第5話 ありがとう

東京に着いた。


いつもは、このままあおいの家に向かっていた。

そうじゃないことをこの時、やっと理解できた。


部屋の鍵を渡しに行くと連絡をしたが、郵送で送ってくれと言われ、最後に会うことすらできなかった。

皮肉なことに、付き合っていた頃あんなにもお互いの距離が遠かったのに、今はこれまでで一番近くにいて、一番心が離れている。


ただ、一緒にいて楽しかったのは事実だ。

最後のメッセージには、ありったけの「ありがとう」を込め、今後会うことのない彼女の幸せを願った。


東京には、遠距離恋愛をしている間にできた思い出たちがたくさんいて、たまに息が詰まりそうになる。

だが、高校時代の相方や野球仲間に仕事仲間がいて、毎日笑顔にしてくれた。


仕事も捗り、一日が過ぎるのが一瞬だった。


だから、ひかりに名古屋で会おうと言われた日もすぐに来た。


「来週、この新幹線でいくよ」

「うん、待ってる」


別に付き合うことになったわけでも、お互いの関係が何なのかが明確になったわけでもないのに、わざわざ東京から名古屋へ向かおうとしている。

目的は何なのか、彼女はどうしたいのか、分からないままだった。


このまま分からないままの方が良かったのかもしれない。


出発の前日、ひかりから連絡が入った。


「だいすけくん、ごめん。

 おばあちゃんが入院して、明日会うのが難しくなった。

 せっかく来てもらう予定だったのに、ごめんね…」


このメッセージが届いた瞬間、すべてを察した。

信じたいが信じれなかった。

だって、そういうことだろ?ひかり。


会いたくないなら、回りくどいことをせずに断ってくれればいい。

会う気がなかったのなら、そもそも会おうなんて言わなければいい。

本当、人の心の傷をえぐるのが上手だ。


「そう。それは災難やったな。

 こちらこそ予定空けてもらってありがとう。

 こういう形で会えなくなったのは残念やけども。

 しっかりおばあちゃんの横にいてあげてな。お大事に」


それが最後のやり取りだった。





後日、ひかりのことを紹介してくれた大学時代の友人の嫁から聞いて知ったのだが、入院だと言っていたその次の日、当初、自分と会う予定があったその日、楽しそうに友達とバカ騒ぎする様子をSNSにアップしていたそうだ。


自分を傷つけないように隠すための嘘をついたつもりだったんだろうか。

そうだとすれば、配慮していただいたことにありがとうと言いたい。

だが、そんな小学生でもわかるような嘘はついてほしくなかった。

もっと分厚い嘘の壁で塗り固めて、絶対に見えないようにしてほしかった。


そんなことを言ってみても、結局それは自分のエゴの押し付けでしかないんだろう。


心は死ぬほどつらく、自分のまともな精神状態を一人で保つのが難しいほどぐちゃぐちゃになっていた。

それなのに、憎むどころか意味のわからない「ありがとう」がこみ上げる。


何に対して?

自分は傷ついたのに?

本当は憎いはずなのに?


感情が矛盾してどうにかなりそうだ。




それからまた数日が経ち、ひかりの親友から電話があった。


「親友がだいすけくんにひどいことをしました。

 散々思わせ振りなことをしておいて…

 代わりに謝ります。本当にごめんなさい!!」


別に君に謝ってもらいたいわけでも、彼女からの直接の謝罪がほしいわけでもなかった。自分が人を傷つけたわけではないのに、何度も何度も謝罪するのを不憫に思い、「あなたのせいじゃないですよ」と伝えた。


「ひかりには、きつく言っておきます!」


「それもしなくていい」と断った。

彼女が傷つきやすいことを知っていたし、何よりも傷つけられて傷つけ返したら“同じ穴の狢”だ。

そんなことはしたくなかった。いや、同類になりたくなかった。


「伝えるなら、たくさん飲みに付き合ってくれてありがとうと言ってくれ」と伝言し、電話を切った。

また、思ってもない「ありがとう」が出てきた。


これまで「ありがとう」は、感謝を伝える言葉だと思っていたが、どうもそれだけではないようだ。

「ありがとう」は自分の心の仮面だ。


きれいに見えていたそれは、突然、白と黒が相反する禍々しい存在になった。



.........



こんなに心を痛めるなら

こんなに頭を悩ませるなら


人を愛したりなんてしない


心を痛め

頭を悩ませる

その時間と労力が無駄だ


一人で生きていこう


友との有意義な時間を増やそう


本を読み自分の知識を磨こう


大好きな野球で休日を謳歌しよう


何モノにも固執せず

自分のために時間を使い

自分のためにお金を使う


そして社会の役に立てるような

そんな人間になろう



.........



「社長、今月の受注分ですが、目標金額より300万円程上回って着地しそうです!」

「お、すごいな!不正に送り込んだりしてないやろうな?」

「そんなことするわけないじゃないですか!日々の積み重ねの成果ですよ!」

「頼もしいな。残りの細かいタスク終わったら、飲みに行こうか」

「ありがとうございます!頑張ります」


東京に来て5年が経ち、立ち上げた会社は良い軌道に乗ることができた。

まだまだ社員は30名に満たないが、来季上場することも決まり、少数精鋭から多士済々へとシフトする予定だ。


東京に来たばかりのぐちゃぐちゃの状態からは、今のこの生活は想像もつかなかっただろう。

そんな充実した中でも、たまに5年前を思い出す瞬間があり、心が少し痛んだりする。


だが、着実に心は解放へと向かい、友人と過ごす毎日が非常に充実していた。

仕事も社会貢献しているという意識の高まりにつれて楽しさが増し、趣味の野球も自分でプレーするだけでなく、少年野球の野球教室を持つまでになった。


理由は何であれ、東京に来てよかった。

故郷の両親もすごく喜んでくれている。

ただ、一つだけ東京に来て彼らを悲しませてしまったことがある。

それは、「孫の顔を見せることができないと思う」と話したことだ。


東京に来て初年度の帰省の時、実家で酒を酌み交わしながら伝えた。


「父さん、母さん、俺結婚できないと思う。

 いや、結婚したくない。ごめん」


両親はそれを聞いて一瞬驚いていたが「あなたの人生だから、好きなようにしなさい」とグラスに焼酎を注いでくれた。


これまでもわがままを言ってきたが、どこまでも味方でいてくれる両親。

親の偉大さを改めて痛感する。

もっと仕事を頑張って、早く楽に暮らせるようにしてあげようと誓った。




東京にいる高校時代からの相方とは、週一以上で必ず飲んでいる。

周りからは、自分に彼女がいないことから「付き合ってんのか!」といじられたりするが、彼とは今後の目標などを共有して有意義に過ごせるから、よく一緒にいるのだ。


彼には嫁と子供がいるが、嫁は子供を連れて自分の実家に住んでいて、現在は別居中だという。

嫁の愚痴をたまに吐くが、酒が入ると「本当は一緒に住みたいんだ」と漏らす。

その姿にかける言葉だけがいつも出てこない。


別居の原因は、奥さんの嘘が発端で喧嘩になり、お互いに口をきかなくなってしまったのだという。


「優しい誠実な奥さんを探せよ」

「いいよ、俺はこのまま自由に生きるから」


少しの沈黙が入り、くだらない話に戻った。

男同士の会話を遮るように電話が鳴った。


ひかりだった。


「久しぶり…元気だった?」

「うん、元気だよ」

「会わなくなって結構経つけど、いろいろ考えてみてやっぱり東京に行ってだいすけくんと暮らしたいと思うの。今さらなのは百も承知だけど」

「そう、ありがとう。でも、それはできない」

「私のこと、やっぱり憎んでる?それとも新しい彼女ができた?」

「どちらでもないよ」

「じゃあなんで!」


「求めあうことをやめたからだよ」



電話を切り、グラスに残ったハイボールを飲み干して会計を終え、外に出た。

今日も街のネオンのベールにそっと包まる。

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