第2話

 教えに背いた。

 意地の悪い男の子に「背信行為だ」と言われた。大袈裟に思えて気に留めなかった。しかし、大人たちの態度が急に余所余所しくなり、不安が心を巣食った。

 私は自分のしたことを理解出来ない。罪深さを知り自責の念にかられる以前に物事の善し悪しの尺度が曖昧なため、何も分からない。私に感じられるものは、仲間達の嘲笑と指導員の失望した顔だった。

 情けなさ、不安、恐怖。膨らんだ感情は涙となって流れ出る。寄宿舎の非常階段で薄暮が作る影に身をすくめ泣いた。物心ついた頃からずっと、心の均衡を信仰に委ねていた。大粒の涙が膝を濡らす。

 日が沈み、風にさざめく木々が黒く塗りつぶされて行く。涙は枯れ、気持ちは落ち着いていた。私は夜になっても動かずにいた。こうしていれば、許されると考えた。誰にかは私にも分からない。

 非常階段には明かりが無い。頼りない星だけが瞬いている。

 上の階から足音がした。コツンコツンとゆっくりと階段を下ってくる。足音は私の隣で止まった。白い足首が見えた。暗闇の中に浮かぶすらりとした足はまるで――。

 私よりも一回り体の大きい少女が隣に座った。彼女は私の最初の友人で、一番古い記憶から私の傍にいてくれた。名前は優子。丸く肉付きの良い顔が私に微笑んだ。ほんのりと紅く染まった頬に幼い印象を受けるが私より年上だ。裾や丈の短い服からのびる四肢が眩しかった。

「今日はお祈りに来なかったね。皆心配していたよ」

「ごめんなさい」

 しばらくの間、お互いに言葉を発することなく時間が過ぎた。優子は何を考えているのだろう。涙は乾き目の周りにパリパリとした違和感がある。

 唐突に、優子は鼻歌を歌いだした。母親が子供を寝かしつける子守歌のような優しい歌声だった。聞き覚えのある旋律が二人の間に流れる。

 私は戸惑う。どうすればいいのか分からなかった。美しい歌声が湿り気を帯びた空気に溶ける。彼女が歌いだした意図をくみ取れない。

 どうしてか、出し切ったはずの涙が、再び頬を伝った。自分が不甲斐なくて仕方がない。

「祈りはね、自分の為にするものじゃないの」消え入るような声で優子は言った。

「……あなたの明日が穏やかで温かいものになりますように」優子は私の目尻を指で優しく撫でた。涙の跡を拭い終えて、顔に添えた手を離す。そして、彼女は私の腕を引き力強く抱き寄せた。

 私の中で沈殿する苦い感情が消えて行く。寛容を知り、許しを得て、救いに触れて、私は罪を知った。

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