第四章 さても一座の皆さまよ 令和十年十二月十二日(火) 宮坂航也
令和十年十二月十二日(火) 北海道札幌市・甘粕真琴宅
「陸軍将校には、私物拳銃の所持が二丁まで認められています。この予備の銃とホルスターを、護身用として貸し与えます。使い方は学校教練で習っていますね?」
「え? あ……は、はい。習ってます」
昨日、日付がとっくに変わったころに帰ってきた甘粕さんは俺を起こし、こう言って陸軍の制式拳銃である『九ミリ拳銃』を俺に手渡してくれた。
『次』があったとしたら、昨日のようには行かない。自分の身は自分で守れ――そういう意味だろう。俺の分別を信頼して貸してくれたのだと、そう理解している。
さて。今日は不思議と、気持ちよく目覚めることができた。相変わらず覚えてはいないが、どうやら夢見は良かったらしい。
悪い夢から覚めた朝は、どことなく陰鬱になってしまうものだ。だが今朝は違う。天気も快晴で、久々の清々しい朝だ。
甘粕さんを送り出し、食事の後片付けを終えた俺は、鞄に教科書類を詰め込んでいた。
昨日は疲れ果てて、今日の準備などすっかり忘れて寝入ってしまったのだ。
線形代数の教科書を探していると、けたたましい呼び鈴が鳴った。マヤの大声が、ドア越しに部屋の中へと響く。
「コーヤぁー、早くしないと行っちゃうよー」
「じゃかあしい、ちょっと待ってろ!」
机の片隅に放り投げられていた教科書を鞄に放り込み、俺は学ランとコートを羽織った。
「コーヤ、早くしてぇっ、焦らさないでよぉ……っ! もうっ、あ、あたし、イっちゃうよぉっ!」
「黙れやぁ、この痴女っ!」
頭が痛い。あのタクランケ、鍵持ってるのにわざわざ廊下で叫びやがって。
俺は足音を響かせ、猛然と玄関までダッシュすると勢いよくドアを開けた。冷気が急速に部屋に入り込み、軽く身震いする。
「あ、おはようコーヤ!」
満面の笑みをたたえて俺を迎えるマヤの息は白い。催促しているつもりか、ご丁寧に腕を振って足踏みまでしている。
髪にはお決まりのヘアピン。いつもながら広い額だ。いいよな、こいつは。悩みなんかなさそうで。
「このアンポンタン! 誤解を招く発言は控えろと昨日教えたばかりだぞ」
こいつの普段の言動を見ている限り、こいつの無駄に優秀な成績は何かの間違いだと思えてならない。
日本の『高校』は、アメリカとは違って高等教育機関だ。これは他国でも、あまり類がない制度である。
俺達の世代の人口は、四十七道府県――つまり法律上の『内地』だけで一学年あたり約百二十万人。そのうち、高校に進学できるのはわずか一万七千人だ。これは内地に七つある帝国大学の定員に合わせてあって、高卒者はどこかの帝大には潜り込めるようになっている。日本の高校受験は厳しいが、大学受験はないに等しいというのはそういうカラクリだ。
何が言いたいのかというと、目の前にいるこのアホは、北海道どころか国内レベルでも超絶エリートだという事実に対する驚嘆、もとい悲嘆である。
……と、いかんいかん。はんかくさい事をダラダラ考えてる場合じゃない。遅刻してしまう。
「ほら、ダベってねーで行くぞ、マヤ。遅刻すんべや」
俺はマヤの手を取り、エレベーターへと足早に歩いていった。
▼
「しかし、お前といいアーニャといい、この時期によくナマ足で歩けるな」
うちの学校の冬服は、プリーツスカートに黒の長袖セーラーというごく普通の制服だ。
これは、道内で初めての高等学校として南高が設置された頃からの伝統だ。札幌の冬は冷え込むので、スカートは長めに作られている。
タイツやストッキングを穿けば少しは温かくなると思うのだが、マヤやアーニャは普通の靴下しか穿いていない。
「え? なになに?」
少し前を歩くマヤが、軽やかに振り返る。
「バカ、あぶねぇって」
いつの日になったら、こいつはちゃんと雪道を歩けるようになるのか。
去年は通学途中に『モンローウォーク』を真似しようとして転んでいた。あれは、靴の高さをわざと変えてるからできるんだぞ。それにマヤの小さな尻じゃ、絵にならん。
しょうがないので俺は、少し足を速めてマヤの隣に並ぶ。
「ナマ足で歩けるのは女子高生の特権だよー。健康的な感じでソソるっしょ?」
「ソソらない。見てて寒いだけだ」
「ふーん。ホントかなぁ~」
マヤは腰をかがめ、意地悪い笑みを浮かべながら俺の顔を下から覗き込む。だから危ないってのに。
「何が言いたい、マヤ」
「ねぇコーヤ、いいコト教えてあげよっか」
「どうした」
マヤは俺を立ち止まらせると、耳に手をあて、ついばむような声で囁いた。温かい息が、
「あたし今、ぱんつ、はいてない」
「な、なに?」
不覚にも、背筋がゾクゾクした。マヤは俺の手を取り、自らの太腿にそっと触れさせた。
「ね、見たい……?」
媚びるような視線で、俺を見つめる。俺は思わず、太腿から手を振り払った。
冗談じゃない。冗談じゃないぞ。天下の往来でそんなことしたら、お巡りが来て補導……というか逮捕されるぞ。
自分の頬が、少し熱を帯びているのが分かる。からかいやがって。俺は叫んだ。
「俺は朝から、そんな妙なモン見たくない!」
「はいはーい、嘘つかない。ほらっ」
俺が目を覆う間もなく、マヤはニヤニヤと笑いながらスカートの裾に手をかけ、俺に見せつけるようにパッとめくりあげた。
一瞬、俺の心臓がどくんと跳ね上がる。だがマヤは、下に体育用の運動着をしっかりと穿いていた。
――お前な、それはお約束過ぎるぞ。今どき小学生でもやらないぞ。
「マヤ! 俺の純情を返せ!」
「キャハハ、こっちだよーだ」
爛漫と笑いながら、マヤは学校へと駆けていく。
空はこの時期には珍しく、抜けるような晴天だ。透き通った朝の空気を胸一杯に吸い込んで、俺はマヤを追って走り始めた。
▼
俺とマヤが教室に入ると、まるでお天気の話をするかのように、クラスの皆が思い思いに昨夜の暴動についての議論を交わしていた。アーニャはまだ来ていないようだ。
あれだけの騒ぎがうちの学校の近く、道都のど真ん中で起こったのだ。話の種に飢えた連中の関心をひかないわけがなかった。
しかし妙な話もあるもので、今回の暴動についてのマスコミ報道は一切流れていなかった。今朝のテレビもいつもと変わらなかったし、三面記事のどこにも載っていない。だがインターネットが発達した現代では、あれだけの暴動を完全に隠蔽することなど到底不可能だ。現に、SNSでは現場の写真が大量にアップされていた。それゆえに、暴動を無視するマスコミと騒ぎ立てるネットの論調とのコントラストが、心なしか悪魔的な趣を呈している。
恐らく、選挙への影響を
「おはようございます。昨日は大変でしたわね」
「おす、アーニャ」
「アーニャ、おーはよっ」
遅れてアーニャが教室に着き、腰を下ろす。
扇のように広がったのは、気高く薫るアーニャの金髪。まるで、朝日の爽やかさをまとったかのような輝きだ。髪の上のカチューシャが、金の髪に彩りを添えていた。
「そういえば、前から不思議に思っていたのですけど……その『おす』という言葉は、どういう意味なんですの?」
「なんだ、和露辞書には載ってないのか?」
「残念ですけど」
スカートを品よく直しながら、アーニャが尋ねる。彼女の着る香水の甘い香りが、あたりの空気を揺らした。
普段は博識なアーニャだが、たまに誰でも知っているようなことを知らない。ある種のギャップ萌えとかいうやつだろうか。
「おす、ってのは大日本武徳会が京都に持ってる『武道専門学校』で使われ始めた挨拶だ。『おはようございます』が縮まって『おす』。それが剣道や柔道を通して、全国的に使われるようになったんだ」
ま、杉原少尉の受け売りだけどな。
「勉強になりましたわ、ありがとうございます。あら――そろそろ高山先生がいらっしゃいますわよ」
あのバカはものぐさのため、毎日のHRの直後、一時間目に自分の授業を設定している。移動に手間をかけないためだ。
と、勢いよく扉が開く音がした。
「ボンジョルノ、諸君。私は、新しく君らの担任になったムッツリーニ総統だ! 私の授業のドレスコードは、男子は制服、女子は靴下を除いて全裸だぞ!」
ワケの分からない妄言を叫びながら、頭のネジが飛んだ人が入ってくる。俺はげんなりしながら一時間目の歴史に備え、ノートを机の上に並べ始めた。
▼
「
俺達が放課後の稽古を終えようとする頃、軍刀を提げて剣道場を訪れたのは顧問の杉原たかね少尉だった。
端正でチリ一つついていない軍服。ツカツカと隙のない身のこなし。その様はまるで、抜き身の刃。女性でありながら、どこか古武士のような雰囲気すら漂わせている。
この人は『剣』が絡むと、かなり人格が変わる人なのだ。学校教練のほうは、正直な話あくまで『副業』である。
「少尉、何か御用でしょうか」
射撃訓練の件もあり、俺は少し気まずげに応えた。
「三人とも、
恐ろしい威圧感である。誰からとでもなく、俺達三人は少尉の前に雁首をそろえ、
こ……断れん。というか――
「あの……どういう風の吹き回し、でしょうか」
「なに。剣道部で受け持ちの生徒三人が、無事に生還したというじゃないか。憲兵隊から連絡があったぞ?」
ああ、それで……。
「竹刀を持っていながら
少尉はどこか遠い目で、そんな言葉を口にした。
死なせてしまった部下と、生還を果たした教え子と。場所も立場も、そして何より結果も違う。だから少尉は――俺達が思っている以上に、俺達の『生還』を嬉しく思っているのだろう。
そのまま四人そろって、部室の奥にある和室で夕食という流れになった。目の前には、少尉のポケットマネーで出前してもらった特上の握り寿司が四人前。それに『森伊蔵』なるラベルが貼られた焼酎の一升瓶が一本。部員の三人はまだ酒を飲めない年齢だから、これは杉原少尉が飲むためのものだ。『定価』と『相場』に天と地ほどの開きがある、いいお酒だと聞いている。恐る恐る値段を尋ねると、もはや『末端価格』という言葉のほうが似合っているレベルだった。ちなみに俺達の前には、普通の煎茶が湯気を立てて並んでいる。
「清酒じゃないんですね。意外です」
てっきり、江戸時代の武士みたいに蓋つきの
「醸造酒はいかん。体の中に『よどみ』ができるし、翌日に残る。その点、蒸留酒はあとを引かんし、割り方も自由だ。――三人には、まだ早い話だったかな」
少尉はそこで言葉を切ると、佇まいを正した。
「さて。食べ始める前に、しておきたい話がある。三人は『確信犯』という言葉を法学の授業で習っているか?」
三人を代表し、俺が答えた。
「宗教、政治思想など内心上の犯行動機により、自らの犯行が正しいと思って行われる犯罪類型のことです」
「そうだ。分かってはいるかと思うが、昨日のススキノ騒乱事件は典型的な確信犯に当たる。確信犯は思うところあっての犯罪だから、損得勘定が通じない。だから被害に遭った場合、退き際が大事なんだ。これから物騒なご時世になってくると思うが、身を守るためにそこは覚えておいてほしい。――それからもう一つ」
言うと、少尉は突然畳に両手をついた。
「昨日の騒乱事件を引き起こした元軍医大尉・北川小五郎は、私の第十一旅団時代の忘れがたき戦友だ。これについて、弁明する気は一切ない。三人とも、この通りだ。この件は我々、朝鮮帰還兵の不始末である。申し訳なかった」
「な……! そんな、頭を上げてください少尉! 少尉が頭を下げる筋合いなんて、どこにもありません! だって少尉は……」
皆まで言わせず、少尉は顔だけをあげる。
「確かに、私が謝る筋合いではないかもしれない。だがその代わり宮坂、私にも彼らのことを一つだけ代弁させてくれ。彼らにも……そして彼らに同調する朝鮮帰還兵にも、『思うところはあった』のだ。……この歳になってようやく、そうやって世の中が回っていくのだと思い知らされたよ」
重たい空気が、しんと場に落ちる。沈黙に耐え切れなくなったように、少尉は焼酎の蓋を空けた。
「三人とも、入学は現役だったな。なら、一人で
▼
「……寝ちまったぞ」
「あらあら……そうですわね」
普段の威厳などかけらもなく、盛大に寝入ってしまった杉原少尉を俺とアーニャが覗き込む。まあ酔ってくだを巻かれたり、絡み酒されたりするよりは楽なんだけどさ……。
どんなに強い剣客でも、酒が入れば隙ができる。酔ったところで芹沢鴨を討ち取った試衛館一派は正しかった。
「どうするよ、これ?」
俺が二人を見渡すと、マヤがビシッと人差し指を向けてきた。
「あたしはお酌してたコーヤが、全責任を取るべきだと思う!」
「な……!」
「なによ、大人の色香にデレデレしちゃってさ。コーヤって年上趣味だったんだ」
「違ぇよ! 手酌させるのは失礼だし、お前なんか高級酒のラベルを下にして注ごうとしただろ!? 消去法だ!!」
俺はツッコミを入れながら、合宿用の布団を引っ張り出す。
「なになに、あたしたちの前で公然とお布団広げて、準強姦に及ぶの?」
「しない! 犯す前に人前で布団を敷くバカがどこにいる! そして準強姦は不同意性交にとっくに変わった! 単に寝かせるためだ!」
……ダメだ、ツッコミが追い付かない。
「アーニャ、水差しに水汲んどいてくれ。それから、誰かラムネ菓子……というかブドウ糖を含んでいるもの持ってないか?」
「あ、それならあたしが持ってる」
マジで持ってたよ、こいつ。もう高校生だろうが。
「あー。じゃあすまんが、そいつも貸してくれ」
水にラムネ……これを枕元の盆に置いておけば、まあ明日の仕事に響かない程度には回復してくれるだろう。
水は飲酒後の脱水症状を、ブドウ糖は低血糖状態を改善する。ほぼほぼ民間療法だが、少なくともシジミ七十個分よりは効くと思う。
あとは、少尉の蒸留酒に対する飲酒哲学を信じるしかない。
「で、どうするのコーヤ?」
「うーん……酒が入った少尉を、ここで一人放置するわけにもいかないだろ。他の先生に相談するのもまずいし。幸い、体育会の部室棟は校舎と違って二十四時間開放されてる。部長の俺が部室に残って、急性アル中とかの事故に備えるよ……っておいマヤ、そこまで露骨にドン引きしなくても」
あからさまに距離を取ったマヤとは対照的に、アーニャはいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。うーん、この場合どっちが怖いのだろうか……。
「寝返りとともに漏れる悩ましげな吐息……和室に染み渡るかすれた息遣い……ああ、そしてコーヤは自らを抑えられず……!」
「いちいち言うことがピンク色の脳みそダダ洩れなんだよ、お前は! そして普通に考えて、抑えられなくなった時点で斬り殺されるわ!」
「だってコーヤ、エッチになればなるほど固くなるもの持ってるじゃん」
「たわけ! 鉛筆ならお前も使っておろうが!」
「決めた! あたしも泊まる! 少尉がコーヤを斬った時、ちゃんと正当防衛になるよう証言するんだから!」
「……もういい。好きにしろ」
抑えられないことが前提なのかよ。それと、せいぜい過剰防衛だからな、その場合? 断じてしないから、はっきりとは言えないが。
「あの……わたくしも一人暮らしですし、泊まらせていただきますわ」
「え、アーニャもか?」
「はい。航也さんに限ってとは思いますが、マヤさんも泊まるとなれば万が一にも間違いがあるといけませんものね?」
う……天使のほほえみ。そうだよ、ものには言いようってものがある。マヤに欠けているのはそこだ。IQは高いがEQが低い、残念な奴である。
「分かったよ。シャワーは部室棟のを使うとして、身の回りのものもあるだろ。調達が必要な場合、ここに最低一人は残して、家に取りに帰るか買い出ししてくること。俺も出かける」
下着と歯ブラシくらいかな、俺は。一度帰るつもりだが、まあどこででも手に入るだろう。
かくして、南高剣道部は一日限りの秘密合宿を決行することになったのだった。
▼
すっかり暗くなった冬の町並みを、俺とアーニャは並んで歩く。振り返ると
眠らぬ街に夜明けは来ない。そろそろこの街も、まぶたが重くなってくるころだ。道路を走る自動車のエンジン音が、俺の鼓膜を優しく震わせた。
部室に残っているマヤは地下鉄で、俺とアーニャは徒歩で通学している。俺もアーニャも自宅は学校の最寄り駅から近いので、家に戻って服を取ってくるのにそう時間はかからない。
……さて。ひとくさり歩いていると、いつも別れている場所――地下鉄
「したっけ、アーニャ。また後でな」
そう告げてアーニャに背を向けると、アーニャは予想もしなかった言葉を口にした。
『航也さん。帰るのは、もう少し待ってくださらない?』
――ロシア語の響きに、俺は足を止めた。振り向くと、
俺はソ連に住んでいたので、ある程度のロシア語は分かる。だが俺達――いつもの三人が揃っているとき、ロシア語を使うことはタブーだった。
なぜならロシア語を使うことが、ロシア語を知らないマヤに対する裏切りを意味するからだ。ソ連に住んでしばらくのころ、ロシア語がろくに分からず疎外感を覚えた経験が俺にもある。それを知っているからこそ、俺は剣道部のメンツでいるとき、決してロシア語は使わないようにしていた。
そりゃ確かに、この場にマヤはいない。俺とアーニャだけだ。だが俺は、アーニャがわざわざロシア語で話しかけてくる意図を量りかねた。
『どうした、アーニャ。ロシア語なんて、話したり、して』
記憶を辿りながら、俺は辿々しくロシア語で返す。アーニャは髪を押さえながらにっこりと微笑み、ロシア語のまま続ける。
『航也さん。わたくしと秘密のデート、してみませんこと?』
『え?』
俺は心臓が
「お買い物ですわ。昨日の今日ですし、こんな時間に一人で帰るのも危ないですし……それなら、殿方と一緒に街中でお買い物したほうがいいですもの」
と、殿方って……。でもまあ、頼られて悪い気はしないな。女性が一泊するんだったら、狸小路のドラッグストアにでも寄りたいところだろう。
「インポートの下着も、ちょうど地下街で買いたいと思っていましたの」
インポートって……ああ、輸入物か。女子って、たまにこういう謎の言い回しするんだよな。
ちなみに、俺は今更女性用の下着くらいでうろたえない。家主のものを、毎日手洗いしているからである。
軍人はいつ有事があるか分からないからと言われ、とにかく念入りにだ。
「そういうことなら、マヤにメッセージ送っておくな」
スマホをいじって、マヤに戻りが遅れると伝える。ここからだと――やっぱ、地下鉄南北線ですすきの駅まで行くのが早いか。
俺は階段に足をかけ、アーニャを促しつつ改札口へと向かう。と、アーニャが俺の腕に自らの細腕を絡めてきた。
「お、おいアーニャ」
「モジモジしないで、航也さん。こっちを向いて。せっかくの『デート』ですもの、楽しみましょう?」
▼
すすきの駅で降りた俺達はまず、ドラッグストアに寄って日用品を確保した。それからアーニャの野暮用で、地下街のランジェリーショップだ。デートで女子に寄られると困るスポットでランキングを作るなら、かなり上位に入ると思う。なんというか、その……いたたまれなかった。インポートって言ってたのは、国産品じゃサイズが合わなかったからなんだな……。
「今夜はありがとうございました、航也さん」
「いや、なんもさ」
「それじゃ、今日のお礼にわたくしから……」
買い物を終えると、アーニャは『警護料』という名目で近くの観覧車に誘ってくる。せっかくなので、俺はお誘いに甘えることにした。
狸小路五丁目の少し南、四十店舗弱が入居する商業施設『ノルベサ』。市街地のど真ん中だが、ここの屋上には『ノリア』という名前の観覧車がある。建物には『NORBESA』としか書いてないのでよく観覧車の名前自体がノルベサだと勘違いされるのだが、あくまで観覧車はノリアだ。存在自体は前から知っていたが、そこは地元の悲しさ。俺はまだ乗らずじまいだった。
乗り場の前に着くと、観覧車が回るたびに色とりどりのスポークが目の前を横切っていく。
「あの、五つ後ろのゴンドラがいいですわ。これは『デート』ですものね?」
アーニャが指さしたのは、ガラスがマジックミラーになっている白いゴンドラだった。
「……いかんぞアーニャ、男を勘違いさせちゃ」
「だってあんなゴンドラ、わたくしの故郷にはないんですもの。知らないものは一度は試さないと、了見を狭くするんではなくって?」
「そりゃ……そうだが」
ダメだな、どうにもペースが狂う。
「行ってらっしゃいませ。ごゆっくり」
俺はアーニャに腕を掴まれ、こそばゆい気持ちでモギリのお姉さんの見送りを受けた。
俺とアーニャを乗せた観覧車のゴンドラが、ゆっくりと上昇を開始する。
「綺麗ですわね」
うっとりとしながら、隣に座るアーニャが外の景色にみとれている。下に目を向けると、昨日暴動があった交差点が見える。
歓楽街のネオンサイン。オフィスビルから漏れる明かり。タワーマンションのリビングを照らすLED。
光の海にたゆたいながら、道都・札幌は夜の静けさに寄り添っていた。
街の明かりがゴンドラのガラスに乱反射し、きらめいては消えていく。
――いかん、妙な雰囲気になってきた。なんかムーディーじゃない話題、話題……。
「そういえば知ってるか、アーニャ? 冗談みたいな話だが、昔は東西に延びる狸小路に対して、南北の狐小路もあったんだぞ」
「そんなことを言ったら、わたくし最初は狸小路を『まみこうじ』って読んでましたわよ」
「? なんでだ?」
「ソ連大使館がある住所が、東京府東京市麻布区
「ああ……俺の親父はロシア・スクールの外交官だったから、そこなら知ってる。もともとあのあたりには、アナグマが住んでいたんだ。アナグマの古い言い方が『まみ』。昔はアナグマと狸が混同されていたから、狸の字を当てるようになったらしい」
「ふふ。わたくし、物知りな殿方って大好きですわ。一緒にいて退屈しませんもの」
「……そりゃどうも」
いかん。逆効果だったようだ。何か他に……俺はせっかく観覧車に乗りながら、目を閉じて不毛な考えを巡らせる。
と。
甘い匂いが揺れたかと思うと、膝に温かい重みを感じる。俺が目を開けると、俺の膝に横座りしているアーニャがいた。体重の移動で、ゴンドラが少し揺らぐ。
なんだ、一体なにが起こっている? 俺は混乱の渦の中に放り込まれた。
アーニャが小さな手の平を俺の肩に乗せ、胸板に乳房を押しつけてきた。心臓のリズムが、力強く高まる。
「お、おい。何しやがる、アーニャ。あんまりふざけてると……大声、出すぞ」
「でしたら……その口、塞いでしまいますわ」
次の瞬間、アーニャは唇を柔らかく重ねてきた。
「な、な、な……」
驚きの声は、言葉にならない。
「あら。航也さん――初めて、ですのね?」
アーニャはそんな俺の様子を見てくすりと笑い、俺の首に手を回したかと思うと、再びキスしてきた。
今度のキスは、さっきのような唇が触れあうだけのキスじゃない。舌を絡ませあう、濃厚で情熱的なキスだ。
甘い唾液の交換。生々しい舌触り。全てが奪われるような感覚だ。
アーニャが唇を離すと、荒い息が漏れる。彼女は酔いが回ったような、恍惚の表情を浮かべている。俺は弾むような動悸を感じつつ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「アーニャ、いったい」
「航也さん。わたくし、ちゃんと申しあげましたわよ。『これはデートですものね』って」
「そりゃそうだけ……」
「深く考えないでください。間違いがあるといけないって申し上げたでしょう? でもこれは、問題ありませんわ。だってわたくしは、本気なのですから――」
最後まで考えさせず、アーニャは唇と舌で俺の言葉を封じ込めた。熱い口づけで絡み合うアーニャの舌が、生き物のように俺の口腔を蹂躙する。
あまりの快感に、俺の意識がぼんやりしてくる。そのまま俺は、アーニャの華奢な肩に優しく手を伸ばした。
▼
部室への帰り道、俺とアーニャの間に必要以上の会話はなかった。
俺はまだ起こったことの整理ができなかったし、アーニャもそんな俺に話しかけてはこなかった。
でもフレンチキスならともかく……あれ、どう考えても本気のキスだよな。彼女は、遊びでああいうコトをする軽い女の子じゃない。
普段はつつましい淑女なのに、俺の前でだけあんな姿を見せてくれた。ということは、俺から言葉にしてほしい、ってことなんだよな――
「ただいま戻りましたわ」
「帰ったぞ、マヤ」
「おかえりー。二人とも、デートは楽しかった?」
からかうような突然の言葉に、内心どきりとしながら平静を装い、部室に入る。マヤは、待ちくたびれた顔で俺達に視線をくべた。
とっさにアーニャの表情を一瞥するが、いつもと同じどこか悟ったような面持ちが、アーニャの真意を覆い隠している。
「バカ、ただの買い物だ。お前も用事済ませてきていいぞ」
「あー、そのことなんだけど……」
マヤが、ちらりと和室のふすまに視線を送る。……少尉に何かあったのだろうか。俺は「失礼します」とふすまをわずかに開いて一度止め、静かに横に滑らせた。
「宮坂か……私としたことが、指導者の立場でありながら大醜態を晒してしまった。一生の不覚だ。面目次第もない」
「いや、お目覚めになったのなら何よりです」
目をつぶったままピシリと正座した少尉は、なぜか真正面に愛用の軍刀を置いていた。
「かくなる上は潔くこの腹をかっ捌き、自らの職務に忠実であった証を立てるしかない。ついては、介錯を頼みたいのだが」
……ああ、お目覚めにはなったけど酔っぱらっていらっしゃいますね。マヤも言葉を濁すわ、こりゃ。
「申し訳ありませんが、その儀はお断りさせていただきます。教員の顧問負担が問題になっているこのご時世、さらに追い討ちをかけてしまいますので」
究極のブラック業務……というか刃傷沙汰だったら『レッド業務』ってことになっちまう。それ以前に、自殺幇助で俺の手が後ろに回る。
「ご案じめさるな。短刀一本あれば足りもんそ」
「それは
不規則発言をけむに巻き、明らかに飛躍した論法で軍刀を素早く取り上げた。普段の少尉だったら、絶対にそんな隙は見せないだろう。
「か……返せッ! それはあまたの
あーもう、めんどくさい! この『うっかり侍』が!
「アーニャ、受け取れ!」
俺はとっさの判断で、軍刀をアーニャにパスした。この三人の中で、最も事態を収められる可能性が高いからである。
「え? ああはい、承知いたしました」
アーニャはすぐさまロッカーに軍刀をしまい、鍵をかける。そして今度は俺と交替する形で、少尉をなだめに和室へと踏み入ったのだった――
▼
俺とマヤは、少尉を家に送り届けるアーニャと校門の前で別れた。さすがは三人の中で一番『大人力』が高いアーニャの説得だった。酔いを醒ましてから、ちゃんと家に送り届けてくれるという。
マヤと二人、地下鉄の駅に向かう道を歩いてると、ふいにマヤが口を開いた。
「ねえ、コーヤ。さっきの買い出しで、アーニャと何があったの?」
『何かあったの?』じゃなくて、『何があったの?』……気づいていたのか。女の勘、というやつだろうか。
「隠さなくてもいいよ。……ううん、隠さないでよ」
「どうして、分かったんだ」
「見ればわかるよ……アーニャとなんかあったんだってことくらい。二人の間に交わされる視線に、特別な意味があるってことくらい。出かけたときと、全然空気が違うんだもん。コーヤ、隠しごとヘタなの変わってないね」
いや、別に隠してるつもりは……という言葉を、俺は飲み込んだ。結果だけ見れば、アーニャとのことを隠してしまったことになんら変わりはない。
「キス……された。記憶にある限り、生まれて初めて。だからちょっと、俺もいま混乱してる」
「したんじゃなくて、されたんだ。それで、どうしたの?」
「優柔不断だがどう答えを返していいのか、俺にもまだ分からないんだ。でもアーニャが俺にとって大事な存在である以上、考えに考え抜いて答えを出す義務が俺にはあると思う」
さっきから俺を質問攻めにしていたマヤが、急に立ち止まった。そして、俺の袖をつかんで足を止める。
「どうしてよ……どうして、あたしじゃなくてアーニャなのよ! 小さい頃からずっと一緒にいたのは、あたしなのにッ!」
「え……お前、何を……?」
「この
そうか……考えてみれば、その通りだ。わざわざ通学路から寄り道して、マヤは俺を毎朝迎えに来てくれていたんだ。
――もっと早く、気づくべきだった。
マヤは少し背伸びをすると、俺の首筋を両手の冷たい指で包んでくる。
「あたし……そんなに醜い? アーニャみたいに、きれいな金髪のロングじゃないもんね」
「そんなこと……あるわけない。ショートカットが似合う女は、小顔の美人って相場が決まってる」
「リップサービスでも嬉しいよ。ねえ……コーヤ。アーニャに答えを伝える前に、あたしにも同じことしてよ」
「っ……それは」
俺はためらった。長い付き合いだ。一線を……越えることになる。
「お願い」
その声色は、懇願と意地とをないまぜに孕んでいた。
「……分かった」
俺は唇をかきわけるように舌先を差し入れ、望むままに舌と舌を交じわらせる。
「んっ……キス、だめぇ……頭がしびれて、真っ白になっちゃう」
漏れ出た息の音が、耳を打つ。激しいキスで漏れた唾液がマヤのおとがいを伝い、ダッフルコートの胸元にぽつぽつと垂れていった。
「はぁッ……嬉しい、コーヤ。大好きだよ」
整った顔をしているものだから、唇を納めるタイミングがつかめない。
俺のためらいを見て取ってか、名残惜しそうに顔を離すマヤ。徐々に暗闇に目が慣れ、彼女の瞳が陶然と濡れているのを認めた。
「お願い、コーヤ。あたしを見て。あたしだけ見てて。そして――アーニャじゃなくて、あたしを選んで」
自分だけに心を開いてくれる女の子を、可愛く思わない男なんているわけがない。それはアーニャにも、もちろんマヤにも言えることだ。
「ダメなら……体だけの関係でもいい、からさ。二番目でもいいから、コーヤのそばにいさせて。赤ちゃんできちゃっても、文句言わないから」
「そんなことを口にするんじゃない。お前はもっと、誇りある女のはずだ」
「恋をしたらね、コーヤ。誰だってバカで、愚かで、何も見えなくなる。誇りなんてどうでもいいよ。コーヤが手に入るのなら。やっぱり……二番目じゃいやだよ……コーヤの一番になりたいよおおっ!」
マヤの痛哭に、ぐ、と喉を絞って息を呑む。
「……すまんが、少し時間をくれ。必ず答えは伝えるから」
俺は頭を下げると、正直に今の思いを告げた。
「……初めてだね、コーヤがあたしに頭下げたの」
思えば、そうかもしれない。
「分かった。待ってるからね」
マヤがそう告げると、この話は終わりになる。俺達はつとめて何事もなかったかのように、家路への道のりを急ぐことにしたのだった。
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