嘘吐き女
第8話 肝試しと怪異
それから少し経って、夏休み四日目。七月二十四日のことだ。
楽しい楽しい夏休みだが、今年の夏には一つだけ大きな落とし穴があった。
これまで部屋に居なかったはずの存在に、ついつい視線を意識してしまう。先日からこの部屋に居候している、悪魔祓いの魔女ルディだ。
その黒装束の女性から、刺すような視線を感じる――わけではない。彼女は旭の日常生活になどさして興味はないからだ。だが、問題は彼女の興味の行く先ではない。今までここになかったはずの存在が、居るだけで旭を威圧しているのだ。
誰に言われるまでもなく宿題を進めているのは、そういった事情からだ。
現にここ昨日は一日の殆どを宿題に費やしている。あまり集中できないので効率がいいとは言えないが……単純に取り組んだ時間が長いため、既にドリルも夏休みの友も終りが見えていた。
とはいえ、ルディも日がな一日この部屋で過ごしているわけではない。彼女には彼女なりにやるべきことがあって、不定期に外出してなにやら調べているようだ。
急に外出したかと思えば、不意に休憩に戻ってくる。夏の暑さに未だに適応できていないらしく、エアコンの効いたこの部屋に逃げ場を求めているようだ。
既に遊び尽くしたアクションゲームを惰性でプレイしながら、彼女の動向を伺う。
「またしばらく出てくる」
冷たいジュースを口にして満足したのか、彼女はそれだけ言い残して部屋を出た。
いつ戻ってくるのかはわからない。
基本的に一時間から二時間ほど外出しているのだが、余程暑さが堪えるのか十分足らずで帰ってくる事もある。それも完全にランダムだ。
不定期なので、思うようにアレができずに困っている。
アレはアレだ。
仔細に関しては省略する。あまり語るのが美しい事柄でもないからだ。共有しておくべき浮動情報として、旭は時間をかけてゆっくりと行うタイプであることのみ記しておく。
本題に戻ろう。
その日、旭のボルテージは過去最高に滾っていた。要因は複数ある。現在置かれている致せない環境に加え、昨夜見ていたバラエティ番組が少し大人向けだったことで落ち着きを喪い、連想ゲーム的な流れで風呂上がりのルディを思い出してしまったのだ。思春期の少年にとって劇物とすら言える代物であったが、あの時は直後の気まずい雰囲気に全て流されてしまっていた。しかし――
「雄飛さんから差し入れだ。そこに置いておくぞ」
「おっと、ありがとうございます」
今は彼女とそれなりに友好な関係を築いてしまっている。
険悪ムードなんかとは比べるまでもないほど好ましい状況だが、さりとて別儀の気まずさが生じていることもまた事実。このジレンマは如何ともし難く、頼みの綱である男の子の儀式も今は思うようにいかない。
旭は悩んでいた。
宿題に打ち込んでいた手が止まる。ずっと頭と指を使っていたので、疲れてしまったのだ。気分転換をしよう。
差し入れの瓶コーラを流し込みながら、テレビをつけて甲子園を垂れ流す。暇つぶしにテレビを見ようにも、昼間はこればかりだ。興味のない中継映像を見ても、面白くもなんともなかった。そもそも旭は、野球のルールがよくわかっていないのだから。
どうせバレるんだから勝手に走らなきゃいいのに。
ボサッと画面を眺めていると、ルディは首をかしげた。
「面白いのか? これ」
「いや、よくわかんないです」
「そうか」
鉄壁の黒装束は、その柔肌のほとんどを包み隠している。肌が見えているのは首から上と、ドレスからはみ出した足先ぐらい。露出度で言えば、十パーセントを割るのではないだろうか。どこかの国のお姫様――と言うには人生経験を積みすぎているようにも見えるが――と言われてもしっくり来てしまうような、品のある衣装だ。
その浮世離れした姿は、魔女の称号に相応しい。
閑話休題。
無意識の内に余計なことを考えて、本題から気を逸らそうとしているようだ。それはある種の防衛本能なのか、あるいは理性によってもたらされたものなのだろうか。いいや、考えるだけ無駄だろう。どちらにせよ無意味だ。
旭の心は、溜まりに溜まった邪念を放出したがっているのだから。
このまま部屋に籠っていても埒が明かない。プライベートという概念は、とうの昔にこの部屋から霧散した。残酷な現実を受け止めて、今こそ立ち向かう時だ。幸いなことに、旭の自宅を兼ねている『能売川温泉
決意と共に残りのコーラを飲み干し、強い意志で立ち上がる。
「少し出かけてきますね」
「そうか。私もそろそろ出る」
あまり関心を持たれていないのは、不幸中の幸いだろう。これで一挙手一投足に興味を持たれたのではこちらの身が持たない、もとい作戦が通用しない。
そそくさと部屋を出た彼女の残り香。大人の女性というものは、やはりクラスの女子とは匂いが違うのだ。なにやら持ち込んでいた様子はないので、旭と同じ備え付けのボディソープを使っているはずだ。それでこのような差が生じるのは、香水か、あるいは……フェロモン的な何かなのか。
土壇場でペットなネタが増えてしまった。
早く一人になれる場所を探さなければ。
傍らにあったポケットティシュを握りしめ部屋を出る。
アテもなく飛び出した廊下を見回し、とりあえず人の少なさそうな方向へ向かう。長く住んでいるとはいえ、この複雑怪奇な間取りの全てを掌握したわけではなかった。生活空間から離れた部分にはあまり手を付けていないし、旧館の地下には姉と肝試しで訪れたきり足を踏み入れていない。
まだ見ぬ新天地が、きっとここにあるはずだ。
人目を避けてバックヤードを進み、時折従業員にぎこちない挨拶を返しながら桃源郷を探す。
……だが、これがなかなか見つからない。
トイレは駄目だ。長時間籠っているとクレームが入る。複雑な建物なので隠れ場所は多いのだが、その大半がただの物陰であり心細くて使えない。狙うは空き部屋……できれば、誰も使っていない部屋が望ましい。
思索を巡らせながら廊下を進む。
探索してみて気づいたのだが、完全に使われていない部屋というのは思ったよりも少なかった。大概の空き部屋は倉庫として利用されているからだ。それと、本当に使っていない部屋には施錠がされていた。用途を訊ねられるとマズいので、鍵は借りられない。
しかし希望が潰えたわけではなかった。倉庫に保管されている備品や資材は、常に利用されているわけではないからだ。季節限定のイベントで用いられる道具――例えば餅つき用の杵と臼――などは、その時にならにと使われない。であれば、冬場でしか使われない物品の保管庫にはほとんど人が立ち入らないはずだ。そこで隠れてしまえばいい。
クリスマスツリーの保管庫を探し当てた旭は、早速周囲を警戒する。狙い通り、人通りはない。障害物が多いため、いざとなれば隠れてズボンを上げるぐらいの時間も稼げる。完璧なスポットだ。
じっくり時間をかけるので、できればなにかに腰掛けていたい。部屋を探っていると、あるものが目に入った。
監視カメラだ。
想定される限り最悪の存在であり、下手に目撃されるより余程タチの悪い代物だった。映像として半永久的に残るというのは、考えただけでゾッとする。
特に問題なのは、カメラの映像に目を通しているのが
他の倉庫も同様、物資保護のためかカメラで監視されている。
改めて考えれば至極当然のことだ。久しく賢人になっていなかったので見落としていた。
しかし頼みの綱であった倉庫が使えないとなれば、打つ手も相当に限られてくる。
……いや、待て。
あるではないか。普段は誰も踏み込まず、かつ施錠もされていない空間が。
あの日あの時姉と踏み入れた、旧館の地下が。
あれほど静かで人気のない場所もない。腰を下ろすための椅子も持ち込めばいいし、障害物も多いので万一の時隠れやすい。こんな好条件の立地もなかなかないだろう。
そうと決まれば話は早い。旭は無心で長い廊下を駆ける。階段を上り下りして扉をくぐり、移動すること数分。
相も変わらず不気味な部屋だ。木製の階段を下り、立て付けの悪い扉を開く。錆びた蝶番からは、ギシギシと不快な音が響いた。
地下室に足を踏み入れる。と、不意に背中を叩かれた。ポンポンと、まるで行き先を訊ねるように。もしや誰かに見られていたのだろうか? 振り返ると、しかしそこには誰も居ない。気のせいだろうか。また一歩踏み出すと、今度は階段の軋む音がした。木造家屋はこれだから。一応振り返ってみたが、誰も居ない。もう一歩踏み出す。腕を誰かに掴まれた。振りほどく。誰も居ない。今度は一歩踏み出す前に振り返ってやった。誰も居ない。再び前に視線を戻す。
女が居た。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます