたくし、この街が気に入りましたの」
「何言ってる。再来年の三月で、お前の留学ビザ切れるだろ」
まさかこいつ、外人パブでハラショーとか言いながら酌をして不法残留する気か? いぶかしげに尋ねる俺に、アーニャはにこやかに続ける。
「わたくし、在札幌ソ連総領事館に採用になりましたの。ちょっとツテを使いましたけど」
……驚いた。そこまでコトを進めているとは。俺も北大に進学するつもりだったので、地理的な問題はないと言えばなくなるが……。
「それで、航也さん? さっきの答えがまだですけど――」
アーニャはそこで言葉を切り、俺の答えを静かに待った。
どうやら、アーニャは本気で日本に残ろうとしている。ならばマヤには悪いが――俺は、その覚悟に応えたい。
「――俺でよければ、喜んで」
「良かった。断られたらどうしようかと思ってましたの」
「おい、ここは学校の近所だぞ。見られたらどうする」
俺がたしなめると、アーニャは笑ってチラリと舌を出した。
――こんな表情もするんだな。それは学校では澄ましてばかりの彼女が、俺だけに見せてくれる表情だった。
「結婚式は、豊平館で挙げましょうね?」
すぐ側にそびえ立つ二階建ての洋館に目をやって、アーニャは嬉しそうに言った。そう言えばここは、市営の結婚式場だったな。さすがに気が早すぎると思ったが、そこに水をさすことはしなかった。
ふと空を見上げると、小雪が舞い始めてきている。空具合から見ると、夜には本降りかもしれない。ガラにもなく、まるで天が俺達の前途を祝福しているようだと思ってしまった。
豊平館を後にして街を目指す俺達の談笑は、無粋な着信音で遮られた。俺のではない。アーニャのだ。
俺に断りを入れたアーニャは受話ボタンをタップし、早口のロシア語でやり取りを始めた。漏れ聞こえるのは、低い男の声だ。
『! 日本の民警が、東京から工作員を投入――この国も一枚岩ではない、ということですか』
早口のロシア語は聞き取りづらかったが、アーニャの表情が険しくなったのが分かった。
『復唱します。ソヴィエト連邦は北樺太の原油採掘権を約束手形として受け取り、アイヌモシリ共和国を国家承認。じ後、同共和国への内政干渉に対しては同盟国として応対します』
アーニャはそれだけ言い終えると、電話を切る。話の内容から、総領事館関係なのだろうということは推測できた。
「……すまん、聞こえちまった。出たのか、国家承認」
「ええ。近いうちに、日本のメディアでも報道されると思いますわ。これから、わたくしを含むソヴィエト人民の立場は危うくなります。なにしろクレムリンは、日本から見れば反逆者でしかない勢力を『国家』だと認めているんですもの」
「ことによると、留学ビザの取り消しもありうるかもしれんな」
「今日は水曜日、選挙が金曜日。そこまで事態が進む前に、投げられたコインの表裏ははっきりしますわ」
いつも穏やかで冷静なアーニャが、珍しく真剣な眼差しを見せる。キスのときのおどけた態度といい、俺はまだ、アーニャについて知らないことが多すぎるな。
アーニャはロシア語に切り替え、話の穂を接いだ。人に聞かれてはまずい話、ということだ。
『航也さん。わたくしは日本政府内務省の妨害を排除するため、そして祖国ソヴィエトのため、アイヌモシリ共和国支援の任につきます。この政変には、マヤさんも共和国サイドの当事者として深く関わっています』
『マヤが……その情報は確かなのか、アーニャ』
『ええ。先方の情報部ソ連総領事館担当が、彼女ですわ』
『アーニャ、一つ尋ねる。どうして一介の留学生が、総領事館にツテを持っていた? 今の話だって、普通はお前のところに来る情報じゃない』
『それは、わたくしがソ連地上軍に
言って、アーニャはコートの内ポケットに手を伸ばす。そこから取り出された身分証には、確かにアーニャの名前と生年月日、認識番号と少尉補の階級がロシア語と英語で示されていた。
一呼吸の間を取り、アーニャは続ける。
『あまり驚いてらっしゃらないのね』
『なんとなく、そんな気がしていたんだ』
『それでは記憶が戻り始めているのかもしれませんわ、
『タヴァー……なんだと?』
『航也さんがソ連で記憶を失うに至った経緯まで、わたくしはよく存じてますわ。交通事故で頭部に外傷を負ったためとされていますが、実は違う。「白色旅団」から逃げる際に負った傷です』
『白色……旅団?』
『わたくしが内偵のために潜入していた、ロシア正教系の反政府組織ですわ』
荒唐無稽な話にしか聞こえないが……このタイミングで出てきた軍の身分証も本物にしか見えなかったし、アーニャが仮にソ連当局と無関係なら、俺の記憶喪失の件を知っていることの説明がつかない。
『航也さんが眠っていたとされる期間、「白色旅団」は交通事故の現場から生き残りの日本人少年を「回収」。全くの素人だった航也さんはわたくしの教導のもとで、工作員「ニコライ」として非合法活動に従事していました。目撃者と潜入者……立場は違いますが、濃密な日々でした』
つまり俺とアーニャは、かつてソ連で師弟の関係にあったということか。それも、テロや暗殺の技術を教え込むための。
そのことを聞いた途端、忘れ去っていた今朝がたの悪夢が、確かな実感を携えて蘇ってきた。
……そうだ。俺は今、夢に見た少女の声を耳にしている。あれは俺自身が、直に体験したことだ。
頭で分かっているわけではない。だが、夢の中で味わったあの感覚が、あれは現実だったと教えてくれる。だからこそ、俺はアーニャの突拍子もない話を信じる気になった。
――ああ、今分かった。俺がこの前の射撃訓練で、あんな成績を出したわけを。
あれは、俺が何度も行っていたことだった。だから、射撃のノウハウを体が覚えていたのだ。
だが一つ、疑問がある。夢の中で俺はアーニャのことを『カーチャ』と呼んでいた。その疑問を見透かしたかのように、アーニャは昔語りを続けた。
『わたくしは当時、エカチェリーナと名乗って「白色旅団」に潜入していました。航也さん、「エカチェリーナ」の愛称形をご存じですわね?』
『ああ。カーチャ。または――カチューシャ』
なるほど。そういうことか。アーニャのつけている『カチューシャ』は彼女なりの戒め、或いはサインだったわけだ。
『だが分からない。なぜ俺が「白色旅団」とやらの工作員に?』
『それは航也さんを守るためですわ。そうでもしないとご両親ともども、白色旅団の
『――まさか』
『ご両親が亡くなられた交通事故は、白色旅団の偽装工作です。お父様が持っていたクレムリンとのパイプが災いして、あんなことに――』
鈍い衝撃が、頭に訪れる。俺が今の境遇にいるのは、『白色旅団』とやらのせいだというのか。アーニャは俺の様子を横目でちらりと見て、続ける。
『ご両親は白色旅団の襲撃を受けたとき、航也さんをかばって命を落とされたと聞いています。特にお父様は、少しでも航也さんが遠くへ逃げられるよう、自分から敵の銃口に立ち向かわれたそうです』
親父がそんなことを……。なんてことだろう。俺は衝撃のあまり、頭を抱えた。鼻の奥がツンと熱くなったが、必死で涙をこらえた。
『現場から間一髪で逃げ出した航也さんは、運良く「白色旅団」の追撃を巻きました。しかし彼らとしては、目撃者である航也さんを生かしておくわけにはいかない。それで、航也さんを消すようにわたくしに指令が……。一計を案じたわたくしは、捕らえた航也さんを相棒としてスカウトしましたの。上には「あの少年には工作員としての
なるほど――だから俺の首と胴体は繋がっているというわけか。なら、アーニャに感謝しないとな。
身を挺して俺を守った両親と、策を弄して俺を救ったアーニャ。彼らの厚意の積み重なりが、俺の命を繋げてきたのだ。
『ソ連当局は白色旅団を抜けた航也さんの居場所を掴んでいましたが、彼らが知ったのは今年の始めです。そして彼らにとって今の航也さんは、組織の機密に触れすぎた脱走者というわけですわ。当然、航也さんの口を封じようと画策する可能性があった。ですからわたくしが当局の指令で、航也さんを護衛するためこの島に来たのです』
『そういう、ことだったのか』
なんというか、ため息しか漏れてこなかった。アーニャの話はそれほどまでに衝撃的で、かつ整合性に満ち満ちていたのである。
メッセージアプリの着信に気づき、アーニャがスマホを取り出す。アーニャはまなじりを決すると、俺に向けて告げた。
『今夜遅く、共和同盟幹部の護衛任務があります。わたくしは狙撃手として参加の手はずですが、
『それはつまり――この政変で、共和同盟の側につけと?』
『日本人の航也さんに、難しいことを言っているのは重々承知です――ですがわたくしはもう一度、航也さんに背中を預けてみたいのです。イデオロギーや、国家などではなく』
ズルいぞ、そんな言い方は。断れないじゃないか。
『……現有装備、帝国陸海軍制式、九ミリ拳銃。それくらいしか役に立つものは持ってないが』
『驚きましたわ。どうやって調達したんですの?』
『俺の同居人の職業を忘れたか? 護身用さ』
『十分です。オーダーは今夜。わたくしは部屋に装備を取りに戻りますから、一緒に来てください』
▼
アーニャの借りている部屋は、俺が想像する『女の子の部屋』とはずいぶん趣が違った。
女きょうだいがいるわけじゃないので勝手な妄想かもしれないが……壁にアーミーナイフやら特殊警棒やらが吊るしてあるのは、やっぱり普通の女子じゃないと思う。
挙句の果てには、刀掛けに大小まである。ここだけ見たら、完全に日本かぶれのソ連人だ。――いや、アーニャの日本語力はそんじょそこらの日本人よりはるかに上なんだけどさ。英文和訳の試験で『ウェディング・セレモニー』を『華燭の典』と訳したのは、いまだに学校中の伝説になっている。
アーニャは俺に紅茶を出すと、引き出しへと向かった。その中から出てきたものは、白い
「航也さん。これは、航也さんが白色旅団に拘束されたときに没収されたものですわ。この場を借りて、お返しいたします」
「……見させてもらうぞ」
「はい」
頭の傷がズキズキとうずく中、
俺の様子にただならぬものを感じたのか、アーニャが身を乗り出してきた。
「大丈夫、ですの?」
「ああ、問題ない」
俺が包みを開けると、中から出てきたのは――紺色の『大日本帝国旅券』?
「これは……」
途端、情報の奔流が脳髄を駆け巡る。な、なんだ……?
―ー殺される。
――殺される。
――逃げないと、殺される。
モスクワの路地の中を、敵の追手から逃げて逃げて、また逃げて。
『本気でかかって、きていらして』
薄暗くて寒い地下室で、『カーチャ』とナイフでの殺し合いを強要されて。
『最終的な目標は、こうですわ』
目の前で、目にも止まらぬ速さでレンガが射ち抜かれて。
『テストは合格ですわ、同志ニコライ。過去とは思い出すもので、抱くべきものではありません』
――俺は最終試験として、ソ連地上軍特殊部隊の大尉を殺した。
吐き気がこみ上げ、思わず流し台に駆け寄る。そして俺は、無様に胃の中のものをぶちまけた。
「はあっ……はあっ……」
もう、何も出ない。胃がキリキリと痛む。あんなことを、俺は……失われた日々の中で、やっていたというのか。
自然と、涙が流れた。ただひたすら、やるせなくて怖かった。
涙が顎を伝い、シンクに流れ落ちる。アーニャは俺の口元をタオルで拭うと、口をゆすぐための水をコップに汲んでくれた。
「……すまん。ありがとう」
「いえ。そんなに取り乱されるなんて、わたくしも思っていませんでした。申し訳ありません」
「謝るな。俺を助けるためにしてくれたことなんだろう?」
「でも……」
俺は口をゆすぐと、アーニャに向き直った。
「気に病まないでくれ。むしろ感謝してる。人間、頭で覚えたことは忘れても体で覚えたことは忘れない。足手まといにはならんと思う」
「そう言って、いただけると」
アーニャはぺこりと俺に頭を下げる。
「では、今夜の任務にも同道していただけるのですね?」
「当然だ」
「分かりました。それではわたくしが長距離支援射撃――つまり狙撃をしますから、航也さんには『
▼
――この構図はいったい、何なんだ。俺は
状況としてはこうだ。配属将校の杉原たかね少尉が共和同盟の幹部と密会していたところを、女性警察官の制服を着た少女が警官用のサーベルではなく日本刀で強襲。
少尉もそれに軍刀で応戦し、共和同盟の幹部は逃亡。その少尉に支援射撃を加えるべく、アーニャがスコープごしに狙いをつけているのが今の状況だ。現在進行形で修羅場を踏んでいるのだが……二人の戦いは刃物によるもの、すなわち二十一世紀のこの時代に『白兵戦』だ。
一方でアーニャが構えている狙撃銃は、確かドラグノフの後継……SV98だ。学校教練で習った記憶がある。兵役の際には本籍地がある連隊を基準に召集されるため、地理的に近いソ連軍の装備についてはブリーフィングがあった。ほぼ真下を狙う関係から、薬莢の回収は難しいが……暗視装置をつけているなら、この天候・風速・角度・温度・湿度・距離でも当てることは造作もないだろう。
「引き返すなら、今ですわよ」
「今更かよ。……敵、杉原少尉を前に膠着状態に。どうやらにらみ合ってる。どちらも動けないみたいだ。……! 敵方に動き。杉原少尉の刀が、狙撃された模様。なんて精度だ」
「分かりました。殺せとまでは命令されていませんし……こちらも同様に敵の刀を狙い、無力化します」
アーニャの決然とした言葉に、俺は再び単眼鏡をのぞき込んだ。抜身の刀は俺達がいる角度から見ると、幅数センチでしかない。
「……っ!」
アーニャは目を見開くと、ガク引きにならないように『暗夜に霜が降るごとく』引き金を絞り込んだ。
続いて、銃声がサプレッサーにかき消される。
「――命中、お見事」
俺が戦果を口にすると、アーニャは総領事館のスタッフに『任務完了』の報告を入れる。それにしても、すげえ腕だ。寸分たがわず、武器だけを破壊するとは。
「参りましょう。狙撃手がこんなところに残っていても、ろくなことにはならないと教えたはずです。特に、敵方にも狙撃手がいる状況では」
「いや、違えねえ。明日からの『再訓練』も、宜しく頼むわ」
俺は狙撃銃の分解を手伝うと、パーツの一つ一つを手早く運搬用のスポーツバッグに納めなおす。
この夜。金髪の少女は、硝煙の匂いを嗅いだのだった――
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