2016年【隼人】26 常識はぶっ壊れた

 浴室のドアを開けた里菜が、顔面にシャワーをかけられている。ギャル風のメイクが滲む。それこそ、絵の具が滲んだ絵画のように悲惨なことになっていく。


「すんません、遅かったみたいですね。おいコトリ。シャワーおろせ」


 隼人の位置からではコトリの姿は見えない。それでも、声は聞こえたようだ。シャワーをおろして、放水を止めてくれた。


「あんときのヤクザ? なんで裸? いや、その前に、ちがう。ちがいます。浅倉が覗きにきたかと思ってシャワーをかけただけで。ごめんなさい。まだ心の準備があれでして、それなのに抱かれるかと思って」


 手で顔を拭きながら、里菜は「にひひ」と笑う。


「よーわからんが、お盛んやな。外にも中にも猿ばっかりやないけ」


「ちがいますよ。お盛んってなんですか。アタシたちは別に」


「否定すなや。ええんやで。気持ちよーなりたいだけやったら、遠慮せんでええ。それよりも、覚悟せーや」


「かっ、覚悟って、どういうことですか?」


「声が裏返るまでびびんなや。安心せえって。悪いようにはせーへん。むしろ、気持ちよーにしたる。化粧を落としてくれたお返しはせんとあかんやろ?」


 里菜が浴室に入っていく。

 扉が閉まり切る前に、コトリの喘ぎ声が聞こえた。

 お返しの意味を理解した。


 小鳥遊琴葉、貞操の危機。

 里菜はレズ系のビデオにも出演作がある。コトリの処女膜が破られてもおかしくはない。


 浴室での情事を妄想すべく、隼人は目を閉じる。

 まぶたの裏側には、遥がいる。

 目を開けたままだったら、何食わぬ顔で浴室に突入していたかもしれない。遥のことを思い出して、冷静になった。


「片付けするか。いうこときいてたら、里菜さんからご褒美もらえるかもしんねぇし」


 ひとりごとを口にしながら、脱衣所をあとにする。隼人はゴミ袋と消臭スプレーを用意して玄関に移動する。

 ゴミ袋に手を突っ込む。汚れた衣服をつかみあげると、ゴミ袋を裏返した。

 それにしても、くさい。生ゴミとウンコを混ぜたようなフレーバーだ。間近だと、目を開けているのも厳しくなり、生理現象で涙が流れだす。


 袋の口を固くとじる。その上から、またゴミ袋で何重にも包み込んでいく。

 ようやくにおいが気にならなくなってきた。そう思った矢先、扉が叩かれる。

 外側からのノックだ。


 そういえば、里菜がさっき言っていた。『外にも猿がどうのこうの』と。

 入口を叩く音は、しつこく続いている。

 もしかして、里菜は盛っている男から逃げてきたのではないか。だとすれば、どんな奴に追われているのだろう。


 魚眼レンズを覗く。

 褐色と灰色の毛の塊が、扉に対して背を向けている。二足歩行。腕はあるのかわからない。あったとしても、毛に覆われている。


 人間がいるものと想像していたので、予想外なものに隼人は息を呑んだ。

 振り返る動きに合わせて、体毛が抜けていく。宙を舞う小さな毛の一本一本は、よく見れば鳥の羽根のような形をしている。


 人間ならば顔があるべき場所は、毛で覆われている。

 だから、おっぱいの位置にある赤い大きな丸いものが、瞳ではないかと予想した。

 眼球にあたるものは、ボウリング玉のように大きい。痙攣しているように、ピクピクと定期的に動く。むき出しになっており、まばたきはできないようだ。


 巨大な赤い目玉中心に、申し訳ないサイズの黒い点があった。まるで男の乳首のように小ぶりだ。

 魚眼レンズ越しだからか、隼人は冷静にそれを観察できた。テレビ画面を見ている感覚に近い。リアルタイムで、しかもそばで動いているというのを感覚として、理解できていない。


 現実味がなさすぎる。

 どうして、こんな化物が。獣人が。それに、待てよ。全身を褐色もしくは灰色の体毛で覆われていて、ギラギラ輝く瞳を胸に持つ二足歩行の動物って、これってもしかして。


 同じ特徴を持つ生き物の名前を隼人は知っている。

 総江から借りた本に書いてあった。

 一九六六年から一九六七年にかけて、アメリカ、ウエストバージニア州ポイント・プレザントのオハイオ渓谷一帯で目撃が多発した謎の寄獣だ。


「モスマン?」


 隼人が名前を呼んだ瞬間に、モスマンは翼を左右に広げた。二メートルはありそうなそれを振りかぶったのは、扉を殴るためだと直感する。

 すぐに隼人は扉から離れる。


 ドンドンドンドン!


 扉の耐久力が高いのか、はたまたモスマンの力が弱いのか。どちらにせよ、扉が破壊されることはなさそうだ。

 一方で、隼人の中でぶっ壊れたものがある。


 この扉の向こう側に、モスマンがいる。

 学校の隣にあるようなマンションにUMAが生きている。

 とどのつまり、隼人の中の常識はぶっ壊れた。


「はははははははははははははははははははははは!! 上等ォじゃねぇか、おい!」


 腹を抱えて笑ってしまう。どうしようもなくおかしい。こんな大声で笑ったのは、遥が倉田と付き合ってからだと初めてのことだ。

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