4.できる人

全員の出欠を確認し、きょう一日のスケジュールを発表する。といっても給食の食器を運ぶ人は誰だとか、「いただきます」の号令をするのは誰だとかそういうもので、クラス全体で何をするみたいな予定は行事が近くない限りそうそうない。


基本は遊んで、昼食を食べて、お昼寝をして、また遊ぶだけだ。僕たち担任のスケジュールが過密な分、ときどき羨ましく思う。


挨拶と点呼が終われば、子どもたちを園庭に送り出す。

七月に突入し気温が高くなりつつあるが、それでも外に置いてある温度計は二十五度を指していた。三十度に到達したら熱中症を回避するために室内遊びに切り替える規則があるなかで、一部の職員から「七月になった時点で外遊びはやめたほうがいいのではないか」との声も上がっている。僕はどちらかというとそれに賛成なのだが、園のナンバーツーの主幹教諭が頑なに“三十度規則”の徹底を指示しているため、主幹教諭がクーラーのきいた室内で作業をしてる横で僕ら担任は外気温が三十度に達するまで子どもたちと共に七月の照り付ける日差しにさらされなければいけない。


専ら、子どもたちは外遊びのほうが好きらしいが。



「フウト!きのうの竹馬勝負の続きしようぜ!」


「カナちゃん!いっしょにボールやろう!」


「えー、ワタシ砂場でケーキ屋さんやりたーい」


テラスで室内履きから外靴に履き替えるみんなの背中をぼーっと眺めていると誰かに軽く服を引っ張られた。白いブラウスに黒のスカッツが印象的なユリちゃんだった。


「ユリちゃん、どうした?」


「…て……う……たい……」


騒がしいテラスの上で、もともと声が小さいユリちゃんの言葉を聞き取るのは至難の業だ。僕は腰をかがめてできる限り耳を彼女の口元に近づける。するとユリちゃんはその動きに応えるように再び同じ言葉を繰り返した。


「てつぼう、やりたい」


これだけ近づいてもまだ集中しないと聞き取れないレベルだが、言いたいことはひとまず伝わった。


それにしても、ユリちゃんが自分から鉄棒がしたいと提案するのは珍しいな。普段はたいてい砂場で別のクラスの子に交じって砂いじりをするくらいなのにこんなアクティブな運動を自ら行うなんて、あとで珠莉じゅり先生に報告しなくては。


「鉄棒の練習?いいよ、やろうやろう。シュー先生が手伝ってあげる」


“チャレンジ”という言葉もピンとこない五歳児に、新しいことに果敢に取り組む姿勢の重要性を説くには「園にある全部の遊具で遊んでみよう」と言うのが良いと物の本で読んだことがあり、僕も数か月前からそれを実践していた。愚直な言葉かけが功を奏したのかは定かではないがユリちゃんには効果があったみたいだ。


園庭に駆け出すくわがた組のみんなに混ざって、僕も外遊び用の使い古したボロボロの運動靴に履き替える。隣でユリちゃんが床に座ってせっせと靴を履いていた。



外にはすでに四歳児クラスのあげは組、三歳児クラスのばった組、二歳児クラスのあり組の子どもが遊んでおり、それなりに広い園庭も数多くの園児がいては少しだけ小さく感じる。



ユリちゃんがやりたいと言っていた鉄棒ではすでにばった組の子ども数名と担任の先生が居座っていた。三段階の高さがあるなかでも、一番低い鉄棒に子どもが集中していて、一番高い鉄棒には誰も触れようともしない。


「うーん。一番低いやつは順番待ちになっちゃうけど、どの高さにするの?」


ユリちゃんの身長ならやっぱり低めがいいだろう。それに、まだ鉄棒自体に慣れていないようだし。


「ここでやる」


そういって手をかけたのは誰もやろうとしない一番高い鉄棒だった。僕にとってそれは想定外のことでちいさく「えっ」と声が出てしまった。


「一番高いやつで大丈夫?一番低いやつそっちも少し待てばすぐ出来るよ?」


「大丈夫。ここがいい」


言葉少なに手をかけるが、やはりそこまで得意ではないのか前回りをしようとしても、足を浮かせて体を支えることすらおぼつかない。高くジャンプをして数秒のあいだ体を持ち上げても、すぐに腕が痙攣したかのようにプルプルと震えだした。


けれどユリちゃんの顔に恐怖心は見えなかった。か細い腕に力を入れて、ぎこちない動きで前に体重をかける。勢いがなく途中で「く」の字で止まってしまったが、うまく体を揺らし遠心力で前回りを一回、きめた。


「おお、ユリちゃんすごいじゃん!前回りできるの!?」


少しだけ息を切らした彼女の髪が逆さまになったせいであちこちの方向に飛び出ている。僕はそれを手櫛で軽く整えてあげると「もう一回やる」とだけ言って再び鉄棒に手をかけた。


一度成功したことで要領を得たのだろう、さっきよりもスムーズに回転する体勢になった。ひじもまっすぐで、背筋もきれいに伸びている。


足を前後に揺らしながらタイミングをはかり「んっ」と声とともに回った。


「ユリちゃん、鉄棒うまいね。姿勢がすごいきれいだったよ」


すぐ近くにいたばった組の先生にも「ユリちゃんの前回り、上手でしたよね?」と声を大きめして問うと、オーバーリアクションで「うまかったよ!」と答えてくれた。もちろん、実際はよく見ていないのを僕は知っているし、向こうの先生もそれを知って対応してくれている。


「このあいだお父さんとお兄ちゃんが教えてくれたから」


「くわがた組のみんなのお手本になれるよ。こんどみんなの前でやってみてほしいな」


そう伝えるとユリちゃんの口角がかすかに上がった。もともと感情表現が少ない子なので、表情に現れるということは本当に喜んでいるのだろう。僕はそれが嬉しかった。



すると、遠くから僕の名前を叫びながらこちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。


「シュー先生!ユイカも鉄棒やりたーい!」


なにかの英単語がプリントされたグレーのTシャツと、子ども用の黒いスキニーパンツを身にまとった短い髪の女の子が走ってきた勢いで僕に抱き着く。ユイカちゃんを無理に払いのけないように、自然な動きで身からはがすとヒョイと鉄棒に乗り、前回りをする姿勢になった。


「シュー先生、見ててね見ててね」


きれいに一回転すると、そのままの勢いで二回転、三回転と回り始めた。


「ユイカちゃんもすごいね!連続して回れるの、すごいよ!」


「えへっ。ユイカ、鉄棒得意だもん。ヨウスケくんよりうまいでしょ」


くわがた組のなかで一番二番を争うくらい運動神経の良いヨウスケくんの名前を出し、自らの能力の高さを自慢する彼女に対してユリちゃんは訝しげに睨んだ。


「ねえ、先生。ユイカね、こんなのもできるんだよ」


そういうと前後にリズムをとりながら地面を強く蹴り上げた。

逆上がりだ。


僕が中学生になって初めて成功したそれを、六歳になったばかりの女の子に見せつけられるとは屈辱的だけど、ここは大人の対応、保育士の対応が求められる。逆上がりができることを評価しなくてはいけない。


「逆上がりもできるの?ユイカちゃん、将来体操の選手になれるよ。オリンピックに出られるよ、きっと」


体操の選手というのはいまいちピンと来ていないだろうけど、僕に褒められたことで気を良くしたのかニコニコと満面の笑みを浮かべるユイカちゃんと対照的に、僕の横にいるユリちゃんはどことなく不機嫌に見える。



「ユリなんていまの技、絶対にできないでしょ」



自慢げに放ったその一言がとどめになった。


ユリちゃんは何も言わず―口を固く結ぶようにして―鉄棒から走り去り、向こうにある砂場に行ってしまった。




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