第14話

 春子が帰ってこない、と青い顔をしたおばさんが家に来たのは、その日の夜だった。

 時間は八時を過ぎていた。


「昼間、春子とちょっと喧嘩したの。あの子の髪のことで」

 顔を強張らせ、おばさんが言う。少し震える声だった。

「そのときにちょっと、言い過ぎたのかも……あんなこと、はじめてで」

「春子ちゃんの携帯に連絡は?」

 いつの間にかうちの家族は全員リビングに集まって、おばさんを囲んでいた。

 母の質問に、おばさんは困ったように首を横に振って

「それがあの子、携帯も置いて飛び出していっちゃったもんだから……」

 窓から見た、家を飛び出す春子の姿がまぶたの裏に弾けた。

「……すみません」思わず口をついていた言葉に、おばさんも、うちの家族も全員、俺のほうを見る。

「え、なにが?」

「や、春子のあの髪……俺のせいかもしれないから」

「どういうこと?」

 訊いてきたのは姉だった。この姉の髪も、金色に近いぐらいの明るい茶色をしている。だけどこっちは、一度も親に怒られたことなんてない。

 もしかしたら春子は、そんなうちの家族を見てなにか勘違いしてしまったのではないか。だとしたら、春子の金髪に対する責任は、うちの家族にもあるのではないか。

 そんなことを考えていると、蒼白な顔でこちらを見つめるおばさんに、とてつもない罪悪感がこみ上げてきて

「まさか、あんたが春子ちゃんに染めろって言ったの?」

「そんなこと言うかよ。姉ちゃんじゃあるまいし」

「あたしだって言ってないから、そんなこと」

「でももしかしたら、春子ちゃん、ミカになんか変な影響受けて染めちゃったんじゃないかしら」

 母も俺と同じような考えがよぎったらしく、申し訳なさそうに顔を引きつらせている。

「だとしたらごめんなさい。うちのせいで」

「いやいや貴子さん、そんなこと」

「とにかく」あわてたように母をフォローしかけたおばさんをさえぎって、俺は言った。

 ソファに脱ぎ捨てられていた上着を拾う。

「俺、探してくる」

「あたしも」と姉が言った。


「……あんたが、カノジョなんて作ったせいじゃないの」

 玄関で二人並んで靴を履いていたら、姉がぼそっと呟いた。

「は?」

「春子ちゃんの、あの髪。それがショックで染めちゃったんじゃないの?」

「……春子は、違うって言ってたけど」

「そりゃ春子ちゃんだって、はいそうです、とは言えないでしょ」

 スニーカーの爪先をとんとんしながら、あきれたように姉が言う。

「春子ちゃん、どう見てもあんたのこと好きっぽかったし?」

「いや、ないって。いっかいきっぱり否定されてるし」

「だーから、そんなバカ正直に、うん好き、なんて言わないでしょうよ」

 小学生じゃないんだから、と姉は心底うんざりした調子で呟いてから

「とにかく、今回の件は間違いなくあんたにも責任はあるんだから。なんとしても見つけなさいよ、春子ちゃん」

「わかってる」

「見つかったら連絡してね。あたし、街のほう行くから。携帯持った?」

「持った」

 よし、とけわしい顔で頷いて、姉は車庫にとめてあった原付にまたがる。

 姉が去ったあとで、俺はその奥にあった自転車を引っ張り出した。


 昼間、俺が春子を見かけたのはたしか二時過ぎだった。おばさんの言い方だと、飛び出したきり、ずっと春子は家に帰っていないらしい。よく見えなかったけれど、あのときの春子はたしかTシャツにスウェットみたいな無造作な格好だった。あんな格好でずっと外にいるのか。

 やっぱりあのとき、すぐに外に出て追いかけるべきだった。今更そんな後悔が胸を覆い、唇を噛む。


 あてなんてなかった。とりあえず、いつも春子が道草していた児童公園に行ってみた。

 暗い公園は静まりかえっていて、人の姿はなかった。

 春子はおそらく財布もなにも持たず飛び出したはずだから、お金がかかるような場所には行けないはずだ。このあたりだと、駅前にももうひとつ公園がある。次はそこへ行ってみようかと考えながら、ペダルにかけた足に力をこめかけた。そのときだった。


 ふいに、思い出した。

 まだ小学校にも上がる前の頃。

 いつも俺の前ではお姉さん然としていた春子が、めずらしく泣いていた日。

 家に帰りたくないのだと、あの日の春子は駄々をこねていた。

 俺はそんな春子の手を引いて歩いた。そんな立ち位置で歩いたのは、後にも先にもあの一回きりで、だからこそ記憶は鮮明だった。

 なぜか奇妙な確信が湧いて、俺は駅のほうへ向かおうとしていた自転車を、方向転換させた。



 住宅地のはずれに、その神社はあった。

 途中迷いもしたのに、自転車を二十分ほど走らせただけで着いたことに、なんだか拍子抜けしてしまう。あの日は、とてつもない冒険でもする気分で、ここまで辿り着いたのに。

 神社の前に自転車をとめたとき、ふいにポケットの中でスマホが震えだした。

 まさかもう見つかったのかと思い、画面も見ずにいそいで電話に出ると

『――あ、智くん?』

 電話の向こうから聞こえてきたのは、桃ちゃんの声だった。

 思わず力をこめた指先から、いっきに力が抜ける。

「桃ちゃん?」

『智くん、今日はありがとう。楽しかったよ』

 いつもと同じ明るい声で、桃ちゃんがしゃべりだす。

 俺は自転車を降りると、鳥居につづく石段を上がりながら

「桃ちゃん」

『写真もありがとう。私、さっきからずっと眺めてるの。ほんとにかわいくて』

「桃ちゃん、ごめん」

『え?』

「今ちょっと忙しくて、話せそうにないんだ」

 早口に告げると、電話口で桃ちゃんは一瞬黙ったあとで

『……え、あ、そうなんだ。ごめんなさい、忙しいときに』

「いや、こっちこそごめん。また明日、学校で」

『うん、また明日』

 短くそれだけ告げて、通話を切った。


 俺は足を進めながら、鳥居の向こうに目をこらす。

 このときばかりは、彼女の金髪をありがたく思った。

 外灯もない神社は塗りつぶされたように真っ暗で、それでも奥には、いやに目につくその明るい色が見えていた。

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