妖魔怪滅ヴィルデザイア

抜きあざらし

第壱幕 ライジング・インパクト

京緋色の魔女

第1話 今宵、未知に出逢おうて

 七月十九日。

 入浴中の父の目を盗んで外へ出るのも、もう何度目になっただろうか。

 目立ったイベントのない平日の夜ともなれば、石段を歩く人々の姿もあまりない。かつては旅人でごった返していたらしいこの能売川のめがわ温泉街も、今や寂れた地方の観光地。休日であればそれなりに賑わうのが救いか。

 賑わいを失った街に、ソールが石段を叩く音のみが響く。今や廃墟も多く、静けさの支配する路地裏で、おもむろにスマホを取り出した。

 数度のコールを待って、耳慣れた声が応答する。

「あー、もしもしあさひ?」

 他愛ない会話。特に意義はなく、離れて暮らす姉の暇つぶしに付き合うためだけの話題。なんでも、二月ほど前にパソコンを壊してしまったらしい。とはいえ暇なのはこちらも変わらない。先日借りてきた妖怪全集も読み尽くしてしまったし、手持ちのゲームソフトもマンネリ気味だ。

 今週はこんな事をしただとか、バイト先の話だとか……それと、過保護な父に対するいつもの愚痴だとか。そういった言葉を交わし、夜の中参道なかさんどおりを下るのがここ最近の楽しみだ。

 石階段を下り、射的屋の前を通り過ぎると、ようやく街道が見えてくる。とはいえ、走っているのは観光客を乗せたタクシーぐらいのものだが……。

 歩きながらだと、どうしても話し込んでしまう。温泉育ちの父は極めて長風呂だが、そろそろ戻らないとマズい。

「それじゃあお姉ちゃん、また今度」

「また今度。……あ、そういえばもうすぐ夏休みだっけ? 宿題はちゃんとやるように」

「はいはい……ふう」

 なにかにつけて小言が多いのは父譲りか。……まあ、本人は否定するのだろうが。

 振り返り、来た道を引き返す。いよいよ人気ひとけの失せた通りは、しんと静まり返っていた。

 道沿いに連なる背の低い建物には視界を阻害されることもなく、見上げれば開けた夜空が旭を迎える。こんなにも綺麗な夜は街中では目にできないと……地元への唯一の心残りだと姉は語っていた。

 とはいえそこに住んでいれば、代わり映えのしない夜空とすら言える。

 そう、いつもと変わらない。

 この目に映る景色は、何一つ変わらない。昨日も先週も、先月でさえ変わりなく――それこそ影や染みですら寸分として違わぬ光景。

 疲れた大人達からしたらここは楽園らしいが、中学生の旭にとっては退屈な地元でしかなかった。

 ――その瞬間までは。

「……お?」

 ふと気づくと、眼前に見知らぬ影があった。

 廃業したかつての飲食店が立ち並ぶ通りから、知らない影がひとつ、伸びている。

 誰か居るのだろうか。こんな時間に? なにを目的に?

 それは一抹の好奇心から来る行動だった。こんな退屈な街にもまだ自分の知らないものがあるのかもしれない。風を受けて揺れる影に、旭はそんな未知の兆しを感じていた。

 一歩、路地へと踏み込む。

 それを照らしていたのは、電柱にひとつだけ据え付けられた、古い蛍光管の街灯だった。

 頼りなげに明滅を繰り返す光が、人影を照らす。


 簡潔に言い表すのなら、魔女。


 標高の高い地域ではあるものの、この時期になれば夜でもそれなりに暑い。だというのに、それは上等な布で仕立てたロングドレスに加え、同じ色のケープまで身にまとっている。場違いな存在は実在感が希薄で、夜の闇よりも更に深い漆黒を基調にしたドレスは、今にも影に融けてしまいそうに思えてならない。

 こちらに気づいたのか、 "魔女" は足を組み替え視線を寄越す。

 ドレスの裾から覗く、先の尖ったロングブーツは革製のものだろうか。星明かりを照り返し鈍く輝くその素材は、グローブにも用いられているらしい。ほっそりとした長い指は、背景の夜空から浮き上がって見える。

 京緋色きょうひいろの長い髪が、夜の風に揺れる。

 つばの広いとんがり帽子から流れ落ちるように伸びるそれは、まるで燃え上がる炎のようだ。ゆるりとしたウェーブもまた、見る者に炎のような印象をもたせるうえで一役買っている。

 白い肌に薄っすらと浮かぶ紅が、妖しくつり上がった。

 ミタナ?



 ……という夢を見たんだ。

 いや、あれが夢だという確証はない。気がつけばいつものように布団の上で目を覚ましていた。抜け出してから、家に帰った記憶はない。通話履歴は残っていたから、姉と話したところまでは間違いないのだろうが。

 いやに寝覚めが悪くて、原因はなにかと探ってみれば扇風機が首振りのまま放置されていた。いつもはタイマーをかけて寝ているのだが、つけっぱなしだったらしい。

 そんなわけで不愉快な朝を迎えたわけだが、目に入るのは青空に浮かぶ鱗雲うろこぐも。夢のことといい、なんらかの予兆を感じてならない。

 それから……まあ、過ぎたことはいいだろう。大切なのは、これから始まる夏休みだ。

 宿題の範囲を指定する授業や、諸注意を交えたホームルーム。体育館での集会に登校日の日程を確認して……帰宅。帰らず遊びに行く生徒も居るようだが、家の遠い旭は少なくとも一旦帰らなければならない。スクールバスは定時運行だからだ。この大荷物を持って見知らぬ一般客に紛れて帰るのはゴメンだし、なによりこんな日に帰宅が遅れれば父になにを言われるかわからない。

 大きなバスで山道に揺られること三十分。いつもならもう少し早く帰り着くのだが、今日はどの生徒も荷物が多くてかなり遅れが出てしまった。

 大量の荷物を背負ったまま、のんびりと石の階段を上る。

 実のところ、授業中も昨晩の夢で頭がいっぱいだった。

 夜中に見かけた、大人の女性。退屈な街で燦然と輝く存在感。

 容姿、衣服、立ち居振舞い、それに炎のような長い髪。どれをとっても現実離れしていて、それでも確実にそこにった質感は、ほんの僅かな邂逅で旭の心を魅了していた。夢でもいいから、あの魔女にもう一度会いたい。ぼんやりとそんなことを考えながら、中参道りの階段を一段ずつ上がっていく。

 そうして曲がり角に差し掛かった辺りで、ふと目につくものがあった。


 ゴミ袋だろうか。


 黒くて丸っこくて、六十リットルかそれよりも少し大きいぐらいの塊。今は透明な袋ばかりだが……昔は旅館の裏のゴミ捨て場によく置いてあったものだ。

 しかし、目を凝らしてよく見ると、どうやらそれがゴミ袋でないことがわかった。

 質感がビニールのものではないからだ。旭の知っているビニールは、こんな環境に置いてあれば眩しくて見ていられなかった。それよりもあの素材は、恐らく――

「……ドレス?」

 ただの布地ではない。下品な眩しさはなく、鮮やかに陽の光を照り返す上質な素材だ。

 見覚えがあった。

 上質な布で仕立てられた黒衣。京緋色の長髪。それは紛れもなく、一夜で旭を魅了した、その身を漆黒で包み込む、この街に存在しなかったはずの異物。

 魔女。

 魔女だ。

 魔女だった。

 それが今は、見る影もない。

 裾から伸びた黒いブーツをだらりと投げ出して、袖から伸びる白い腕はあらぬ方向へ曲がり、石畳で形成された段差にうつ伏せで倒れ込んだ魔女の姿は、墜落した虫のようですらあった。

 その……哀れ、というよりかは間抜けな姿に、百年の恋……というわけでもないが、夢見ていた大人の女性像は脆くも崩れ去る。

 このまま何も見なかったことにして、昨夜のことは思い出としてしまっておこうか。そんなことすら、考えた。

 しかし、しかしだ。道端で行き倒れている女性を捨て置いて行けるほど、旭の道徳心も廃れてはいなかった。

 思えば、ここでの行動が旭の命運を分けたのだろう。

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