第9話

「はい、これ」

 巾着袋を差し出すと、桃ちゃんはきょとんとした顔でそれを眺めた。

「え、なあに?」

「お弁当。桃ちゃんに」

「……へ?」

 今度は素っ頓狂な声を立てて、桃ちゃんが顔を上げる。「お弁当?」なにを言われたのかよくわからなかったみたいに、軽くまばたきをする。

「私に?」

「そう。桃ちゃんに、お弁当を作ってきました」

「作ってきた?」

 桃ちゃんは何度も俺の顔と巾着袋を見比べながら、ひとつずつ聞き返してくる。

「智くんが、お弁当作ったの?」

「そうだよ」

 信じられない、という顔で訊いてくる桃ちゃんに、俺はちょっと胸を張って頷いてみせる。

 朝五時に起きて、ひとり暗い台所に立って作ってきた。母や姉にさんざん冷やかされながら。


「私が、食べていいの?」

「もちろん。むしろ食べてください。ぜひ」

「わあ……」

 桃ちゃんはゆっくりと手を伸ばし、なにか壊れ物でも扱うみたいに、両手でそっと巾着袋を受け取った。そうして胸の前で抱きしめるように巾着袋を抱え、まっすぐに俺の顔を見ると

「ありがとう、智くん」

「どういたしまして」

「うれしい。……すっごく」

 その顔がうれしそうにほころぶのを見て、俺は心底ほっとする。桃ちゃんを喜ばせることができた自分に、ほっとする。


 桃ちゃんはベンチに座ると、膝の上に巾着袋を置いた。

 そこまで慎重にならなくていいのに、というほど繊細な動作で、そうっと中からお弁当箱を取り出す。そうしてゆっくりフタを開けるなり

「わあ、すごい!」

 大袈裟なほど、感動した声を上げてくれた。

「おいしそう! わ、卵焼きもある」弾む声で言いながら、箸でまず卵焼きをつまんだ桃ちゃんは

「これ智くんが焼いたの?」

「うん、まあ。ごめん、ちょっと焦げてるね」

「え、ぜんぜん気にならないよ。すごく上手だと思う」

 顔の前に持ってきた卵焼きをまじまじと眺めてから、桃ちゃんはようやく口に入れた。

 途端、またびっくりした顔でこちらを見て

「すっごくおいしい!」

「ほんと? よかった」

 全力で褒めてくれる桃ちゃんに照れくさくなってきて、俺も自分のお弁当のフタを開ける。中身はもちろん桃ちゃんにあげたものと同じ。鶏の照り焼きに白菜のごま和え、きんぴらこぼう、卵焼き。昨日の晩ご飯の残りと、今朝俺が作ったものが混ざっている。

「すごいね、智くん。こんなに料理上手いんだ」

「いや、全然たいしたことないって。桃ちゃんの口に合ったならよかったけど」

「うん、本当においしい」

 何度も繰り返しながら、桃ちゃんは普段よりゆっくりとお弁当を食べている。ひとつひとつのおかずを、噛みしめるみたいに。

 ちらっと彼女のほうをうかがえば、うれしそうにお弁当に目を落とす横顔があった。いい子だなあ、と何度目になるかわからない感慨を抱くと同時に、ふいに胸が締めつけられる。いい子なのだ。桃ちゃんは、ほんとうに。なのに。


「……あのさ、桃ちゃん」

「うん?」

「俺は、桃ちゃんが、好きだよ」

 へっ、とちょっとひっくり返った声を上げ、桃ちゃんがこちらを振り向く。

 俺は箸を置くと、身体ごと桃ちゃんのほうを向き直って

「だから、なにか桃ちゃんが困ってたら助けたいし、力になりたいって思ってる」

「ど、どうしたの急に」

「だからさ」

 あわてたように視線を彷徨わせる桃ちゃんにかまわず、俺は真剣な声で続ける。

「なにか困ったことがあったら、なんでも言ってよ」

「……智くん」

「なにができるかはわかんないけど。でもとにかく、一人で抱え込まないでほしいから」

 桃ちゃんはしばし黙って俺の顔を見つめていた。

 やがて、膝の上に視線を落とした彼女が、うん、と小さく頷く。

「ありがとう」

「うん」

「私も、智くんが好きだよ」

「……うん」


 ごちそうさまでした、と桃ちゃんが行儀良く手を合わせる。

「ほんとにおいしかったよ」

 噛みしめるように言ってくれる桃ちゃんに、俺は思わず熱くなった頬を隠すよう顔を逸らした。そうして意味もなく頭を掻きながら

「それはよかったです」

「ね、智くん」

「ん?」

 お弁当箱を丁寧に巾着袋に入れてから、桃ちゃんが俺のほうを見る。そうしてちょっと照れたように首を傾げて

「今度の日曜日、空いてる?」

「空いてる」

 一秒も迷うことなく即答する。実際空いてるかどうかなんて考えもしなかった。どうせなにかあっても、桃ちゃんのためなら空ける。

「よかった」と桃ちゃんはうれしそうに笑うと

「じゃあ、会いたいな」

「うん。どっか遊び行く?」

 前に桃ちゃんが行きたいと言っていたカフェやベーグル専門店のことを思い出しながら尋ねたけれど

「ううん」

 思いがけなく桃ちゃんが首を横に振って、え、と俺は声を漏らす。桃ちゃんはまっすぐに俺の顔を見つめると、はにかむような笑顔で軽く首を傾げ

「智くんの家に、行きたい」

 と言った。

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