第3話 闇の住人

 結局のところ、二○六――旭の私室に撤収することとなった。馴染みの業者に点検を依頼してもらおうかとも思ったが、ロクに使わない部屋のエアコンなどに割く時間と予算があるとは思えない。客室ですら修理待ちになっている部屋があるというのに。

 閑話休題。

 エアコンの冷風に満足したルディは、学習机の隣に椅子を並べて陣取っていた。白い肌を汗が伝い、クッションに染みを作る。

 先程はゴミのように這いつくばっていた彼女だが、沈黙を貫く姿は掛け値なしの美人だ。気づけば視線を吸い寄せられている。得も言われぬ居心地の悪さを感じた旭は、無駄に多い宿題を相手に気を紛らわすことにした。

 だというのに。

 熱心にドリルを進める旭が気になったのか、ルディは疑問を口にした。

「さっきから一体何やってるんだ?」

「宿題ですよ。たくさんあるんで早めにやっておかないと」

 すると彼女は首をかしげる。

「宿題? なんだそりゃ」

「知らないんですか?」

「さっぱりな」

 彼女の母国――それがどこかはわからないが――には、宿題という文化が存在しないのだろうか。そう言えば、そんな国もあったような……昔テレビで見ただけなので、詳しいことは覚えていないが。

「この国には長い休みに学生が怠けないためのシステムがあるんです。これがその内のひとつ」

「面倒なところだな」

 それきり彼女は関心を失ったように、夕暮れ時の窓の外に視線を戻す。対する旭はと言えば、自分の部屋だというのに彼女の視線ばかりを気にしてしまう。

 退屈な宿題なんぞに手を焼いていることも相まってか、時の流れが遅く感じた。チラリと時計を見やるも、夕食までまだ時間がある。

 やがて宿題にも集中できなくなった旭は、夜の散歩に出かけることにした。見慣れた景色ではあるが、今はそれがありがたい。

「少し出かけてきますね」

 無言で立ち去るのもどうかと思い、一声かける。これがまずかった。

「どこに行くんだ?」

「ちょっと散歩に」

 ほんの少しだけ考えて、ルディは言う。

「……この辺り、案内してくれないか」

 どうにも彼女の目的が読めない。間抜けな旅行者だと一蹴してしまうのは簡単だが、彼女の顔立ちや立ち居振る舞い、それに衣服からは在る種の気品を感じる。それだけに、彼女が日銭も持たずにこんなところに来た理由が皆目検討つかないのだ。

 追求するべきだろうか?

 きっと厄介事だ。関わらないほうが良い。第六感は告げている。放っておけば、いずれ彼女は目的を達成してこの場を去るだろう。二度と関わることもない。それが一番良いはずだ。

 ……いいや。だが、しかし。

「ルディさんは、ここへ何をしに来たんですか?」

 訊いてしまった。訊ねてしまった。好奇心は猫をも殺す――そんなことわざを、不意に思い出した。

 バツが悪そうに、彼女は言う。

「……どうでもいいだろ、そんなの」

 拒絶。

 ああ、そうだ。旭が彼女の個人的な事情に踏み込む理由はない。一宿一飯の恩などというものは押し付けがましく、そもそも旭自身が身を切っているわけでもない。旭が彼女に施したことといえば、倒れているところに声をかけたぐらいのことだ。その程度で深入りする権利は、多分、ないのだろう。

 それでも。

「案内するんだったら、目的がわかってたほうがいいかなって」

 旭は引き下がらなかった。

「気遣いはいらん。適当に案内してくれれば、それだけでいい。それに明日には出ていく」

「でも――」

 旭がなおも食い下がろうとしたところで、部屋のチャイムが軽快な音を鳴らした。

「少し早いが、お夕飯ができたぞ! 二人で食べに来い!」

 色の声だ。それを聞いたルディは、話は終わりだと言わんばかりにドアに視線を向ける。旭はしぶしぶ了承し、彼女を食卓へと案内した。



 旭が入浴している間に、ルディはどこかへ出かけてしまったらしい。身一つで消えた彼女の姿は、追おうにも追えるものではなかった。

 旭の追及に嫌気が差して出ていってしまったのだろうか。仮にそうであれば、探しに出るのはむしろ迷惑だ。

 スマホが震える。姉からのショートメール――通話の催促だ。彼女が暇をもて余した時、旭は問答無用で呼び出される。それも、父に万が一にも話を聞かれないように外へ出ろとの指定つきで。

 ……まあいい。気分転換にはなるだろう。

 父は旭と入れ替りで入浴している。出かけるなら今だ。

 忍び足で裏口へ向かうと、なぜかドアの前に父の姿があった。

「旭。ここのところ夜中に抜け出しているようだが……なんの用事だ?」

 どうやらバレていたらしい。誤魔化そうかとも思ったが、言い訳に使える口実もない。今日だけだったら、ルディ絡みで煙に巻くこともできるのだが。

 姉――暁火きょうかには悪いが、白状してしまおう。

「……お姉ちゃんと電話してたんだ」

 連日の通話履歴を見せながら言うと、父はあっさり納得した。なぜわざわざ外出するのか訊ねないのは、彼自身が娘の反抗期に頭を悩ませている人物だからだろう。

「そうかあ……なるほどなあ」

 中空に視線を漂わせた父は、少し考えてから旭に言う。

「それじゃあ旭、これからも暁火ちゃんと電話してくれるかな。お父さんがかけると嫌がるだろうし……」

 通話はそれ自体が安否確認となる。暁火が引っ越してから一週間欠かさず電話をかけて着拒された父からしたら、願ったり叶ったりとすら言えるのかもしれない。

「わかった。じゃあ行ってくるね」

「なにもないだろうけど、気を付けるんだよ」

 自宅である旅館を出て、少し歩けば中参道りだ。スマホを取り出し通話を――圏外だ。

 ド田舎とはいえ、特別電波が悪いような土地でもない。障害だろうか。検索しようにも圏外ではそれも叶わず、とりあえず端末の再起動を試してみる。それでも結果は変わらなかった。

 仕方がないので少し歩いてみる。時間が経てば改善するかもしれないし。

 あいも変わらず見慣れた景色。昨夜はここで衝撃的な出会いがあったが、こんな片田舎でそんなイベントが何度も起きるわけがない。

 未だ改善しない電波状況を憂い、空を見上げる。


 ――待ち人、来たり。


 空を引き裂く巨大な影。夜空に浮かぶ、白い獣。

 いいや、獣ではないのかもしれない。

 獣は生首の形をしていないのだから。

 青白い肌をした巨大な生首。幻でも見ているのだろうか? あるいは夜中の白昼夢。目を疑うような光景に、正気を奪われそうになる。

 ……好奇心は、猫をも殺す。

 しかし驚くにはまだ早かった。

「Restraint!!」

 日本語ではない、しかし聞き覚えのある声。

 生首の動きが鈍る。そこに飛び込む黒い影は、夜空に京緋色の髪をなびかせていた。

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