白鹿の宗教家

驢馬

第1話

 私は祈る。名前も顔も知らない誰かの為に。もしかしたら、あなたの為に。


 私は文字の読み書きや数字を覚えることよりも先に、信仰を学んだ。手を組んだり、目をつむったり、頭を深く下げたりした。私達を包むすべての事象への敬愛を表している。

 子供だった私は、大人から指導されたを彼らの期待通りにこなしているとは言えなかっただろう。指示された通りに体を動かすことは難しくない。ただ、その時に心に何を思い浮かべれば良いのか分からなかった。大人が口にする言葉は抽象的で、手が触れられるものすべてが新鮮な驚きで満ちている子供には縁遠いものだった。父が講壇で口にする御言葉は難解で、例えば『愛』と言われても私に芽生えているはずもなく、意味を持たない音として私に届く。

 私がぼんやりと聞いているさなか、幼き仲間は真剣に父に耳を傾けている。「穏やかな日々への感謝を」「ささやかな幸せを」彼らは、少しでも理解できる言葉の断片を胸の中で繰り返し唱えた。私は隣で祈っている灰色の服を着た女の子を横目に見た。一心に祈る姿は、思わず触れたくなるほどに美しく、純真さの結晶のようだ。

 私は虚ろな心で祈りを捧げる。目的意識がなく、気が緩み、怠慢になる。

 ある朝、私は指を伸ばし手のひらを重ねて祈った。絵本に描かれていた坊主頭の少年の真似だ。壁際にいた指導員が、講壇で教典に目を落としている父にそっと近づき耳打ちした。私の話をしていると、すぐに分かった。

 静かにこちらへと歩いてくる父、他の子供達は銅像のように動かない。いつものように指を組み、ぎゅっと目をつむった。父の法衣の香りがする。布の擦れる音が私の前で止まり、肩に手を乗せられた感覚がした。

「いつも通りにね」父はやわらかな口調で言った。彼の体温を感じた。

 その手は肩から腕までを二度撫でた。父は行き、法衣が揺らめき、残り香は長い間漂っていた。

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