第7話 夏の始まり

 大鯉、オオゴイ、淵の主。

 妖怪に限らず、鯉の伝承は各地に存在するという。それもひとえに馴染み深さがあってのことだろう。内陸の地に住んでいても、一度は目にするその独特なシルエット。魚類に明るいものでなくとも、ひと目でそれとわかるはずだ。

 故に、市販の図鑑程度の知識しか持ち合わせていない旭では、目の前のアレが何者であるかを同定することはできない。いいや、幻想そのものである妖怪を同定するというのも、おかしな話ではあるのだが。

 わかるのは目の前で起きたことだけだ。

 まず、あの大鯉は空を飛ぶ――いや、空をと形容するのが正しいだろう。数年前、家族で出かけた公園に居たあの鯉のように、ひれをうねらせ空を泳ぐ。

 大した航行速度ではない。動きも単調で、観察していれば見切る事もできる。

 だが――

「ちょこまか逃げるな!」

 空を泳ぐ大鯉を、ヴィルデザイアは捉えることができなかった。

 上から横から、迫り離れるその魚影。存在ごと浮ついた錦鯉に空高く逃げられてしまえば、地に足ついた存在であるヴィルデザイアでは対抗できない。

 手を伸ばしても届かない。魚類特有のアホ面は、こちらを嘲笑っているかのようだった。

 しびれを切らしたルディが叫ぶ。

「銃を使え!」

 そう。言われて思い出したのだが、ヴィルデザイアは背中に巨大な銃を背負っている。火縄銃とショットガンを足して二で割らないようなフォルムだ。なので銃口が三つもある。トリプルバレルだ。

 月明かりに照らされた魚影。不規則に蠢くそれを射抜くべく、旭は銃口を突きつけた。

「ファイア!」

 ――命中。

 排出された薬莢が、夜風に吹かれて塵と化す。ただの弾丸ではないのだろう。

 その証左とも言うべきか――三本のバレルから射出された弾丸は、通常の弾丸ではありえないような螺旋を描いて大鯉を撃ち抜いた。だが撃ち抜かれた程度で黙る妖怪でもない。痛みに悶える大鯉は、八つ当たりのように地に降りた。大きなヒレをはためかせ、ヴィルデザイアに襲いかかる。

 しかし地上に降りてきてくれたのは僥倖だった。殺到する巨体。太い脚を肩幅に広げて踏ん張りを効かせる。大鯉とヴィルデザイアの質量は同等。大鯉が運動エネルギーを味方につけている以上、こちらは相応の準備で迎え撃つ他ない。

 廃墟をなぎ倒しながら迫る大鯉。両手でそれを受け止めて、すかさず地面に叩きつける。暴れる巨体が逃げないように踏みつけて、ゼロ距離で銃を突き立てた。

「これでも、喰らえ!!」

 炸裂――超近距離からすべての質量とエネルギーを叩きつける。土手っ腹に風穴が空いた大鯉は、断末魔の如くのたうち回り沈黙した。

 二度目の勝利だ。

 ふうと、大きく息つく。しかしまだ安らぎが訪れることはなかった。

 ルディが叫ぶ。

「油断するな!」

 旭の注意がルディに向かう。その視界の端で、倒したはずの大鯉が再び飛び上がっていた。再び銃を構え――逸る旭に、ルディは告げる。

「刀を使え! それ以外じゃ連中はくたばらない!」

 アドレナリンに支配された脳の中で、思い起こされるのは昨日の出来事。夜の出会いと二度の戦闘。飛頭蛮もろくろ首も――確かに短刀の一撃によって消滅していた。つまりそういうことだったのだ。

 飛び上がった大鯉の尻尾をギリギリで掴み、再び地面に叩きつける。短刀を射出し、逆手で構えて突き立てた。

「くらえ!!」

 勢いよく突き立てられた刃――しかし、硬い鱗にそれを阻まれてしまう。短刀で鱗を貫くのは無理だ。ならば強固な鱗のない部分を狙えばいい。

 口内は駄目だ。吻に阻まれる可能性が高い。目玉は的が小さすぎる。ならば狙うべきはえらの隙間だ。鯉の大きな鰓は、刃をねじ込むのに丁度いい。

「トドメだ!」

 暴れる大鯉の鰓に手をかけ、間に短刀を突き入れていく――おびただしい光の粒子が、旭の視界を塗りつぶした。



「この街は月がよく見える」

 高層建築物や街灯の少ない能売川温泉街は、確かに月明かりを遮るものが少ない。訪れた者は皆一様に感動する。が、旭にとっては見慣れた夜半の月光でしかない。

「だが、それに比べてこの街に充満する "よこしま" の気は強すぎる。普通は……地域差ぐらいあるが、大概は月明かりに反比例して弱まっていくものだ」

 言いながら、ルディは夜空を見上げた。白々しいほどに晴れ渡った月夜は、数多の星に彩られ、プラネタリウムもかくやと言うほど瞬いている。それはあくまで、見慣れた光景だ。

「ひとまず私はその件について調査しなければならない。今日のようなバケモノ退治と並行して、な」

 憂鬱そうな彼女の横顔には、何やら焦りのような感情が浮かんでいた。それほどまでにこの街の状況は悪いのだろうか。話の続きを促すように、旭はゴクリと固唾を飲み込む。

「ヴィルデザイアは、あやかし魔獣まじゅう怪物かいぶつ……肥大化して手に負えなくなったそれらを滅するための、言わば決戦兵器のようなものだ。本来であれば、あの位階の妖怪ぐらい、私は生身でも滅する事ができるはずだった」

 一呼吸置いて、彼女は続ける。

「この街は異常だ」

 頭を強く殴られたような衝撃を受けた。

 うまく言い表せない感情に、旭は相槌も打たずに黙り込む。彼女の宣告に、なぜこれほどの衝撃を受けたのか。旭は考えた。

 いくつか考えて、結論する。

 答えは簡単だ。彼女の言葉に、思ったよりもショックを受けた……つまり、この街が異常な状況であるということにショックを受けた。言い換えれば、この街に愛着があったのだ。それも、自分が思っていたよりも遥かに。

 その事実がまた、衝撃的だった。

 いや、筋は通る。十数年過ごしてきた自分の今の感覚では、確かに味わい尽くしたつまらない街だ。だが、裏を返せばそれほどまでに慣れ親しんだ土地でもある。愛着を持つのも当然と言えるだろう。

 生まれ育った街に愛着を持つのは、ごくごく自然なことだ。しかし中学生という多感で繊細なお年頃であるところの旭は、そのいわゆるな感覚に、どことなく嫌悪感――いや、忌避感を抱いていたのだ。

 非凡でありたい。出る杭でありたい。それが平凡な感情、そして慣れ親しんだ日常、ひいてはこの街への反発心となって結実していた。この衝撃は、その結果に過ぎなかったのだ。

 見慣れた夜空、いつもと同じ街の景色を眺める。昨日、今日と非日常的な時間が流れても、この街の状況なんていまいちピンとこない。実感はない、が……しかし、彼女の言葉が正しいということはわかる。

「ルディさんは、その異常を整えるためにこの街に来たんですか?」

 旭の問いに、彼女は首を横に振った。

「いいや、元々の目的は別にある……が、この状況を覚知してしまった以上、放っておくわけにもいくまい。優先順位はこちらが上だ。それより――」

 そこで彼女は話題を変える。

「今、異常を "整える" って言ったな。 "正す" でも "排する" でもなく」

 それは旭にとって、ほとんど無意識での選択だった。日本語――に限ったことでもないのかもしれないが、類似する単語の中から実際に言葉を選ぶ時、抱いたイメージを正確に伝えるために、単語ごとのニュアンスを比較することが多々ある。真面目に選ぶ事もあるが、今回に関しては完全にフィーリング。なんとなく、 "整える" と表現しただけだ。

 それを彼女は、えらく気に入ったらしい。

「その認識は、正しい。極めて正確だ。事態の本質を見抜いていると言ってもいい」

 褒められた。ベタ褒めだった。

 あるいは彼女は――その日本人離れした容姿とは裏腹に――日本語の造詣が深く、強いこだわりを持つタチなのかもしれない。

「状況証拠もままならないから、これは私の推測に過ぎないが……この街の異常は、なんらかのきっかけにより生じた歪み、ズレだ。それが人為的なものか、自然現象によるものなのかはわからないが……先天的にこの土地に原因があったわけじゃなく、後天的に引き起こされた何かが関与している。あくまで私の推測だが、しかし断言してもいい。そうだな――賭けてもいいぞ」

 賭けてもいい、というのは、余程確信を持っていないと言ってはいけないのだと、なんらかの書籍で読んだことがある……ような。アレは確か、親戚の家で読んだ漫画だったろうか。

 彼女が同じ本を読んでいたのかはわからないが、とかく、自説に自信を持っていることだけはわかった。

「それはわかりました。でも……どうすれば、その歪みを整えられるんですか?」

「その調査に関しては、私に一任してくれて構わない。お前には……なんだっけ、シュクダイとかいうのがあるんだろ?」

 旭が頷くと、彼女は続ける。

「お前は昨日やさっきみたいに、顕在化したモノだけを片付けてくれればいい。繰り返すようだが、私はアレを扱えないからな」

 こうして、旭は奇妙な夏の夜に足を踏み入れたのであった。

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