2016年【隼人】54 幸せも不幸も、全部、隼人の責任
自分がしでかしたことをすぐ後悔するのならば、遥を引き離すような真似をするべきではなかった。
震える遥は見るに耐えない。大変なことをしてしまったのは、どうしようもなく自覚している。
「あー、違うんだ。遥。だって、ほら。いまここで挿入する訳にいかんだろ。コンドームもないし」
遥はなにも言わない。わかっている。セックスをせがむように服を掴んできたわけではないのだろ。恋のABCがキス、ペッティング、セックスだというのならば、Cまで行く必要はないのだ。
倉田の目の前で、キスするだけでいい。見せつけるだけで、倉田は遥を諦める。
『顔のない獣』の攻略法は、昔も今も変わっていないとは、小粋で素晴らしい。
ちがうのは、キスをするのに命を削る覚悟が必要という点だ。
些細なちがいだと笑い飛ばしてみろ。『獣の烙印』を言い訳にして、躊躇うな。
あと一回は、遥に触れても死なないのだ。
久我遥とキスできるならば、命なんて安いものだろう。
「ねぇ隼人。その首筋のなに?」
「ああ、これは」
『獣の烙印』で刻まれた痣に、遥が気づいたようだ。短い言葉でうまく説明できる自信がない。切り出し方を考えていると、遥は捨てられた猫のように泣きそうな顔になる。
「キスマーク?」
「ちがう。んなわけねぇだろ。なんだよ、遥も僕と同じで、頭ん中は、キスでいっぱいか」
「だって、しょうがないでしょ。二人きりのときに、あんなこと言ってくれたのは、隼人なんだからね。ほかの男に言われたらいざしらず、隼人相手だったら、絶対のぜーったいに、ちょろくもなるわよバカ」
「久我、いったいなにがあったんだ。きちんと話してくれないか?」
倉田が話しかけてきたことで、隼人と遥は同じタイミングで舌打ちをした。
「「うるさいな、ちょっと黙っとけ」」
隼人と遥の言葉が、見事にはもる。
こんな可愛い女の子と心が通じている。倉田への苛立ちだけでなく、お互いを求める気持ちも、きっと同じはずだ。
隼人は遥の肩を掴む。思いがけず強引になったことで、遥は驚いた様子だった。それでも、すぐに目を閉じてくれて、隼人を受け入れる準備をはじめてくれる。
アホか、こいつ。可愛すぎるだろうが。
唇がプルプルだぞ。
まるで麻薬だ。『獣の烙印』に対する恐怖も薄らいでいく。
近距離で見ているだけで癒されるのに、唇を重ねたら、脳がとろけるだろう。上等ォだ。このまま流れに身を委ねよう。
やるぞ、やってやる。自称・遥の彼氏に実力行使で止められる前に、舌を入れて絡めてみせる。
「そこまではやりすぎよ、隼人」
男女のいいところの邪魔をする声は、幼さの中に僅かな色気が混じっていた。倉田がいる方向とは逆からの横槍に、不意をつかれた気分だ。
隼人の動きが止まる。遥は目を開き、この場に参入した存在を確認する。
遥の目つきが鋭くなる。機嫌が一気に悪くなったのか、肩を動かして隼人から離れる。
「誰、この人?」
本人にではなく、遥は隼人にたずねる。正確な答えを返すために、誰が来たのか予想がついていても、一応は顔をみておく。
知ってた。出会って一ヶ月も経っていないのに、金髪のポニーテールが見慣れている。やはり、総江だ。
「えーっと、話せば長くなるんだが」
UMAや極道のことを伏せながら説明しようとしたら、うまく言葉が出てこない。
「端的にいえば、隼人にとっては特別な存在といったとこかしらね」
待て待て。隼人の代わりに総江が答えるのは、一番駄目だろう。
遥が総江に質問をしなかった理由は、バカな隼人にでも予想がついた。総江の口から遥にとって衝撃的なものを聞きたくないという弱さのあらわれだろう。
総江は頭がいいのだからわかるだろ。わざとやってんのか。
「否定しないんだね、隼人も」
困ったことに、総江は嘘をついていないのだ。特別な存在には違いないので、ノータイムで反論ができない。
隙を総江は見逃さず、ついてくる。
「ほら、隼人。夏休みの予定を立てるわよ。場所をうつしましょう」
総江に腕を掴まれて、隼人と遥の距離が物理的に引き離されていく。
「ちょっと、強引じゃないですか。あたしと隼人も大事なとこなんですけど」
怒りに任せて立ち上がる遥の横で、倉田はしたり顔だ。
「それにしても、意外ですね。沖田総江ほどの人が、こんな男と」
「こんな? あなたはわかってないのね。隼人の可能性を」
「可能性? だいそれた夢でも語ったのですか? 馬鹿にはよくあることだ」
「その馬鹿を極めたら、人は英雄になれるのよ」
船から荒々しい海に身を投げ出されたような表情で、遥が手を伸ばす。反射的に隼人も手を伸ばすのだが、遠い。指先が触れることはなかった。
視線だけが、絡まるように繋がっている。
彼女の瞳は複雑な色を見せている。
キスする直前、心が通じ合っていた。余韻の残るいまならば、瞳を見れば遥の考えていることが、なんとなくわかってしまう。
隼人に対する祝福、同時に悔しさや裏切られたような気持ちを抱いている。そんな気持ちの根源がなんなのか言葉にすることなく、遥は泣きそうになる。
いじめられても、ほとんど泣かなかった強い女の子が、あっさりとあんな顔を晒している。幸せも不幸も、全部、隼人の責任だ。
逃げるように、遥が走り去っていく。
小さくなっていく遥の背中を見つめてながら、隼人も地面を蹴って追いかける。
たった一歩目で、壁にぶつかる。ぶつかったのは、倉田だった。
「そっか。忘れていた。あんたみたいなのが、いたんだったな」
強がって煽ったわけではない。本当に、遥のことしか見えていなかった。倉田のことに意識を向けている短い間に、陸上部の女子は角を曲がって見えなくなった。
「隼人、喋ってる暇はないでしょ。いきなさい」
「いきなさい? 浅倉、お前が追いかける必要はない。そもそも、追いつけないだろう。無駄なことは、やめておけ」
「ガタガタうるせぇな。だったら、誰が追いかけて遥を救うんだよ」
「絶対に、間違いなく、お前ではない。お前の訳がないんだ。その証拠に――」
倉田の言葉を遮るように、地球という惑星が、隼人を乗せているのを忘れて転ぶ。もちろん、そんなことは起きない。隼人の勘違いだ。
背中の痛みと息苦しさを感じてから、倉田に投げ飛ばされたのだと気づいた。
「――追いかけるどころか、指一本動かせないだろ?」
「立ち上がりなさい」
ときどき総江は、真面目に無理をいう。動かなければまずいことを隼人がわかっていないとでも思っているのか。
「里菜に命じて、遥ちゃんを歩けなくしてもいいのよ?」
車椅子に乗る遥を思い浮かべる。まだマシな想像かもしれない。ベッドの上に寝たきりで、管に繋がれた遥と看病疲れでやつれた朱美――脅しではないのだから、有り得る未来だ。
「恨んでくれて構わないわ。私はあなたを助けると決めたの。そのために最善を尽くさせてもらうわ」
「さっきの横槍を入れたのも最善ですか?」
横槍を入れられた程度で、遥とのキスをやめる訳がない。そんな自分でありたかったのに、現実はどうだ。
「お言葉ですけど、部長が止めに入らなくても、僕は遥にキスを――」
「戯言はやめなさい」総江は隼人に最後まで言わせなかった。嘘でもそんなことは口にさせないという思いを持っているのか、力強い口調だ。
「これでも私は、本当の隼人を知ってるつもりだからね」
総江とちがい、隼人のことをまるでわかっていない男もいる。
「どうして、喋れる?」
「お前が見下してるものをなんだと思ってんだ? 僕だって人間だぞ。だったら、言葉を発するに決まってるだろうが」
「バカなのか。そういうことを言ってるんじゃない」
隼人はため息をつきながら立ち上がる。
誰かさんのつまらない物差しでは、指一本動かせないそうだから、抗い甲斐があった。
「ありがとよ。倉田のおかげでなんとかなりそうだ」
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