第4話

「ただいま~」


 小さな木の戸を開きながらアヴリルが声を張り上げる。

 ここはアヴリルの自宅。あの後三十分ほどかけて来た、『セイン』と言う名前の街の外れにある、木造の二階建て一軒家だ。

 ちなみに僕は外で待機中。この体じゃ家に入れないからだ。まあ、今まで建物の中に入った事自体なかった訳で、僕としてはどうでもよかった。

 頭上に広がる空は茜色に染まっている。そろそろ闇に飲まれる頃だ。

 もう食事時だと認識したその瞬間、一気に腹が減ってきた。そういえば、人間たちが着たせいで昼も食事をとれていなかった。

 食事は何が出るのだろうか。不安もあるにはあるが、結構楽しみだ。僕としては肉が多いと嬉しい。肉は全世界の雄が愛する食べ物だ。証拠はないが、そう確信している。

 僕は家の前で縮こまり、食事が出されるのを今か今かと待った。

 そうして、空が半分以上闇に浸食された頃。


「ごめんね、待った?」


 深刻な表情をしたアヴリルが、恐る恐ると言った感じで家から出てきた。その手に持っているのは、オークの丸焼き。かなり大きくて、アヴリルの体が殆ど隠れている。

 こんがりと焼けたそれは、食欲をそそる匂いを辺りに振りまいている。今すぐにでもかぶりつきたい。

 

「はい! 今日の夕ご飯ね」

「ありがと」

「――ッ!? もしかして今デレた!?」

「……何言ってるのさ」


 相変わらず頭がどうかしているアヴリルであった。

 締まりのない笑顔を浮かべて自分の世界に浸かっているアヴリルを横目に、僕は用意された肉に噛みついた。

 瞬間、口の中に溢れるジューシーな肉汁。オークらしい油っこい濃厚な味が、僕の味覚を満たす。

 ここ数十年オークの肉など食べていなかったので、久々の良質な食事を僕は無言でひたすら貪った。

 と、食べている最中にふと違和感を感じた。

 ――アヴリルが何もしてこない。いつもの――と言ってもまだ知り合って一日も経っていないが――彼女であれば、欲望を全開にして狂気に満ち溢れた表情を浮かべながら迫ってくるはずだ。だのに、全く迫ってくる気配がないのだ。何かあったのだろうか。

 僕はちょっと気になってアヴリルの方を向いて――


「ヴァル君が……デレた……ウェヘ……ウェヘ、ウェヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ…………」


 全力で目を逸らした。

 今のアヴリルは完全に薬物中毒者のそれだ。触れてはいけない奴だ。

 ……嗚呼、迫られないとはいえ、これも十分拷問じゃないか。どこまでも、僕の精神を削り取ってくるアヴリルだった。

 程なくして肉を食べ終えたが、これでは動こうにも動けない。家に来る道すがら『寝るところも用意してある』と言っていたのだけれど、案内されるのは少し先になりそうだ。

 結局その後、食べ終えてから一時間程経ってやっとアヴリルは正気をとり戻した。


     *


「ごめんね! 本当にごめんね!」

「いや、もう分かったから……」


 あの後目に光が戻ったアヴリルに僕の寝床へと案内され、今はそこで寝そべっているわけなのだが。


「お詫びに何でもしてあげるから! ほら、全裸で三回まわってワンとか!」

「それじゃあここから立ち去ってくれないかな」

「――! ディープキスね! 私初めてだから、優しくしてね?」

「いやそんなこと言ってないから」


 ……目の前の暴走呪詛吐き人形アヴリルが五月蝿くて、全く寝れない。というか、僕に対するお詫びと言う建前で僕に接触しようという下心が丸見えだった。

 第一、完全に弛緩した表情で『ごめんね』とか言われても、誠意とかは全く感じない。騙すならもう少しちゃんとやってほしかった。本気に見えたとして、僕はこの場から去ってもらうだけなのだが。

 さっさと寝てしまいたいが、そんな僕の気持ちをアヴリルが汲み取ってくれるはずもなく、なおも僕に詰め寄ってくる。


「やっぱりディープキスじゃダメかな!? じゃあ、添い寝ならどう!?」

「いやいらないから」

「――!? もうそういう事しちゃう、の? ……いいよ? ヴァル君なら私、初めてあげちゃう」

「……」


 アヴリルは肉欲の化身だったりするのだろうか。もしかして、彼女の両親はサキュバスとインキュバスなのだろうか。何にせよ、僕が何を言おうとこの暴走は止まらない事は確実だ。

 ……嗚呼、人間との生活初夜にして、僕の純潔の危機か。もしかしたら押し負けて奪われてしまうかもしれない。気になっている雌がいたが、早いところ迫っていればよかった。

 僕は鋼の意志でアヴリルの猛攻を凌ぎ、それは真夜中に彼女の両親が連れ戻しに来るまで続いた。


     *


 地平線をくっきりと照らし出す光が、僕の瞼の隙間から瞳を焦がす。

 僕は冴えない頭を振りながら、辺りを確認した。

 目に映るのは、見慣れたレッドオーグ山の草原ではない。木で建てられた小さな家の裏だった。

 ……嗚呼、人間の雌に使役されたのは夢ではなかったか。これから毎日純潔の危機なのか。つらい、つらすぎる。

 いっそのこと、逃げ出してしまおうか。いや、逃げ出せば後々もっとひどい目にあうだろう。

 僕はこれからの真っ暗な未来に絶望を感じて、ため息を吐いた。いや、吐こうとした。

 その時だった。

 口の中に、妙な感覚がある。何か柔らかくて、小さいものがうごめいている。

 ――非常に、嫌な予感がした。

 僕はゆっくりと、自分の口元に視線を向ける。


「……ん……んちゅ……」







 アヴリルが、僕の口の中に舌をねじ込んでいた。

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