7.特徴
高校生の時から使い続けているペンケースと本のコピーを片手に、閑散とした部屋を見回した。壁一面にはくわがた組の面々が描いた絵が飾られている。
月に一度、クラス活動と称した授業を行わなければいけないなかで、僕ら担任はその殆どを同じテーマで絵を描く時間に充ててきた。今月はたしか、一歳下のあげは組がクラスメートの似顔絵を描いて、二歳下のばった組がスーパーで売っている魚や肉類のトレーを使った工作だったはずだ。
そろそろくわがた組も就学に備えてグループワークをさせるべきか悩んでいたところに、どこにでもいそうな優しそうなおばちゃん、もとい
「協調性はむしろいまの歳が一番高いから、焦って無理やり子どもたちをくっつけるよりは意見を言い合える場所を用意するべき」
そういって僕に手渡したのは年季が入った保育指南書のコピーだった。挿入写真の子どもは全員おかっぱ頭で、出版年代が古くて参考になるかどうかわからない。これなら僕が試験対策に使っていた参考書のほうが時代に沿っていて実行に移しやすいだろう。
園長先生には悪いですけど頂いたこれはきっと家の汚れを取る雑紙になります、と心の中で呟いて事務室兼園長室を出ようとしたとき、僕の頭の中を読んでいたかのような言葉をかけられた。
「その本、だいぶ昔のやつだけど私も編集に一枚噛んでるから」
原作者が僕に直々に渡してきたのなら、そう無下にはできない。
無下にしたくてもできないだろう。
昼食を食べ終わったあとは歯磨きの指導。さらにそのあとに絵本の読み聞かせをしてようやく子どものお昼寝の時間を迎える。
午後十二時半から十四時半にかけての二時間だけが、僕ら職員が羽を伸ばすことが許される時間だ。といっても、純粋な休憩時間は一時間だけで残りの一時間は事務仕事に追われる。職員室で眠気覚ましのコーヒーを一杯飲んだら時刻はあっという間に十三時半である。
自分のデスクという概念が存在しないこの保育園では事務作業は担任しているクラスの部屋ですることを余儀なくされる。むしろこの部屋が僕と
さっき園長からもらった紙をじっくり読んでみた。
『幼児の班活動・はじめての共同作業』?
よくある結婚情報誌のような見出しに多少の不安と懐疑を抱きながら読み進めると、引っかかったのはその見出しだけで、内容はいたってシンプルなものだった。
性格が似ている子たちをグループにさせる。
主張の激しい子ども同士が集まれば誰かが折れる必要があるし、なかなか喋らない子どもが輪になれば誰かが話し合いの起点を生む必要がある。考えてみれば当然のことだけど、現場にいるとこんな考えは意外と忘れがちだ。少なくとも僕の場合は。
あれこれ思案して部屋のなかを歩き回っていると、ちょうど休憩を終えた珠莉先生が戻ってきた。
「……シュー先生、どうしたんですか?歩き方が壊れたロボットみたいですよ」
「ちょっとクラス活動について悩んでいてね。考え事をしてると歩く癖があるんだ」
「なんかミステリードラマの名探偵みたいですね」
「さっきは『壊れたロボットみたい』って言ったの、聞いてたからな」
軽い足取りで僕の前を通り過ぎる珠莉先生から、ほのかな柑橘系の残り香が香った。きっと休憩中に新しいTシャツに着替えたのだろう。午前中はカンカン照りの日差しの下で子供に交じって遊んでいたのだから、そりゃあ汗だってかくし年頃の女性なら身だしなみにも特に気を遣うはずだ。
鼻の下を伸ばした僕の考えを知ってか知らずか、珠莉先生はくるっと身を翻し僕のほうを見た。
「この間から柔軟剤変えたのわかります?」
そう言って珠莉先生は自分の顔に袖口を近づけた。彼女の小さな鼻が微かに動いている。
「んー、気づいてたよって言ったほうがポイント高い?」
「そりゃあ、女性の変化に敏感な男性は人気高いですよ。私の彼氏は全然気づいてくれなかったんですけどね」
へへっと苦笑いするが、一瞬僕は言葉が呑み込めなかった。
彼氏?ワタシノカレシ?
「珠莉先生、彼氏さんがいるの?」
「ええ。高校のときに付き合って、今年で……五年!」
僕に向けて小さな手を大きくパーの形に広げた。なにをそんな悲しむことがあるんだ。猫のように可愛らしい珠莉先生なんだ、彼氏の一人や二人くらいいるだろう。
「いつかはわからないですけど、そろそろ入籍も考えてるんですよ」
珠莉先生は顔を赤らめながら話した。尻すぼみに小さくなる声のせいで最後のほうは誰が何と言おうと聞き取れなかった(耳には入った)けど、この空気を一変するためにも僕は一人の保育士らしく、仕事の話題を振った。
いまは仕事の時間だ。
「ところでクラス活動についてなんだけど、珠莉先生はなにかアイデアある?」
「先月は海の生き物の絵でしたっけ。じゃあ、今月は陸の生き物でとかどうでしょう。そろそろ夏休みですし、全員が揃う日は限られてくると思うので大掛かりなことはできないんじゃないですか」
「そういうシュー先生は?」と聞き返す彼女に、とりあえず僕が今の段階で思い描いている案を提案してみた。
「演劇をやってみよう、って考えてるんだ。今月と来月の全体活動をそれに充てて、秋のお楽しみ会で下級生に発表するっていう段取りでね」
「演劇って……ちょっと突発的すぎませんか?それに、くわがた組のみんなができるかどうか未知数ですし……」
「役者じゃないんだから、上手か下手かなんて二の次どころか考えなくていいんだよ。本番はセリフを忘れずに言えたら御の字でいいじゃない。それに、去年僕が担任したクラスもこの時期に似たようなことをやっていたから準備は心配しないで」
「見切り発車感が否めないですけどこっちにはいい考えがない分、部下は何も言えないです。それで、題材は何にするんですか?私は小さいころに『三匹の子ぶた』の一番弱いやつの役をやったことあるんですけど、楽しかったですよ。早々にフェードアウトしましたけど」
珠莉先生の幼少期の気の毒なストーリーも気になったが、ストーリーについても僕にはアイデアがあった。正しく言うと、子どもたちにアイデアがある。
「劇の内容はくわがた組のみんなに作ってもらおう。脚本、演出、出演は全部子どもたちに任せる」
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