第15話

「……よく覚えてたねえ」

 俺を見つけた春子の第一声は、それだった。

「お前こそ」

 言いながら、石段に座り込む彼女の隣に腰を下ろす。


 春子は薄いロンティーにストレッチパンツを穿いていた。思いっきり部屋着だ。日中に比べ、だいぶ冷たくなった風が頬を撫でる。

「お前、寒くない?」

「ちょっと」

 俺が着ていたパーカを脱いで渡そうとすると、春子はあわてたように

「いいよいいよ。そしたら智が寒いじゃん」

「いや、俺さっきまでチャリ漕いでたし、むしろ暑い」

「……そうか」

 ありがとう、と呟いて春子はパーカを受け取った。男物にしては細身のそれも、彼女が着ると肩も袖もずいぶんあまった。

 春子はすっぽりと指先まで覆ってしまったパーカの袖を見ながら

「智、大きくなったんだねえ」

 なんてしみじみ呟いていて、俺は妙に気恥ずかしくなって目を逸らした。


「ここ、こんなに近かったんだなって思わなかった?」

「思った」

 膝を抱えた春子が、暗い境内を見渡しながら、なつかしそうに目を細める。

「なんかびっくりしちゃった。あの日は、ものすごく遠くまで来ちゃった気がしてたのに」

「お前、大泣きしてたもんな」

「智だって泣いてたじゃん」

「泣いてねえよ」

「泣いてたってー」

「泣いてない」


 ――じゃあ冒険しよう、と。

 家に帰りたくないと言う春子に、あの日の俺はそう言った。

 春子がめずらしく泣いていたものだから、たぶん俺は焦っていた。ただ、どうにかして泣きやませたくて必死だった。

 だから春子が、いつも俺が泣いたとき、俺にしてくれていたように。俺は春子の手を引いて、歩き出した。

 そうしているうちに、泣いていた春子も笑顔になったから。うれしくなって、調子に乗った。どんどんどんどん歩いていくうちに、いつの間にか、どこだかわからない場所まで来てしまった。


 ああ、おわった。

 最初にこの神社にたどり着いたときは、そんなことを思った。

 それぐらい恐ろしかった。古びた鳥居も社も、生い茂った樹木も、そのせいで薄暗い境内も、ぜんぶ。子どもの目には、なんだかとんでもない場所に来てしまったように見えた。

 だけど。

「絶対泣いてない、俺は」

「なにそんなむきになってるの」

「だって、絶対泣いてねえもん」

 絶対に。

 泣いてはいけないと思った。

 春子が、隣で泣いていたから。唇を噛みしめ、必死にこらえた。それだけは覚えている。


「そうだったっけ」

「そうだったって」

 納得できないらしく、思い出そうとするように、うーん、と首を捻っている春子に

「とにかく」

 俺はポケットからスマホを取り出しながら、現実へ引き戻すように告げた。

「もう帰るぞ。みんな心配してんだから」

 途端、春子はふっと真顔になって

「……お母さん、怒ってたでしょ」

「気にしてたよ。昼間、言い過ぎたって」

 姉へ短いメッセージだけ送ってから、俺はまたスマホをポケットに突っ込むと

「お前さ」

「うん?」

「本当はしたくなかったんだろ。金髪とか」

 春子は答えずに、うつむいてパーカの裾をいじった。

 その子どもみたいな横顔に、ふいに幼い頃の春子の姿が重なる。いつだって俺の前にいて、俺の手を引いてくれていた頃の。


「……それさ、もしかして」

 ふとよぎった考えは、気づけば口からこぼれていた。

「俺のため、とかなの?」

 そしてそれは、口に出した途端に確信の色を帯びた。


 春子は、俺に関係があると言った。だけど俺のせいではないと言った。

 やりたくもないのに春子がこんなことをする理由なんて、もうそれぐらいしか浮かばない。

「それなら、やっぱ俺がなんかすればやめられるんだろ」

 春子が顔を上げて俺を見る。そうして困ったように首を横に振って

「違うよ。智はなにもしなくていいから」

「……どうしても、教えてくんないの?」

「ごめん。言いたくない」

 それだけ言って唇を結んだ春子の横顔は、やっぱり頑なだった。

 俺はため息をついて立ち上がると、ズボンについた砂を払いながら

「じゃあ言わなくてもいいけど、おばさんが心配してんのはわかってやれよ」

「……うん」

「ショックに決まってんじゃん。春子が急にそんな髪にしてきたら」

「わかってる。私が悪かったから、今から家に帰って謝る」

 そこは素直に頷いて、春子も立ち上がる。そうして二人で自転車のところまで歩いた。


「あのときはさ、智のお父さんが迎えに来てくれたよね」

 後ろに春子を乗せて走り出す。

 向かい風が顔に当たるけれど、不思議と、行きより冷たくない気がした。

「そうだったなあ」

「懐かしいなあ」

 行きより重たくなったペダルを漕いでいると、肩越しに、しみじみと呟く声が聞こえてくる。

「なーんか」その声がふっと小さくなって、続いた。

「懐かしくて、泣きそう」

 それは意図せず、喉からぽろっとこぼれ落ちたような声だった。

 春子自身、こぼれたことにも気づいていないような。

 だからこそ妙に切実な響きがして、俺は咄嗟に、聞こえなかった振りをした。

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