第62話 老狼
不気味な空気が漂っていた。
湿地帯特有の、湿気を孕んでジメジメとした空気。生暖かい夜風が吹いていることもあり、今は輪をかけて不快な肌触りをしている。
だが、決してそれだけではないような気がした。
一歩、また一歩と歩くたび、刺すような視線を感じる。北から西から南から――視線の主がどこに居るのか、判然としないまま進んでいく。
狼の遠吠えだけが響く暗闇の中、不意にルディが呟いた。
「……月が大きい」
空を見ていた彼女は、次いで周囲に視線を向ける。
「この辺りでいいだろう」
言うなり彼女は指を鳴らす。するとどうだ、周囲に八つの鬼火が浮かび上がったではないか。
「霊獣は滅多にその姿を見せない。特に狼はいつも一匹だ。人間とはつるみたがらないから、腹を探られる前に行方をくらませてしまう」
禍々しく揺れる鬼火。そのひとつが、不意に消えた。
「くらませる……というのは、言葉遊びだ。本当にくらませているのは、行方ではなく人間の目」
目眩ましだと、彼女は言外に付け足す。
「こっちだ」
消えた鬼火の方へ向かい、彼女は歩き出す。木道を外れていたが、躊躇している余裕はない。
進む内に、またしても鬼火がひとつ消えた。今度は正面。ここまで来れば旭にも察しがつく。彼女の発した鬼火は、老狼の目眩ましに反応して消えるのだ。
「動くつもりはないようだな」
ずんずんと進んでいくと、どんどん手つかずの土地に踏み入っていく。観光地としての姿は鳴りを潜め、純然たる
木々の合間に、小さな洞穴があった。入り口に飾られているのは……
この先になにかが祀られている。
「ライトはあるか?」
「はい」
真彩が懐中電灯を手渡すと、彼女はそれを無遠慮に受け取ってズカズカと踏み込んでいった。こんな時でも持ち前のふてぶてしさは変わらない。ビビっていても仕方がないので、旭達もそれに追随する。
決して深い洞窟ではなかった。数分も経たない内に、最奥へと辿り着く。
「これは……」
旭は絶句した。
それは、恐らくは祠だったのだろう。なにかを祀っていた、ほんの小さな祠。
多分、祠だったはずだ。
だが、決して断言はできない。
外見から判断すれば明らかなのに、あるものの存在が旭の判断を鈍らせていた。
「これ、なに……?」
暁火が固唾を飲み込む。それがなんなのか、旭にはなんとなくわかる。
観音開きの扉を封じるようにグルグルと巻きつけられた、ドス黒い液体が染み込んだ包帯。なんらかの儀式によって祠を堅く閉ざしていたであろうそれは、しかし新鮮な切り傷によって中央から断たれ、その役目を終えていた。
なにが起きたのかは、なんとなくわかる。何者かの手によって一度施された封印が、何者かの手によって解き放たれたのだ。
なぜ、そんなことを?
「どうして、こんな……」
乾く喉を震わせ、旭は呟く。
「その答えは、あいつが知っているかもしれないぞ?」
ルディの言葉に、旭は背後を振り返った。そこに佇んでいたのは――老いた狼。
「
彼女の述べた推論に、旭はハッとする。
「そうか。百足に封じられていた……百足?」
このおぞましい封印のどこに百足の要素があるというのか。旭が浮かべた疑問符に応えたのは――意外な存在。
「大百足とは……百人の兵隊であった」
老狼は、確かにそう言ったのだ。
「これも言葉遊びってことですか」
百足、つまり百本の足。いや、この場合は一足二足で数えた靴の数であろう。この地に集った
「恐らくはな。正解はどうだ?」
ルディの問いかけに、しかし老狼は答えなかった。その代わりに放たれたのは、甲高い遠吠え。
「
その変化を、旭は見逃さなかった。
「待ってください。様子がおかしい」
老狼の毛が逆立ち、旭達をギリギリと睨みつけている。牙を剥いた口からは赤々とした歯茎が露出し、歯の隙間から唾液を滴らせていた。獲物を狙う、野生の
喉元近くまで大きく裂けた口が、ゆっくりと開く。
「タチサレ……」
恐れというものを知らないのだろうか。ルディは一歩も退こうとしない。
「わかるように話せ」
「立ち去れ……私の理性が、燃え尽きる前に……」
楔たるオオムカデを雷光に奪われ、彼は湧き出す情動にその身を灼かれようとしている。
喉の奥から絞り出すようなその声は、警告というよりかは――願望に近いものに思えた。彼とて誰かに祀られた神格。人間を襲い殺すのは本意ではないのだろう。
「ルディさん、ここは……」
狭い洞穴の中だ。ヴィルデザイアはおろか、彼女の魔法ですら上手く立ち回れる保証がない。
「潮時か」
彼女を先頭に、旭を
警告に従い、さっさと宿まで帰った四人。旭達は卓を囲み、ズズッと熱い茶をすする。
「悪い神様ってわけじゃなさそうでしたね」
旭の言葉に真彩は頷く。
「そうだね。できれば助けてあげたいけど……そう上手くも行かないか」
うーんと考える。しばらくして、なにかひらめいたらしい暁火が手を叩いた。
「そうだ。あの洞窟ごと封印とかってできないかな」
狭い祠に封じられないのなら、封印する範囲を広げればいいということだ。方法は
「それいいかも。真彩さんはどう思います?」
「私も賛成かな。それに、それなら一時しのぎでも大丈夫だし」
言われて初めて気づいたが、確かにその通りだ。暫定的に洞窟ごと封印しておいて、オオムカデの問題を解決したら雷光を締め上げて本命の儀式を執り行なえばいい。
「問題は、満月の夜を乗り切れるほど強力な封印があるかってところだけど……」
そこまで言って、真彩はルディへ視線を向ける。
一人だけ旅館のあの場所――広縁の椅子に腰掛けていたルディは、空を見上げて呟いた。
「月が大きい……」
「は?」
話を聞いていなかったのだろうか。
「あのさ、今狼をどうしようかって話してて――」
真彩が呆れ顔で説明を繰り返す。
だが、ルディはそれを続く言葉で遮った。
「明日、満月になるかもしれない」
澄み渡った夏の空に浮かぶお月さまは、眩いばかりの反射光でその横顔を妖しく照らしていた。
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