第63話 くさり
「ルル…それは…」
僕の震える声に合わせるように、強い風が吹いた。窓際のお客さんが、驚いた様子で外を眺める。ふと、その視線に誘導されるように外を見ると、偶然通りかかった女の人のロングシャツが揺れて、身を震わせたのが見えた。
「ん…私も…ちょっとおかしいの、分かってる…」
ルルが、そっと自分の制服の袖で手のひらを隠した。成長を見込んで買った制服の大きなゆとりは、ルルの何かをそっと、袖の内側に隠すのには十分だった。
「中等部に上がる時…みんな言った。バイオリン奏者になりたいから、弦楽器専攻にいく…素敵な服を作りたいから…服飾科にって…」
中学生、朧げながら自分の夢の実現に手をつけ始める時期。仕事というものがより身近で、就業年齢の低いこの異世界なら、それはなおさらだろう。
自分の中学生時代を思い浮かべる。たった、数年前のことだけれど、とても遠く感じるのはそれだけこの年代の成長幅が大きいからだと思う。数年前の自分を、違うものだと感じられるくらいには。
「ララとリリにも…聞いてみた…そしたら二人とも…パパがかっこいいから、調律師になりたい…だから音楽技術科にって、そうはっきりと言った…」
「でも、ルルは違う?」
「ん…」
「なりたいものが、別にある?」
こくりとルルが頷いた時、生ぬるい風に乗って雨がやってきた。この感じ、覚えがある。ああ、梅雨が近いのだなと思った。
思えば、僕がこの世界にやってきたのもこんな雨ばかりの季節だった。お客さんが来ないのを、雨のせいなんかにして、毎日雨粒が浮かんだように無駄に濡らしたグラスを拭いて一日を終えた。
ああ、神様。もしいるのならば、なぜ僕をこの世界に呼んだのか教えてください。もし、目の前の僕の過去と重なる少女を救うためだと言ってくれたなら、僕は今すぐにでも、この小さな手を取るのに。
だから、僕の頭にフラッシュバックする思い出を打ち消す、最後の理由をください。
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「私が…それを選ぶと…きっとお母さんは悲しむし…実際、ララとリリと離れるのが…ん…怖い」
それが普通だよ、ルル。今までの環境を変えるのは、誰だって怖い。君に足りなかったのは、後押ししてくれる人なんだ。
「だから…進路調査票の提出期限の前の夜…ママに言おうと思った。でも…ダメだった…意気地なしが出た…」
親に何か言うのって怖い。分かるよ、分かるんだ。
「だから…仕方ないと思って進む未来で…きっとララとリリのことを引っ張っちゃう…嫌な場所で…嫌な人に嫌なことを言われるのが嫌で…」
望んでいる場所での困難なら、立ち向かう気概も湧くのかもしれない。けれど、望んでもいない場所で、望んでもない目に遭った時、人はなぜ逃げる選択肢以外を選んではいけないのだろう。
「だから、どうしていいのか…もうわからない…疲れた…」
おおよそ、中学生になったばかりの少女が吐露するには、重すぎる言葉に、僕は何も返せなかった。
六時を報せる鐘が鳴り、ルルが「ママに怒られる…」と呟いて、立ち上がった時も、僕はまだ何も言えないままだった。
そういえば、雨が降り始めたのだった。そう気づいて、出口に向かうルルを見ると、案の定顔を顰めていた。
「ねえ、ルル」
小さな手に傘を差し出しながら、
「明日も来なよ」
そう言うのが、精一杯だった。
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突然の雨に驚いたのか、それともこれよりひどくならないうちにと思ったのか、気づけば普段店を閉める時間の一時間ほど前にはお客さんはすっかりいなくなってしまっていた。
「あれ?もうお店閉めるの?ナギ」
そんな雨の音を打ち消すドアベルの音と共にやってきたのは、我が店の従業員兼生徒であるティアラだった。
「ティアラ…」
何でこんな時間に?と続けようとして、それが空気に触れる前に、それは遮られた。なぜだか、血相を変えてティアラがキッチンに駆けてきたからだ。傘を丁寧に畳むことを忘れたせいか、雫が店内に垂れて僕とティアラを繋ぐ線を作った。
「どうしたの!?誰かに何かされたの!?」
「ええ!?さ、されてないけど…」
「本当に?ひどい顔してたわよ?」
「…まあ、悩んでることはあるけどさ」
僕がそう言うと、ティアラは少し険しかった表情を緩めると「今日はもうお店閉めることにしない?」と言うと、返事もせずに看板を裏返してしまった。これじゃ、どっちが店主か分かったもんじゃない。
ティアラが傘を畳み直して、溢れてしまった水滴を拭いている間に、間を持たせるように話をした。
「そういえば、何でこんな時間に?」
「今日は来ないって言ってたと思うんだけど、単純に学院から帰るのが遅くなっちゃって。自分で何か作るのも面倒だし、ここで何か食べて帰ろうと思ったの」
今日はただのお客として来たんだけどと言って笑うティアラに、申し訳なさを感じながら、苦笑いを浮かべる。その間に、雨で体を冷やしたティアラのためにコーヒーを淹れた。ついでに僕の分も。
コーヒーカップを二つ持って、ダイニングテーブルへと運んだ。ティアラはすでに、腰を下ろして僕を待っている。
「お待たせ」
「今日は店員さんが一人しかいないから仕方ないわね」
そんないつものくだらない話が、今はとても有難かった。僕も腰を下ろして、お互い一口コーヒーを飲んだ時にティアラが切り出してきた。
「それで?何に悩んでるの?」
「それは…」
「ルルちゃんのこと?」
「えっ!?」
「やっぱり」
どうして分かったんだろうと驚いていると「分かるわよ」とため息をつかれる。ティアラはたまにエスパーなんじゃないかと思う時がある。
「ナギがそんな思い詰めてる顔してる時って、大抵他人のために悩んでいる時だもの。それで、最近ナギが悩みそうなのってルルちゃんのことかなって」
「す、鋭い…」
「まあ、最近店に入り浸ってたルルちゃんが来なくなってたのも気になってたし」
この子は演奏家ではなく、探偵か何かになった方がいいんじゃないだろうか。
「それで?何があったのか話してよ。話せる範囲でいいから」
ティアラの前に置かれたソーサーが立てた音を皮切りに僕は話した。ルルがこの店に入り浸っていた理由。ルルと先生のこと、ルルと母親のこと、ルルの心の内を。
「…思ったよりこじれてるわね」
「そうなんだよ…」
ティアラが側頭部を押さえながら、ため息を吐く。僕もそうしたい気分だった。
「うーん、家族の問題はまだしも、その教師許せないわね」
「ティアラも思い当たる節とかあるの?」
「あるわよ。アルスターってそこそこの名門だから、そこの教師も妙にプライドが高かったり、自分の考えが正しいって人が多いの」
権威的とかいうやつなのだろうか。そういえば、僕にも迎秋祭の時に絡んできた人がいたなと思い出す。もう名前があんまり思い出せないけど…
「それで、ナギ自身は何に悩んでるの?」
「えっ?」
「私は、私だけは知ってるもの。ナギは誰かが真剣に悩んでたら、不器用でも言葉を尽くしてくれる人よ」
「…それは」
「でも、ルルちゃんには何も言えなかったってことは、ナギ自身に何か喉につっかえるものがあるんでしょ?」
「敵わないなあ…ティアラには…」
実際そうなのだ。僕がルルに言葉をかけられなかった理由は、僕の過去にある。未だ清算しきれず、この異世界に来たことでもう向き合えなくなった過去。まるでそれが、ルルを通して現れたみたいで僕は何も言えなかった。
「自信がないんだ」
僕は家族という形に雁字搦めにされたルルに何かを言う自信がなかった。だって、その鎖を僕は断ち切れたことがないから。むしろその鎖をよりキツく締めてしまいそうで、怖かった。
「ねえ、聞いてくれる?僕の昔の話」
「もちろん」
話は、僕の生まれた時まで遡ることになる。それは、僕がピアノに出会うまでの話だった。
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深崎は強敵テスト期間を倒して夏休みを手に入れたので、こっからは更新速度上がると信じたい。
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