第2話

 それからどこをどう辿ったのかはわかりません。いつしか雨風は止み、気がつくと小舟は、立派にお寺の前まで流れ着いていたのです。

 三人は、ずぶ濡れのビーバーのような情けない格好で、それでもどうにかお堂の中へ駆け込みました。ところがお堂には誰もいませんでした。ひっそりと静まりかえり、村人も、お坊様も、猫やネズミさえ、いませんでした。お勝手へも行ってみましたが、やっぱり、お母様の姿もどこにもありませんでした。

 二郎も三郎も疲れきってお堂に座り込んでしまいましたので、一郎がまた一人で外に出てみますと、昨日までの見慣れた景色は消え去り、そこにはただ、見渡す限りの果てしない湖が広がっていたのです。嵐はすっかり村を飲み込んで、今ではもう穏やかにその水面をうるうると輝かせているのでした。水底には確かに家や田畑がぼんやりとゆがんで見え、まるで世界がひっくり返ってしまったみたいに、お寺だけがそこにポツンと浮かんでいるのです。他には、ところどころに背の高い木々のてっぺんがかろうじて突き出ていて、そのあちこちの枝に、わずかに生き残った鳥たちがぼうぜんとしがみついているのでした。

 三人はお堂で川の字になって、眠りたいだけ眠りました。つらくて、悲しくて、どうすることもできなかったのです。


 翌朝、みずみずしいりんごの香りで一郎は目覚めました。見ると二郎と三郎とが、お釈迦様の像の前にきちんとひざをついて、シャリシャリとりんごをかじっています。お供え物をお釈迦様が分けてくださったのだと、一郎も急いで身を正して手を合わせますと、まだ青い実をひとつ取ってかぶりつきました。それを見た三郎は、兄さんの酸っぱい顔につられて自分まで口をすぼめながら、またひとつ、慎重に赤いりんご選びました。そのとなりでは二郎が、食べ終えた芯を三つも四つも並べて、熱っぽくつぶやきました。

「ぼく、これで何個目だろう」

 二郎にはもともと胃腸の弱いところがあって、ずいぶんと食が細かったのです。お正月やなんかに珍しいものを食べたりすると、夜になってゲェゲェ吐いて、お母様が心配して重湯を作ってやっても、すぐにお腹がふくれていくらも飲み込めないのでした。

「ぼく、すっかり丈夫になったんだねぇ」

 三人は、夢中になってお釈迦様のりんごを食べ続けました。そのうちに匂いも味もわからなくなってきて、ただりんごをかじる音だけが、シャリシャリシャリシャリとお堂にむなしく響き渡りました。

 すると突然、三郎がひらめいたように叫んだのです。

「お母様だよ。お母様がお勝手でお米を研いでいらっしゃるよ」

「違うよ、お米を研ぐ音でないよ。りんごをかじる音だよ」

 けれども三郎はもう狂ったように駆け出しておりました。二人も後を追って行ってみますと、なんとお勝手ではいつの間にか、お釜にご飯が炊けていたのです。

「ぼくの茶碗があるよ。おはしもあるよ」

 見ると確かに、いつも家で使っている自分たちの器が、きちんとそこに並べてありました。

「お母様だ、お母様だ」

 そう言って三郎は跳びはねました。二郎も勇気づいて言いました。

「お母様はぼくらを心配して、ご飯を炊いておいてくださったんだ。そしてまたすぐにどこかへ手伝いに行かなきゃいけなかったんだよ。ねぇ、兄さん」

 一郎も、そうかもしれないなと思いました。

「うん、違いないよ。お母様は眠っているぼくらを起こさないように、三郎の頭をそっとなでてくださったかもしれない」

 三人は、自分の器にご飯をよそって食べました。けれども、食べても食べてもお腹はいっぱいになりませんでした。味もよくわかりませんでした。ただお母様の無事を思うと三人とも胸がいっぱいだったのです。

  それから毎日、兄弟らが目を覚ますとお勝手ではご飯が炊けていました。三人はそれを食べ、午後には一郎は、弟たちに九九を教えたり、お経を読んでやったりもしました。お釈迦様はりんごをいつでも分けてくださいました。


 数日がたったある日、いっそうの小舟が近づいて来るのを見つけて、三郎はまた「お母様だ」と跳びはねました。

 けれどもその舟には誰も乗っておらず、ひとりでにお寺の前まですーっとやって来ると、今度は水際でくるりと向きを変え、まるで行き先を知っているみたいに右へ左へ揺れながらどこかへ行ってしまったのでした。

「幽霊船だろうか」

 青ざめた顔で二郎がつぶやきました。

 しばらくしてまた同じような舟がやって来たとき、三郎はついに泣き出してしまいました。舟はやっぱり無人で、水際までやって来るとふいに向きを変え、右へ左へと、すっかり同じぐあいに進んでゆきます。ときには一度にいくつもの舟がやって来ることもありました。まるで葬列のようだと、一郎は思いました。やがて、自分たちを乗せてここまでやってきた小舟も、引き寄せられるようにその不思議な列に加わったとき、兄弟らはもう黙ってそれを見送りました。幽霊たちがどこへ行くのか、お母様はどこにいらっしゃるのか、そんなことは誰にもわかるはずがありませんでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る