第2話 京緋色の魔女

 背中を揺すると、魔女は激しく咳き込んだ。よくわからないのでとりあえず水筒を差し出してみると、一息に中身を飲み干してしまう。

(間接キスだ……)

 そんなことなど、彼女は知る由もないのだろうが。

「……ひどい暑さだ。信じられん」

 立ち上がるなりぼやく魔女。ツッコミ待ちなのだろうか。顔を手で扇ぐ魔女に、旭は白い目を向けた。

「そんな厚着してるからじゃないですか?」

 ロングドレスもケープも、真夏に纏うものではないだろう。それになにより漆黒というのがよくない。黒が日光を集めるというのは、理科でも習うようなことだ。

 しかし魔女はドレスの肩口を掴んで言う。

「馬鹿言え、これはケルシぬのだ。この……この土地が暑すぎるんだよ」

 切れ長の瞳に、鋭角的な鼻筋。鋭い目つきに違わぬ粗暴な口調。

 ケルシ布というのはよくわからないが、着ている本人が言うのだから見た目よりは涼しい装いなのだろう。

 しかし能売川のめがわ温泉は避暑地としてもそれなりに有名な地域だ。標高が高いのもあるし、やたら水温の低い能売川が近くを流れているのも一因だと言われている。確かにここ数年はかなり暑いが、それでも学校のある辺りと比べたらむしろ快適とすら言えた。

 もしかすると、日本より涼しい国から来たのかもしれない。日本語の発音に違和感がないのは……親戚に日本人が居たからだとか……趣味が高じて……とかだろうか。よくわからない。

「お姉さんは旅行の人? 宿は取ってあるんですか?」

 とりあえず屋根の下でエアコンの風に当たっていれば体調も良くなるだろう。この街の宿であれば案内が可能だ。

 尋ねると、彼女は途端に歯切れが悪くなる。

「旅人……まあ、そんなところか。宿は……まだ取っていない」

 宿がないとなれば、旅の荷物もないということになる。随分とな旅人だ。というのも、この辺りは交通の便が悪いので、ふらりと立ち寄れるような場所ではないのだ。

 ここまで無知な相手なら、詮索してやったほうが親切というもの。不躾だが、少しばかり踏み込んだ話に持ち込む。

「昨日も居ましたよね? その時はどこに?」

「やっぱりあのガキだったか……昨日は徹夜だ」

 バツが悪そうに魔女は言う。

 炎天下での徹夜はよくない。非常によくない。そんなに無理をしていれば倒れもするだろう。

 ……少し迷ってから、旭はとある提案をした。

「良ければウチに泊まりますか? この先の旅館なんですけど」

 彼女は目に見える厄介事だ。しかしながら、ここで見て見ぬ振りをして野垂れ死にでもされた日には……ただでさえ遠のいている客足がパッタリ途絶えてしまうだろう。それにきっと寝覚めも悪い。

 まだまだ視野の狭い中学生なので、交番に頼るという選択肢はなかった。

「……カネがないんだよ」

 吐き捨てるように魔女は言う。一泊する資金もないというのに、彼女はなぜこんなところに来ているのだろうか。疑問は募るばかりだ。

 しかし文無しとは。余計に放っておけなくなった。彼女が野垂れ死ぬのも時間の問題だろう。ここで気前よく「タダでも大丈夫ですよ」ぐらい言えれば良いのだが、生憎旭に経営権はなかった。

「うーん……相談してみます」

 いい加減に荷物が重い。とにかく一旦帰って、それからもう一度考えよう。



 中参道りの中間地点に位置する『能売川温泉 瀬織せおり』は、能売川温泉旅館の中でも最古参の由緒正しきお宿である。

 改装を繰り返した建物は、傾斜した地形も相まって複雑怪奇。各階層が歪に絡み合い、中渡しの通路で無理矢理に整合性を保っている。クレームこそないものの、客の相当数が迷っているはずだ。

 とは言え、オーナーの息子であるところの旭……上山 旭かみやま あさひは、幼少期より過ごすこの奇怪な建築物の内部構造を知り尽くしていた。

 サクサクと従業員用通路を抜けて、事務所へと向かう。どうやら外回りに出ているらしく、父の姿はなかった。

 責任者が居ないのなら次席に声をかけるのが筋だ。

 旭が近づくと、次席の男は椅子をくるりと回して振り返る。

「おや、どうしたい旭。親父さんは居ないぞ」

「シキさん、ちょっと相談が」

 彼は四日 色よっか しき。父の補佐を務める男だ。なにかと旭に目をかけてくれて、融通も効く。あまり厳格な人間でないこともあって……ある意味では父よりも頼りやすい相手だった。黒人の彼女と遠距離恋愛をしているらしい。

「君が相談とは珍しい。なんでも言ってみると良い」

 旭は魔女に入室を促す。おずおずと入室した魔女を眺め、色は歓声を上げた。

「おお、とんだ別嬪さんじゃないか。それで、彼女がどうしたんだい?」

「この人、お金がなくて昨日から寝てないみたいで……とりあえずウチに泊めてあげられないかなって……」

「そうか……まあ使ってない部屋もあるから、一晩ぐらいなら構わないけど……」

 何やら考えてから色は言う。

「先のこともちゃんと考えておきなよ。寝たらすぐに明日が来るからね」

 大の大人が、何を当たり前のことを言っているのだろう。旭はそう思ったが、口答えしても仕方がないので内心にとどめておいた。

「親父さんには俺から言っておこう。そうだな……二○五号室を掃除して使うといい」

 言いながら立ち上がった色は、古い鍵箱をまさぐる。持ち出したのは大きなタグの付いた鍵。旧式のタグは、その部屋が五年以上使われていないことを意味していた。

 複雑に入り組んだ建物中には、利便性の問題で使われていない部屋がいくつかあるのだ。旭の私室であるところの二○六号室も、そのうちの一部屋だった。

 衛生管理の問題で、手つかずということはないだろうが……それでも、長く使われていない部屋は思わぬところにホコリが溜まっている。しっかり掃除をしなければ。

 魔女を連れて長い廊下を歩く。明日から夏休みだが、客入りはまだ少ないようだ。道中、誰ともすれ違わなかった。

 気まずい無言。

 魔女は必要以上の言葉を発しない。色の前でも会釈程度で一度も口を開かなかった。人見知りでも患わっているのだろうか。あるいは、ただ慇懃無礼で愛想が悪いだけか……。

「あの――」

 ――魔女さんと続けようとして、気づく。旭は彼女の名前を知らない。

「自己紹介がまだでしたね。僕は旭です。お姉さんは?」

 魔女は旭をちらりと見やると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。それから少しばかり視線を外し、もう一度旭を見やる。京緋色の髪を小さく揺らして、呟いた。

「……ルディだ」

 存外に可愛らしい名前だと、旭は思った。彼女の顔つきや目鼻立ちからは、カッサンドラだとかヴァルプルギスだとか、そういった物騒な名前ばかりが連想される。あるいは、彼女も幼い頃は可愛らしい少女だったのかもしれない。

 大変に失礼なことを考えながら少し歩き、従業員用の扉を抜けてエレベーターへ。二○五は目の前だ。

 ……思ったよりも、綺麗な部屋だった。

 これなら掃除も楽だろう。

「まずは掃除をしましょう。僕も手伝いますから」

 旭が言うと、ルディは首を横に振った。

「その前にこの暑さはなんとかならんのか。掃除どころじゃない」

 当初の目的を思い出す。そう言えば、彼女が暑さに耐えかねたからここに連れてきたのだった。

「それもそうですね。エアコンをつけましょう」

 言いながらリモコンを手に取り、スイッチオン。しかし空き部屋のエアコンなどまともなメンテナンスを受けているはずもない。送風口からは、冷気の代わりに綿埃と水が吹き出した。

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