第64話 エイプリルフール
「ナギ...ナギったら...起きなさい!」
体を揺り動かされる感覚がある。一回、二回、三回と揺れが続く度、段階的に意識が浮上する感覚が強くなった。
「うん...?ティアラ...?」
意識の覚醒とともに目を開くと、もう見慣れたと言ってもいい整った顔がある。うちの従業員かつ生徒のティアラである。
「ようやく起きたの?遅刻するわよ...」
呆れ顔でそんなことを言うティアラを見て、よくよく考えれば疑問が浮かんだ。
「遅刻...?どこに...?」
今日は普通に店の営業日のはずで、ティアラも普通の学校のはずだ。
そもそも何故ここにいるのだろうか...?
「どこにって、寝ぼけてるの?」
ティアラは呆れ顔をさらに深めると、見慣れない制服姿で言った。
「学校でしょ?ほんとに遅刻しちゃうわよ?」
「は?」
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何が何だかわからないまま、部屋を見渡す。確かに僕の部屋だ。ただし、こっちの世界に来る前の。余計に頭が混乱して、目を擦る。目の前の風景は何も変わらない。
「いつの間に僕は帰ってきたんだ…?」
混乱する僕に「朝ごはん作るから、早く来なさいよね」と言い残すと、ティアラは部屋から出ていく。待て、僕を置いていくな。
とりあえず、慌ててティアラを追いかけて部屋を出ると、そこは間違いなく我が家だった。高層マンションの一室。無駄に広い部屋。置かれたピアノ。違いといえば、少し生活感がある事ぐらいだろうか。
エプロン姿になったティアラがキッチンに立っている。
「何してるの?」
「何してるって…いつも通り朝ごはん作ってあげてるんでしょうが…」
いつも通りがさっぱりわからない。そもそも何でティアラは朝っぱらから我が家にいるんだ?
「いいよ。僕が作るよ」
「はあ?ナギ、料理なんて出来ないでしょうが」
「はい?」
たまに君の夕食を作ってやってるのは誰だと思ってるんだ。そんな思いを抱いていると「まだ寝ぼけてるの?顔洗って着替えてきなよ」と、顎で洗面所を示された。
「ティアラは僕のお母さんか何か?」
「はいはい。可愛い幼馴染にそんなこと言ってると、今日は夕飯抜きにするわよ?」
卵が焼ける、いい匂いがした。ティアラはフライパンの中と向き合い、こちらを見ずにそう言った。疑問は尽きない。
「幼馴染…?」
僕は洗面所で顔を洗いながら、一人呟く。何が何だかわからない。
洗面所の横の衣類がけには、洗い立てらしい制服のカッターシャツとスラックスがあった。間違いなく、僕が日本で通っていた高校の制服である。
「そういや、ティアラが来てたのって、うちの女子制服じゃん…」
ティアラといえばアルスター芸術学院の制服姿の印象が強く、ぱっと見では思い出せなかったが、確かにそうである。
「何がどうなってるんだか…」
混乱する頭はとりあえず置いといて、制服に着替えた。お腹が空いていた。
「目は覚めた?」
リビングに戻ると、ティアラがそんなことを言ってくる。表情には心配の色が混じっており、幼馴染であるらしい僕の頭を真剣に心配しているらしい。余計なお世話である。
「あー、うん」
僕が気のない返事をすると、ティアラはじーっと僕の姿を眺めていた。
「どうしたの?」
居心地が悪くて、そう尋ねるとティアラは不思議そうに首を傾げた。
「なんか、今日はやけにカッターシャツとスラックスが似合ってる気がして…気のせいかしら?」
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ティアラの作った朝ごはんは美味しかった。トーストにスクランブルエッグに市販のヨーグルトだったけれど、安心する味がした。
「たまには人の作ったご飯を食べるのも悪くないね」
「毎日でしょうが」
そんなやりとりをしながら、家を出た。確認した鞄の中にはファイルがひとつしか入っていないが、これで大丈夫なのだろうか。
マンションを出て、ティアラの一歩後ろを着いていく。どこに行くか分からなかったからだ。
「ナギ、コンクールのことなんだけど…」
「コンクール?ティアラ、コンクールに出るの?」
また練習付けの日々だなと思いながら、頭の中でティアラのレッスン計画を思い浮かべた。そんな僕にティアラは、朝から何回目であろうという怪訝な目を向ける。
「あなたも出るでしょうが…」
「え?僕も…?」
「ナギ…本当に大丈夫?」
そんなことを言われても、僕からしたらおかしいのはティアラとこの世界の方なんだけど…
言っても無駄らしいので、僕は何とか寝ぼけているのだと誤魔化して、学校までの道を歩いた。途中から気づいていたが、行く場所は僕が通っていた高校のある場所で間違いないようだ。
「ここ、アルスター芸術学院じゃん…」
辿り着いた場所には、僕が通っていた普通の高校の影も形もなく、広大な敷地と巨大な建造物が収まっていた。それは間違いなく、ティアラやルルやクリスが通っているアルスター芸術学院だった。
「相変わらず広すぎないか…」
「今更でしょ。四年も通ってるんだから慣れなさい。総合の芸術校なんて、近場にはここしかないんだから。」
どうやら僕は芸術学校に通っているらしい。ピアノを学んでいるようだ。カバンに入っているファイルの中身はピアノ楽譜だった。
敷地内のことはさっぱり分からないので、やはりティアラのあとを着いていくしかなかった。ティアラは慣れた様子で、きびきびと校内を歩いていく。
数回しか入ったことのない学院内はもの珍しく、思わずキョロキョロと周りを眺めていると、誰かにぶつかった。不注意すぎだ。
「…いたい」
「あ、ごめんなさい」
軽い衝撃があって、誰かが転んだ。慌てて謝って手を差し伸べると、恨みがましい眼差しを僕に向けていた少女。よくよく見れば知っている顔だ。
「あれ?ルル?」
「なんだ…ナギか…」
ルルは相変わらず間延びした声でそう言うと、僕の手を掴んでゆっくりと起き上がる。スカートの埃を払う姿は、実に気怠げである。
そんないつも通りのルル。それなのに、僕がすぐにルルだと気づけなかったのには、大きな理由がある。
「ルル…猫耳はどうしたの?」
「ネコ…ミミ…?」
彼女の象徴である猫耳が頭頂部から見事に消え去っているのだ。
ルルは普段から半目がちの目をもっと細くすると、顔を歪める。端的に言えば「何言ってんだこいつ、大丈夫か?」という顔である。
「ナギ?何して…って、ルルちゃんじゃない。どうしたの?そんな変な顔して」
「ティアラ…ナギがおかしい…」
「ナギ、まだ寝ぼけてるの?」
「ナギが…急に…猫耳…どうしたのって…」
「ネコミミってあんた…」
ルルから事情を聞いたティアラが、僕をゴミを見るような目で見てくる。完全にドン引いているティアラにでもきついのに、トドメとばかりにルルがボソっとつぶやいた。
「…趣味?」
違うから。
********************
何とか誤解を解いてルルと別れると、次こそ教室にたどり着いた。敷地内に入ってから、二十分くらいは歩いた気がした。
「おはよう、ナギにティアラ」
「クリス…?」
「おはよう、クリス」
教室に入ってからすぐに僕達に話しかけてきたのは、クリスだった。やっぱり彼女もいるのか…
「ナギ、次のコンクールでは絶対に負けないから」
「ん?僕に?」
僕が首を傾げて自分の顔を指差すと、クリスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「他に誰がいるんだ…この前のコンクールで一度勝ったからって、いい気になれるのも今のうち…」
「はいはい、クリスもそこまで。毎日やって飽きないの?その話」
「ティアラこそ、万年三位で飽きないの?その順位」
「…買ったわ。その喧嘩。だいたいあんたは成績が…」
「うるさいな、ティアラだって…」
何やら僕をそっちのけで喧嘩を始めた二人に「相変わらず仲がいいなー」と思っていると、肩をポンと叩かれた。
「よっ、おはよ」
「何だ、クルトか…」
振り向くと、そこにはクルトがいた。こいつに至っては何も変わらないので、逆に安心感がある。
「何だってなんだよ…いや、今日こそは言わせて貰う。お前、ティアラさんという可愛い幼馴染がいながら、クリスさんや、後輩の女の子にまで…」
「はいはい。それはそれとして、聞きたいことがあるんだけど」
「よくないが…何だ?」
「僕の席、どこか分かるか?」
それが分からなかったので、立ち尽くしたままで困っていたのだ。
僕はその後、クルトにまで頭を本気で心配されてしまった。誠に遺憾である。
********************
その後も、僕の奇妙な学生生活は続いた。HRで入ってきた担任はウォルツさんだったし、五限の美術の授業の教師はフリーダさんだった。昼休憩には、食堂で三つ子三姉妹にタカられたし、ピアノの授業ではクリスに絡まれまくった。
その、急変化した日常。学生生活に、僕は少しずつ馴染んでいった。一度異世界に飛ばされているので、対応力と順応性が上がったのかもしれない。
でも、その頃にはこの世界の正体が、僕には何となく分かっていた。
授業が終わると、ティアラと二人で下校した。家の前で別れると「今日は夕飯を三人で食べましょう」と言われた。どうやら、ティアラの家は隣にあるらしい。三人という部分に首を傾げたが、とりあえず部屋に戻った。
思ったより気疲れが大きかったようで、部屋に戻ると大きなため息が出た。とりあえず落ち着こうと、コーヒーを淹れることにした。
手動のミルでコリコリと豆を挽いていると、インターホンが鳴った。ティアラが来たのだろうと、確認せずにドアを開けると、
「ナギ君、いい匂いがするね」
「先生…」
そこには、僕の先生がいた。
「うーん、美味しい」
僕のコーヒーを一口飲んで、先生は微笑みながらそう言う。相変わらず、感情が豊かな人だった。どうやらティアラの入った三人目は先生だったらしい。
「もうコーヒーの腕は私を超えちゃったね」
「先生が下手なだけだよ…」
「言ったなーーー」
久しぶりの再会を喜びながらも、それを表に出せないまま、日常みたいなやりとりを続けた。ティアラが来るまでそうしていた。
三人で、コーヒーを飲んだ。ピアノのレッスンをした。夕食を食べた。僕が作ると、二人はとても驚いていた。
「まるで夢みたいだな…」
結局、行き着くところはカッターシャツの上にエプロン姿の僕だった。作った親子丼を粧いながら、そう呟いた。
先生は僕のこの格好を見慣れないと言った。
ティアラは何だか様になっていると言った。
その違いが何を表しているのか薄々分かっていて何だか辛かったけど、程近くででおしゃべりする二人の姿を見るだけで、どうでも良かった。
「こうだったら、良かったのに」
********************
小鳥の声で、目を覚ました。
「さて、開店準備をしよう」
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