第13話

 母が持ってきたのは、紅茶と二つのケーキだった。チーズケーキとモンブラン。

「桃ちゃん、どっちがいい?」

「智くんは?」

「俺はどっちでもいいから、桃ちゃんが選んでいいよ」

「わ、ありがとう。じゃあ、えっと……」

 桃ちゃんは難しい顔をして、かなり長いこと悩んでいた。

 そんなに悩むなら両方あげようか、と俺が言いかけたとき

「決めた、こっち!」

 とようやくチーズケーキを選んだ。


「んー、おいしー」

 桃ちゃんが幸せそうに、チーズケーキを頬張る。目を細めて呟くその表情も、本当に幸せそうだ。

「よかったね」と笑って俺もモンブランにフォークを沈めながら、まぶたの裏には、さっき見た春子の姿がちらついていた。

 あの飛び出し方は、家の中で誰かと喧嘩でもした感じだった。春子はひとりっこなので、喧嘩するとしたら、おじさんかおばさんしかいないのだけど。

 春子がおじさんたちと喧嘩している姿なんて、これまで一度も見たことはない。春子は基本的にいい子だったし、おじさんたちも穏やかでのんびりした人たちだったから。

 もし、そんな彼らが喧嘩するとしたら。考えられる理由は、あれしかない。


「智くん、食べないの?」

 向かい側に座る桃ちゃんが怪訝そうに顔をのぞき込んできて、我に返る。

 いつの間にか、モンブランの三分の一ほどを食べたところで手が止まっていた。

「ああ、いや、食べる食べる」

「もしかして智くん、モンブラン苦手だった?」

 いや、と首を振りかけて、ふと桃ちゃんの顔を見る。じっとこちらを見つめる桃ちゃんの目は、心配そうというより、どこか期待に満ちていて

「……あ、うん。実は。よかったら桃ちゃん、食べてくれない?」

「えっ、いいの?」

 ぱっと桃ちゃんの顔が輝く。どうやら正解だったみたいだ。うん、と俺が笑ってモンブランを桃ちゃんのほうへ差し出すと

「あ、じゃあ、私のチーズケーキと交換しよう? ごめんなさい、半分ぐらい食べちゃったけど……」

「いや、いいよ。チーズケーキも桃ちゃんが食べて」

「え、でも」

「もうお腹いっぱいだから、俺」

 実際、心配事と桃ちゃんが俺の部屋にいるという緊張のせいで、さっきから喉の通りが悪い。

「ほんとに? いいの?」

「うん。食べてもらえるとありがたいです」

 じゃあ、と桃ちゃんはうれしそうに笑ってモンブランを受け取ると

「いただきます! ありがとう」

「どうぞどうぞ」

「うれしいな。私ね、実はちょっと後悔してたの。智くんの食べてるモンブランがすごくおいしそうに見えて。やっぱりモンブランにすればよかったかな、って」

 なんとなく、それは感じていた。さっきから、ちらちらと視線が飛んできていたから。

 桃ちゃんはちょっと恥ずかしそうに自分の手元に視線を落として

「私、いっつもそうなんだ」

「そうって?」

「人の食べてるものがね、おいしそうに見えちゃうの」

 桃ちゃんははにかむような笑顔でフォークを手に取ると、もう一度、いただきます、と繰り返した。



 ケーキを食べ終えると、桃ちゃんはまた、アルバムが見たいと言った。

「いつ頃のやつがいいの?」

「えっとね、じゃあ次は小学生の智くんが見たいな」

 言われて、本棚からアルバムを探す。俺が大きくなるにつれ、写真を撮る機会は減っていったらしい。最初は一年でアルバム一冊分あったのが、小学生にもなると三年で一冊ほどのペースになっている。

「あ、春子ちゃんだ」

 あいかわらず「かわいい」を連呼しながらアルバムをめくっていく桃ちゃんが、たびたび手を止めて熱心に眺めるページがあった。それは決まって、春子の写ったページだった。

「本当にずっといっしょにいるんだね、智くんと春子ちゃん」

「腐れ縁ってやつだからなあ」

 こうしてアルバムを眺めていると、俺もあらためて実感する。三歳頃のアルバムも小学生時代のアルバムも。けっこうな頻度で春子が写り込んでいる。途切れることなく。

「途中で疎遠になることとかなかったの? だいたい小学校の高学年ぐらいで、あんまり男女で遊ばなくならないっけ」

「そういうのはなかったなあ、そういや」

 春子のあっけらかんとした性格のせいか、あまりに小さい頃からいっしょにいすぎたせいか、そんな意識をすることもなくここまできてしまった。

 きっと春子のほうもそうなのだろう。中学に上がるまで、俺のほうが春子より背も低かったし、どちらかというと、俺が春子に守られていたようなものだから。


「でも、よかった」

 ふいに桃ちゃんがぽつんと呟いて、なにが、と聞き返せば

「そのおかげで、私は智くんと出会えたんだから」

 噛みしめるような口調に、どきっとする。顔を上げると、桃ちゃんもこちらを見ていた。至近距離で視線がぶつかり、よけいに鼓動が速まる。

「実はね」

 俺が返す言葉を探しあぐねているあいだに、桃ちゃんが悪戯っぽい笑顔で続ける。

「春子ちゃんのせいなんだよ」

「え?」

「春子ちゃん、いつもすごく楽しそうに話してたの、智くんのこと。そのときの春子ちゃんの顔見てたらね、私、智くんのこと気になるようになっちゃったんだ。あんまり話したこともなかったのに」

 だから、と視線を落として桃ちゃんは言った。

「春子ちゃんが、悪いんだよ」



 けっきょく桃ちゃんが俺の家に来てしたことは、ケーキを食べて紅茶を飲んで、俺の小さい頃のアルバムを見ただけだった。「すごく楽しかった」とは言ってくれたのでよかったけれど。

 帰る間際、桃ちゃんはアルバムの中の写真を一枚くれないかと言ってきた。

「お願い。落ち込んだときとかに眺めて、元気をもらいたいの」

 こんなので桃ちゃんが元気になるなら安いものだと思い、「いいよ、好きなの選んで」と俺はアルバムを差し出す。

 真剣な顔で吟味した末、桃ちゃんが選んだのは、例の泣いている俺となぐさめる春子の写真だった。

「え、これでいいの?」

「うん、これがいい」

 ほくほくとした顔で桃ちゃんは写真を見つめながら

「これがいちばんかわいいもん。泣いてる智くんも、お姉さんぶってる春子ちゃんも。すっごくかわいい」

 まあ、桃ちゃんがそう言うのならそれでいいけれど。

 その写真は、どちらかというと俺より春子がメインに写っていたから、少しだけ、寂しくなってしまった。

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