3.ジェネレーションギャップ

珠莉じゅり先生がやってきて少し経ったあと。手元に置いてあるデジタル時計は九時を表示していた。きょうもいつもと変わらない楽しい一日のスタートだ。


バインダーにひもで括りつけられたボールペンを置き、軽く空気を吸い込んでから大きく発声。


「よーし、じゃあ時間だからそろそろみんなで『おはよう』するよ!片付け競争、よーいドン!」


子どもたちはきゃーきゃー言いながら部屋を縦横無尽に駆け回る。ある子は床に散らばった花形のおはじきをかき集め、ある子は一生懸命ブロックで作った小さな家を未練たらしく崩し始めた。僕もそれに混ざり、おままごとでレジャーシート代わりに使っていた子どもには大きすぎる布をたたむ。


「せんせい!それボクが片付ける!」


たたみ終えた布を渡し、片付けがおざなりになっているところはないか部屋を見回した。みんな熱心に片づけてくれるおかげで綺麗になったかと思ったが、はじにあるテーブルの上にクレヨンや画用紙、紙くずが散らばっていた。


よく見るとそれはドレスやスカートのかたちに切り取った画用紙で、ファンシーな柄模様が描かれている。きっと着せ替え人形の簡易バージョンだろう。だれが作ったのかはわからないが、これもかたづけてもらわないと。注意をしようとしたそのときだった。


「ちょっと!テーブルでお絵描きしてたひとー!こんなかわいいお洋服、このまま置きっぱなしだと汚れちゃうよ!」


僕より先に発せられた珠莉先生の声が、くわがた組の意識を引き寄せた。すると、ふたりの女の子が足早にテーブルのもとへ駆け寄り、そそくさと道具をもとの場所に戻した。作ったドレスや洋服は園児用ロッカーにある小さな箱に放り込まれる。各自で作った折り紙や絵を保管するための箱なのだが、二人のそれはすでにいっぱいだった。


なんというか、よくできた子たちだ。僕が昨年担当した年長クラスは、あまりこういうべきではないだろうが片付けなんか進んで行う子どもは二、三人だけだった。きつく注意を促してようやく動いてくれるだけで、いつになっても食指が動かない園児を見て「やっぱり新卒の先生じゃこの代の子たちは荷が重かったか」と口にする職員もいた。僕の記念すべき保育士人生一年目は、要するに面倒ごとを押し付けられていただけなのである。



それに比べると、いまのくわがた組はとても利口だ。


「お片付けの時間だよ」と言えば素直に片付けを始めてくれるし、僕と珠莉先生が園の行事で使う装飾品を作っていると「わたしも手伝ってあげる」と手を差し伸べてくれる。


ときどき”然るべき叱り“をしなければいけないこともあるけれど彼らは純粋な心で飲み込んでくれる。このままの人格で年齢を重ねてくれれば、きっとみんなは善良な市民として次世代を担ってくれるだろう。そんな期待が胸に溢れてきた。


「よし、じゃあ全員揃ったかな」


部屋の真ん中で丸く円状に並んで座る総勢二十四名のくわがた組の面子を見回す。正座をする僕の右となりにはショウゴくん、左となりはケイくんが口をつぐんで座っている。珠莉先生も円の線上に混ざり、ひとりひとりの顔色を目でチェックしていた。僕と同じように正座する子もいれば体育座りの子もいるが、統一することはしない。


軽く空気を吸ってから、朝の挨拶。


「くわがた組のみなさん、おはようございます!」


「「おはよーございます!」」


大きな声で頭を下げると、それに続いてみんなも頭を下げた。今日も変わらず元気そうで何よりだ。


「まずは出欠を取りまあす。名前を呼ばれたら大きな声で返事してね」


子どもたちの背筋が一斉に伸びる。名前を呼ばれる瞬間は自他ともに認める独壇場だと理解しているからだろう。


「ムラタヨウスケくん」「はい!」

「ミサキキョウカちゃん」「ハイ!」

「イシカワマキちゃん」「はぁい!」


各々、飛び上がるように威勢のいい返事をしている。朝から元気なのはいいことだ。

しかし。


「イオギユリちゃん」


そう名前を呼んでも、さっきまでの子のような返事は聞こえなかった。今日もダメか。そんな思いが頭をよぎる。


少し間をおいて「はい……」と小さな声で小さくて手を挙げたユリちゃんを見て、向かい側にいるヨウスケくんがため息のように言葉を漏らした。


「ユリぃ、もっと大きな声で返事しなきゃいけないんだよ」


その言葉を聞いたユリちゃんはうんともすんとも言わず、ただ体育座りをしたまま僕の目をまっすぐに見ていた。助けを求めている眼ではない。なにかを訴えかける眼だ。


「はいはい、ヨウスケくんも他人ひとのことはいちいち言わなくていいの。ユリちゃんももっと大きな声でお返事してね、せっかく保育園に来てるのにお休みのところにチェックつけちゃいけないから」


「じゃあもう一度、イオギユリちゃん」


すると諦めるかのように「はい」と返事をした。それでも声の大きさは周りが静かにしていないと聞こえないレベルだ。


このままではらちが明かない。というよりも、ユリちゃんはずっとこんな感じであると理解して我々担任もそれを許容しているにもかかわらずほかの子どもが指摘してしまうのだ。


善意によって発せられる指摘を無視するというのも信頼関係が崩れる原因になりうるし、下手にみんなの前でユリちゃんひとりを注意してしまうと今度はユリちゃんにダメージを与えかねない。指摘がない日は小さな声の返事でもスルーしているが、茶々を入れられた日はそれっぽい言葉をかけないといけない。


ひいきは許されないけど、ひとりのことで悩むのは日常茶飯事だ。

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