第8話

 ブランコに座って足を揺らすと、鈍い金属音が鳴った。

 夕陽に照らされた、小さな公園を見渡す。

 すべり台のところに、幼稚園児ぐらいの女の子が二人いる。さっきから飽きることなく、すべり台を上っては降りてを繰り返している。ずいぶん単調な遊びのようだけれど、二人とも本当に楽しそうだ。無邪気な笑い声が、しきりにこちらまで響いてくる。


 俺も昔は、あんなふうにここで遊んでいたことを思い出した。主に春子と。あの頃はまだ、春子のほうが俺より背が高くて、足も春子のほうが速くて、俺はいつも彼女のあとを追いかけていた気がする。

 ふいにそんなことを思い出して、懐かしい気分にひたっていたら

「――智?」

 今まさに思い出していた、彼女の声がした。

 顔を上げると、入り口のところから春子がこちらを見ていた。


「なにしてるの? 今日は智がブランコ?」

「春子待ってた」

 短く返して、ちょいちょいと手招きをする。

「え、なに?」春子は怪訝な顔をしながらも、呼ばれるままこちらに歩いてくると

「私に用事?」

「ちょっと話したかったから」

「なにを?」

「桃ちゃんのことで」

 そう告げた俺の声が硬かったからか、そこでふっと春子が真顔になった。


「……どうしたの?」尋ねながら、隣のブランコに腰を下ろす。

「なんかあった? 喧嘩でもした?」

「いや、そういうんじゃないけど。……あのさ、桃ちゃんって」

「うん」

「クラスじゃどんな感じなの?」

 どんな感じって、と春子は怪訝そうに繰り返してから

「べつに、智といっしょにいるときと同じ感じ、だと思うけど」

「いや、そうじゃなくて。……あ、じゃあさ」

 いまいち訊きたいことが伝わらなかったようなので、質問を変える。

「桃ちゃんって、春子以外だと誰と仲良いの?」

「私以外?」

 今度はちょっと困ったような表情を浮かべ、聞き返す。その反応だけで、だいたいの察しはついた。ついてしまった。「えーと」春子は、少しだけ迷うように間を置いたあとで

「私以外には……あんまり、いないかなあ。仲良い子」

「春子だけってこと?」

「いや、私が知らないだけかもしれないけどね。ほら、桃ちゃん大人しいほうだし、あんまり友達が多いタイプじゃないみたいだから」

 あわてたようにフォローする春子の口ぶりに、よけいに腹の底にはなにか重たいものが沈む。

 そっか、と低く呟いて視線を落としていると、春子が心配そうに顔をのぞき込んできて

「ねえ、なんで急にそんなこと訊くの? なんかあった?」

「……桃ちゃんが、スリッパ履いてた」

「え?」

「それだけなんだけど。なんか気になって。なあ春子」

 そこで軽く言葉を切り、彼女のほうを向き直る。

「桃ちゃんってさ」

 次の言葉を口に出すのに、一瞬、ひどく抵抗を覚えた。けれど他の表現も思いつかなくて、短く息を吸ってから、語を継ぐ。

「いじめられてたり、しないよな?」

 春子は顔を強張らせ、俺を見つめた。

 無言で何度かまばたきをする。


「……え、智」やがて、強張った表情のまま静かに口を開いた彼女は

「なにか見たの? その、桃ちゃんが、いじめられてるようなところ」

「見てはない。ただ、桃ちゃんがスリッパ履いてただけ。昨日も今日も、上履き忘れたから、って。おかしくね? ふつう上履き忘れるとかないじゃん。そもそも上履きとか家に持って帰らないし」

 春子は黙って足下に視線を落とす。

「それとさ、昨日も今日も、桃ちゃん、俺にお弁当作ってくるって言ってたんだ。なのに、昼休みになったら、やっぱりあげられなくなったってお弁当持ってこなくて。俺の分だけじゃなくて、自分のお弁当も」

「……お弁当」

「なあ、春子、なんか知らない? 教室で、なんか見てたりしない?」

 尋ねる声に、思わず必死な色がにじんだ。


 春子はうつむいたまま、しばらく黙り込んでいた。

 長い沈黙のあと、大きく息を吐いた春子がゆっくりと顔を上げる。そうして硬い表情でまっすぐに俺を見た。

「なにも、見たことはないよ。ただ」

 春子のほうも、次の言葉を口にするのを一瞬ためらったようだった。

「……桃ちゃんが、女子たちのあいだであんまり好かれてないのは、知ってる」

 言ったあとで、自分の口にした言葉に傷つくみたいに、春子がうつむく。

「なんで?」

「ほら、桃ちゃんかわいいでしょ。それで男子に人気あるし」

「は? なんだそれ」

 思わず憮然とした声が漏れる。かわいいから嫌われる? なんだそれ。

「そんなん理不尽もいいとこじゃん。かわいいのなんて桃ちゃんの責任じゃないし」

「そうだけど、でも桃ちゃん大人しいし、なのに目立つしモテるし、なんていうか、とにかく気に食わないって人もいるみたいなんだよ。どうしても」

「意味わかんねえ」

 イライラと吐き捨てて、乱暴に頭を掻く。腹の底からふつふつと怒りが湧いてきて、無性に走り出したいような気分になる。たまらなくなって思わず立ち上がったところで、横から伸びてきた手に腕をつかまれた。

「智」

 振り向くと、春子が真剣な顔でまっすぐにこちらを見ていた。

「でも私、それだけだと思ってた。桃ちゃんがなにか、そういう、嫌がらせみたいなのされてるとは、思ってなかった。ありがとう」

「……は?」

 唐突に口にされた感謝の言葉に、眉を寄せる。春子のほうも、自分の発言がおかしかったことにはすぐに気づいたのか、「ああ、いや、あの」とあわてたように言葉を継ぎ

「気づいてくれてありがとう、ってこと。これからは私、気をつけて見てるようにするから。桃ちゃんのこと」

「……ああ、うん」

 はっきりとした声で告げた春子の表情には正義感がみなぎっていて、一瞬、怒りも押し流すぐらいの懐かしさが湧いた。きっと思い出してしまったからだ。不思議なぐらい、昔と変わらない彼女の表情に。

 小さな頃。まだ、春子のほうが俺より背が高かった頃。俺はよく、こんな顔をした春子に助けられていた。


「でも、智」

 そこでまた真面目な顔に戻った春子が、じっと俺の目を見つめてくる。

「たぶん、桃ちゃんが今いちばん頼りにしてるのは智だよ。だから智も、お願いね」

「……おう」

 目を伏せると、まぶたの裏に桃ちゃんの笑顔が浮かんだ。はにかむように笑う、控えめな笑顔。守れるだろうか。今度は俺が。

 せめて、俺にできることがあればなんでもしてあげよう、とそれだけは強く決意した。

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