第16話

 もしも本当に運命というものがあるのなら。


 汗をかいて走り回ったり、悔しがって涙したり、努力したり歓喜したり、全ては無駄なことなのかもしれない。その先に用意されている道が決まっているのなら、何をしても未来は変えられないのかもしれない。


「どうしたんだよ、急に呼び出したりして。お前から連絡くれるなんて初めてじゃん」


「初めてじゃない。昔はよく、俺から連絡してたと思うよ」


 和真の顔は、相変わらず俺を見下しているような、絶対的な「運命」を確信しているような顔だった。どんなに俺が嫌がっても、自身の手の中で常に俺を握っている。付き合っていた頃から今もきっと、和真はそんなふうに思っているのだろう。


「和真、……」


 だけどそれは違う。俺は今ここで、和真との運命を断ち切らなければならない。


 例え未来が決まっていたとしても、今の俺には──俺達には、それがどんな結果なのかなんて分かるはずがない。分からないなら、例え情けなくても泥臭くても無様でも、どんなことだってするべきだ。


 何もせず結果を嘆くだけなんて、きっと、一番馬鹿らしい。


「……俺、和真と出会えて良かったよ」


 和真が目を見開いて、意外そうに俺を見る。


「嘘じゃない。和真と付き合ってた時は凄く楽しかったし、俺一人じゃ絶対に経験できないようなこと、色々教えてもらえた。バイクに乗ったのも初めてだったし、夜中に家抜け出して遊んだのも初めてだった。本当に、凄く楽しかったんだ」


「なんだよ伊吹。そんなこと言うために呼び出したのか? 阿呆らし……」


「和真と付き合ってた時のことを後悔したくない。……今の和真はマジで腹立つけど、昔の和真のことは、本気で好きだったんだ」


 付き合っていた頃は、よくこうして公園のベンチで語り合っていた。くだらないことで笑い合い、ひと気がないのを確認しながら肩を抱き合ったり、ぎこちなくキスをしたりしていた。


 俺にとって和真との時間は、泣けるくらいに甘酸っぱい青春だった。別れても、互いに嫌いになっても、あの時の俺達まで否定したくない。


「剥き出しの本音って感じだな。伊吹の本音聞いたの初めてかもしんねえ。お前昔から、相手が俺じゃなくても感情抑えて、なるべく波風立たないようにしてたもんな」


 煙草の煙を吐きながら、和真が頭を掻き毟る。


「それなら俺も本音で言うけど……俺はさ、伊吹を思い通りにできると思ってたんだ」


「……だろうな」


「伊吹は俺の言いなりで、俺のために色々してくれてたし。だからそれが当たり前になって、何もしなくても伊吹はずっと俺の傍にいてくれるんだって思うようになって。好かれてるって絶対の自信があったから、進路が別々になっても、俺が素っ気ない態度取るようになっても、お前との関係は変わらないって思ってた」


 俺は温くなった缶コーヒーを握りしめて和真を見つめた。


 今までずっと、洒落た服やアクセサリーや周りの環境が和真を変えてしまったと思っていた。だけどそれは俺の勘違いで、和真を変えてしまったのは俺自身だったのだ。


 常に受け身で優柔不断で、嫌われるのが怖くてとことん甘やかし続けた結果──和真は俺が何をしても怒らず、何をされても好きでいてくれる存在だと思い込んでしまっていたのだ。


 俺も和真も未熟だった。あまりにも子供で、無力で、無知だった。


「初めて『別れる』ってなった時、俺、伊吹に酷いことしただろ。男の相手してやってたんだから感謝しろとか、酷いこと言って伊吹を傷付けた。……信じてもらえるか分からねえけど、あの後俺、マジで反省したんだよ」


「分かってるよ。……あの時は分からなかったけど、今なら分かる」


 組んだ両手に額を押し付けて、和真が辛そうに顔を顰める。


「嫌われても仕方ねえって思うよ。こんな男、自分でも腹立つし。未練たらしく最後に一発ヤりてえとか、もしかしてこれでまた伊吹を取り戻せるかもとか、マジでどうしようもねえ」


 それもある意味では人間らしくて素直だと、俺は思う。口には出さないけれど、俺も和真と同じ立場だったらそうしていたかもしれなかった。


 ふとした気の緩みやその時々の周りの環境、誰かの言葉に、無意識のうちに発した心の声。


 人間なんて弱い生き物だから、そんなほんの少しの揺さぶりでも簡単に向くべき方向が変わってしまう。誰だってそうなんだ。俺や和真はもちろん、彰久だって例外じゃない。


「どうしようもなくたって、そう思うのも普通なんじゃないか」


「じゃあ、俺がしたこと……伊吹、怒ってねえの」


「怒ってるよ。当然だろ」


 俯いた和真とは反対に、俺は顔を上げて空を仰いだ。爽やかな秋晴れだ。きっと、明日も明後日もこの青空が続くに違いない。


「怒ってはいる。……けど、和真のこと前より嫌いじゃなくなってる」


 和真が苦笑し、俺も笑う。


「ありがとう」──。


 公園の外に停まっている車の中では、彰久も笑っていた。


「……もういいのか? 話、終わった?」


「終わった。すごいスッキリした」


「つまんねえな。俺としては一発殴ってやりたかったけど」


「和真も本当はそんなに悪い奴じゃないんだよ。成り行きでそうなったってだけで」


 車の中、シートベルトを締めた彰久がハンドルに突っ伏す勢いで項垂れた。


「どうしたんだ?」


「これから伊吹の実家行くって思うと、緊張して胃が痛てえ……」


「何で。大丈夫だろ、そんなの」


「そりゃお前は大丈夫だろうけど……」


 東京から車を走らせること約一時間半、やがて懐かしい街並みが見えてきた。幼い頃の俺と彰久が過ごした街だ。昔は原っぱだった俺の秘密基地が駐車場になっていて、いつの間にかマンションも増えている。彰久の父親が住んでいた家は、今では空き家になっていた。


「ただいま」


 玄関先で声をかけると、夕飯の支度をしていたらしい母さんがエプロンで手を拭きながら台所を出て来た。


「お帰り、伊吹! 彰久くんも、いらっしゃい」


「あ、あのっ。こんばんは、お世話になります」


「こちらこそ、いつも伊吹がお世話になって」


 母さんは彰久を見上げてにこにこ笑っている。上京して一度も友人を連れ帰ったことのない俺が、まさかこんな色男を連れて来るなんて思ってもいなかったのだろう。


「晩ご飯すぐできるから、着替えてゆっくりしててね」


「母さん、お土産。あげないけど」


 俺が肩から下げていたバッグを開けた瞬間、母さんが両手を口にあてて目を丸くさせた。


「いやだっ、可愛い、可愛いっ!」


 退院してすっかり元気になったチワワの虎介が、はち切れんばかりに尻尾を振って母さんの胸に飛び込む。


「やだ、嘘みたいに軽い!」


 俺と全く同じ感想を言う母さんの前で、彰久が「伊吹そっくりだな」と笑いながら耳打ちした。ちなみに、虎介の名付け親は彰久だ。「チワワと言えば絶対に可愛い名前」という風潮を打破する意味で、敢えて男らしく強そうな名前にしたかったらしい。


「病気で大変って伊吹からメールで聞いてたけど、治って良かったね。ああ、本当に良かった。虎ちゃん、良かったね」


 俺が彰久の部屋で一緒に暮らすようになり、虎介の世話も交代でしている。二人一緒に出勤する機会はしばらくないけれど、その分帰宅してからの楽しみが増えた。俺も彰久も、今は毎日がひたすら楽しくて堪らない。


「いつも吹雪ばかり見てるから、チワワがこんなに小さいなんて初めて知ったわ。お父さん帰って来たら驚くよ、取り合いになりそう」


「そうだ、吹雪は?」


「この時間は二階で寝てるよ。あの子小さい犬好きだから、虎ちゃん見たら嬉しがると思う。会わせてあげな」


 俺は母さんから虎介を受け取り、彰久の背中を押して階段を上がって行った。


 こちらに背を向けたまま、彰久が呟く。


「伊吹。……本当言うとさ、俺ちょっとギンに──吹雪に会うの、怖いんだ。もしあのまま忘れられてたらって思うと、……」


「大丈夫。絶対、大丈夫」


 階段を上がり切ると、廊下の奥で寝ている吹雪の姿が見えた。ちょうど俺の部屋の真ん前だ。陽が当たらなくて一番涼しい、吹雪のお気に入りの場所。この家で暮らしていた時、吹雪の巨体で部屋のドアが開けられないことが何度もあった。


「吹雪、……」


 彰久が声をかけると、目を覚ました吹雪がゆったりとした動作で顔を上げた。長い鼻をフンフンと揺らして、懐かしい彼の匂いを懸命に嗅ぎ取ろうとしている。人間で言えばお爺さんと言ってもおかしくない年齢だ。最近、視力や聴力が衰えてきたと母さんが言っていた。


 彰久が廊下を進んで行き、吹雪の傍らに膝をつく。吹雪は彰久の手の匂いを嗅ぎ、体の匂いを嗅ぎ、それから──ゆっくりと、その銀色の大きな体を仰向けにさせた。


「あ……」


 腹を見せ、尻尾を振っている。鼻を鳴らして、甘えた声を出している。俺は彰久の背後で虎介を抱えたまま、堪らず唇を噛みしめた。


「ギン……違う、吹雪。……吹雪」


 彰久は身を屈めて吹雪の腹を撫で、何度も名前を呼んでいる。言いたいことが山ほどあるのだろうけれど、恐らくは言葉になって出てこないのだ。


 だけどそれで充分だった。彰久とギンの間には、子供の頃と変わらない愛情や信頼が確かに存在していた。五年経った今でも、あの頃と同じ大切な絆があったのだ。


「良かった。俺、こいつに嫌われてたらどうしようって……。自分を見捨てた裏切り者と思われてたらどうしようって、ずっと、……思ってて」


 肩を震わせている彰久と、彰久の手に鼻先を押し付けて甘えている吹雪。俺はそんな彼らを見つめ、鼻を啜って言った。


「そんなことある訳ない。犬は一度好きになった相手のことは、絶対に嫌いにならないんだ」


 虎介を床に下ろすと、恐る恐る吹雪の方へと歩いて行った。吹雪が立ち上がって虎介の匂いを嗅ぎ、嬉しそうに擦り寄る。そうしているうちに虎介も尻尾を振って、吹雪の柔らかな毛皮に突進したり、跳び上がって吹雪の顔を触ろうとしたりと、二頭は無邪気にじゃれ合い始めた。


「最大と最小って感じだな。吹雪が怖くないなんて、虎介も度胸がある奴だ」


「伊吹」


「ん?」


「ありがとうな」


 色んな意味が込められたその一言を、胸の中でしっかりと噛みしめる。


「……よし。吹雪! 散歩行くか?」


 俺のその言葉に反応した吹雪が、勢いよく階段を駆け下りて行った。彰久が「よっしゃ」と両手で顔を擦り、それに続く。俺も虎介を抱き上げて彰久の後を追い、バッグの中から虎介のハーネスと一緒に「それ」を取り出した。


「あら、散歩行くの? 夕飯できるのに」


「ちょっと公園まで行ってくる。戻る頃には父さんも帰って来てるだろ、腹減ってるから追加でもっと作っといてよ」


 玄関で床に膝をつき、吹雪の首輪にリードを繋ぐ。同時に首輪に取り付けたドッグタグ型のプレートには、俺と彰久の名前、それから俺達の大切な記念日の日付が刻印されていた。


「彰久、吹雪のリード持ってくれる」


「いいぜ。伊吹の力じゃ引っ張られちまうもんな」


 俺はむっとして虎介を地面に下ろし、踵を踏み潰していたスニーカーを履き直した。


「怒るなって。昔のお前に会えた気がして、俺いま凄げえ嬉しいんだからさ」


「疑問だったんだけど、彰久どうして俺があのペットショップにいるって分かったんだ?」


「一年前くらいかな。偶然あの店で見かけたんだよ、お前を」


「う、嘘つけ。そんなので納得できる訳ないだろ」


 マジで、と彰久が頭を掻いて言った。


「地元じゃもうお前の姿見なかったから、何となく上京したんだなって思ってさ。犬関係の仕事してるかもって思って、片っ端からペットショップ見て回って、そんで見つけた」


「何だよその執念。本当にストーカーじゃんか」


「それで俺はその日のうちに水商売辞めて、始めから店長候補でスタッフ募集してる店舗にソッコーで応募したってわけ。早く伊吹のとこに行けるように、通常の倍くらいのスピードで店長業務覚えたんだぜ。上からも凄げえ驚かれた」


「回りくどいな。そんななら最初から普通のスタッフとしてこっち来れば良かったのに」


「初めに問い合わせた時、人員足りてるからフル出勤は無理って言われたんだよ」


「もしかして前の店長がセクハラで飛ばされたのも、彰久が根回ししたとか……?」


「そこまでする訳ねえだろ。でもまあ、勤務先の希望が却下されたら何か手を打つつもりではいたけどな」


 呆れるほど一直線な奴。俺はがっくりと肩を落とし、引き攣った笑みを浮かべて彰久を見上げた。


「ほんと完敗って感じ。それだけやられたらもう、機会を無駄にすんなとか言う権利あるよ」


「そうだぜ。チャンスや運命ってのは、それを信じる奴に味方するんだ」


 そう言って彰久が俺の頬にキスをしようとした瞬間、待ち切れなくなった吹雪が勢いよく前進してリードを引いた。


「う、おっ……! ちょ、待て、吹雪っ……」


 バランスを崩した彰久が何とか体勢を立て直すも、吹雪はお構いなしでどんどん進んで行く。笑いながらその後を追いかける俺の足元では、虎介も大喜びで跳ねるようにして走っている。


「止まれ、吹雪っ! と、止まれっ!」


 ウォンと吠えた吹雪が、長い舌を出して彰久を振り返る。ほんの一瞬、あの頃の彰久とギンが走っているような幻が見えた気がした。


「………」


「伊吹、早く来いって! このままじゃやばい、絶対転ぶ!」


「あっ、彰久っ……。吹雪っ!」


 慌てて虎介を抱え、ぐんぐんと先を行くその背中を追いかける。


 頬を撫でる懐かしい風。原っぱだった秘密基地。家々の窓から洩れる温かな明かりに、鼻をくすぐる夕餉の匂い──。


「止まれってば、吹雪っ!」


 星の輝き出した空の下、俺達は走り続ける。時に躓きながらも手を取り合い、同じ目標を見据えてどこまでも走り続ける。


 吹く風を頬に受けながらひたすらに、そして真っ直ぐに。


 終

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