第68話 惑う月

 夕食前にひとっ風呂浴びたいらしい。ルディと暁火が大浴場へ向かったのため、真彩と二人きりになった。

「真彩さんはお風呂行かなくていいんですか?」

 なんとなく話を振ると、彼女はモジモジとしながら答える。

「え? ああ、まあ、ね……」

 なんてことない話題だったはずなのだが。

 妙にしおらしいその態度に疑問を呈していると、彼女は遠慮がちにこう言った。

「あの……さっきの赤ちゃんごっこ、またできないかな……」

 この人いきなり何言ってんだ。

「やろうと思って簡単にやれることじゃないからさぁ……今のうちに……満喫しておきたいなって……」

「ええ、嫌ですよ……」

 普通に嫌なので断ると、彼女は急に正座をした。そのまま大きく手を上げて、上半身を倒して土下座のポーズ。

「お願い! この通り!! 一生のお願いだから……!」

 大の大人が中学生男子を前に赤ちゃんプレイをさせてくれと土下座で頼み込んでいる。あまりにも痛々しいその光景にいたたまれなくなった旭は、つい首を縦に振ってしまう。

「……わかりましたよ。仕方がないですね」

 これが不味かった。

「ありがとー!」

 ぱぁっと満面の笑みを浮かべた彼女は、正座のまま顔を上げ、自らの腿をポンポンと叩く。それが「こっちへおいで」の合図だと気づくのに、少しばかり時間を要した。

 誰も居ない周囲を二度三度確認した旭は、ゆっくりと彼女の元へ歩み寄り、迎え入れるように広げられた両腕に身を預けた。

「おおよしよし、旭くんはいい子だねえ」

 背中を擦る細い腕と、鼻孔をくすぐる甘い香り。死ぬほど恥ずかしいのだが、この感覚は嫌いではない。

 恥ずかしいので、認めたくはないのだが。

「いい子いい子~かわいいねえ。お姉さんにもっと甘えていいんだよ~」

「うう……」

「はぁいよくできました~。甘え上手だね~いい子いい子~」

 そう言うと、彼女は机上の饅頭を手に取った。

「は~い旭く~ん、ごはんでちゅよ~あーんちて~」

「あー……」

「はい、あーん。……もぐもぐできてえらいでちゅね~」

「失礼いたします」

「はーい、おねむの時間でちゅよ~。おねーさんのお膝でおねんねちまちょうね~」

 ふすまが開いた。和服の女性が両膝をつき、深々と頭を垂れる。

「そろそろお夕食をお運びしても――」

 二人の姿は、その目にどう映ったのだろうか。真彩の腕の隙間から見えたのは、仲居さんの笑顔が強張っていく過程だった。

 時間が止まる。十秒ほど。

「大変、失礼致しました……」

 動揺を隠したのは矜持なのだろう。愛想笑いを浮かべ、おずおずと退室する仲居さん。無言でそれを見送った真彩は、ひとしきり赤くなったり青くなったりしてから旭を放り出した。

「待って! 待ってください!! 誤解!! 誤解ですから!! 待って!!」

 閉ざされた扉に縋り付き、なにかを必死に懇願する。意味のない行為であったが、しかし彼女の自尊心を保つためには必要なことでもあった。

 いたたまれなくなった旭は、真彩に寄り添い背中をさする。

「だ、大丈夫ですよ。お客さんのことなんて、すぐに忘れますから」

「うう……旭くぅん……」

 プライドが砕け散ってしまったのだろう。よわい二十四の女性はまるで赤子のように旭の胸に飛び込み、ずずっと洟をすする。それを優しく受けとめた旭は、すっかり丸くなった背中をゆっくりと撫でた。

 先ほどとは逆の構図である。静かな時間が流れる中、まだ薄い胸板に真彩が顔を押し付けた。旭は無言でそれを包み込む。

 これで彼女の気が済むのなら。

 そう思いながら真彩を無言で励ましていると、再び扉が開かれた。

「戻ったぞ――」

 靴を脱ぐためにかがんだルディは、目の前で繰り広げられるそれに表情を歪める。まるで、なにかおぞましいものを目にしてしまった時のように。

 あるいは、比喩でもなんでもなく、おぞましく映ったのかもしれない。

「趣味なら改めた方がいいぞ」

 心底嫌そうに吐き捨てたルディは、そそくさと客室へ戻っていった。

「いっ――」

 喉の奥から絞り出されるような悲鳴。ギリギリ声になったそれは、しかし意図を伝えられるほどのものではない。ある意味、泣きわめく赤ん坊のようでもあった。

 全身の毛を逆立て、顔を真っ赤にする真彩。目を見開いて立ち上がり、覚束ない足取りでひたひたと廊下を進む。何度か発声に失敗したのち、ようやく言葉になったのがこれだ。

「記憶がなくなるまで殴る」

 言葉と共に大きく拳を振り上げる。対するルディは、いつぞやの光の弓矢を喚び出していた。

「望むならお前の記憶だけ消してやるぞ」

 記憶操作も厭わない。しかし真彩も必死だった。

「あんたは忘れる?」

「忘れない」

「じゃあ、だめだ」

 真彩の踏み込みが本気だ。旭は止めに入った。

「まあまあ、どうせルディさんもすぐに忘れますって。それになんか言われたら五兆って返せばいいじゃないですか」

「おい」

 おっと藪蛇。

「……それもそっか。偉そうなこと言ってても五兆だもんね。エロそうなこと言ってるほうが似合うよ」

 ルディの視線が旭に刺さる。あわや大惨事大戦かと危ぶまれたが、意外なことが起きて事なきを得た。

「ねえ提案なんだけど。あたし五兆のこと忘れるから、さっきのなかったことにしてくれない?」

「……考えてやらんでもない」

 休戦協定……いや、歴史的和解だ。二人が忘れ合ったところで旭が全て覚えているのだが、それを言うのは野暮だろう。これまでの諍いに思いを馳せ、この結末に涙する。

「ただいまー。お夜食買ってきましたよー」

 そこで暁火が帰ってきた。

 両手に提げられたコンビニ袋を目ざとく見つけたルディは、ちらと背後の窓を見やる。

「雨は止んだか……」

 いつの間にやら雨は上がり、雲もまばらになっていた。いよいよもって訪れる満月の夜を前に、旭は生唾を飲む。今宵、遂に荒ぶる神と相対するのだ。

 ……その前に、まずは腹ごしらえ。



 日の入りまでに時間があるのは、なによりの救いであった。美味しいご飯をゆっくりと楽しめないのは、人生における重大な損失だからだ。

 今日のメニューは戦場原をイメージした創作料理。まず見た目がいい。第一印象は外見で決まるというのは、料理にも言えたことだ。

 実際に見た戦場原というのは、有り体に言ってあまり美しい場所ではない。植生のためか全体的に色合いがくすんでいるし、美しい花が咲き乱れているわけでもない。木々はどれもひょろ長く、葉のつきも疎らだ。

 それをメニューに落とし込むための工夫が、随所に凝らされている。

 たとえばこの血の池(実際には池ではなく、局所的に赤ゴケの群生する地点がそう見えるため命名された)をイメージした盛り合わせ。

 あまり食欲をそそる題材でないことを考慮してか、新鮮な葉菜類と鮮魚の赤身というシンプルな美味を配置している。赤と緑のコントラストが見た目にも楽しい。

「いただきまーす」

 さてゆっくりと味わおう。……そう思っていたのだが。

「ゆっくり飯なんて食ってる場合じゃねーぞ」

 窓の外から声。

「……コウガ!? コウガじゃないか!!」

 なぜこんなところに? 旭の疑問に答えるためか、彼は壁をすり抜けて部屋に侵入した。怖い。

「なんの用だ」

 露骨に機嫌を損ねるルディ。そんな彼女の態度にビクリと体を震わせつつ、彼は言う。

「老狼がもう暴れてる。止めに来たんじゃないのか?」

「なんだと!?」

 声につられて空を見る。日の入りにはまだ早い――はずだった。

「空が暗い……幻術か? だが……」

 真っ暗闇に、ぽつんと光る満月。現実感の欠けた光景に、旭達は唖然とする。

「グズグズしてる時間はないんじゃねえ?」

 無責任に吐き捨てたコウガは、そのまま部屋を出ていった。

 緊急事態だ。

 急いで夕食を食べ終えた四人は、そのまま旅館を飛び出した。

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