第55話 深夜のひとりごと

 時期は少し遡って春真っ盛り。世界樹は淡く色づき、僕の店からでも舞い落ちる花びらが雪のように綺麗に見える。


 営業が終わって、明日は休店日の絶好の夜。一週間働いて、体には少し気怠さや疲れがあるけれど、達成感の方が強い。


「今週もよく頑張ったなっと…」


 エプロンを脱ぐと、重荷を下ろした気がする。カウンターテーブルに腰を下ろして、ため息を一つ。時刻は十時過ぎ、寝るには少し早い時間、夕食もまだ。


「さて、どうしたもんか」


 夕食は何にしようかと考える傍ら、何か寝る前にしようかと考える。といっても、この世界ではできることなんて限られている。


「お花見でもするかね」


 思い付いたのが吉日。早速準備に取り掛かることにする。


 意味もなく、夕食用に取っておいた米をおにぎりにする。具は、表面に味噌でも塗っておけばいい。海苔を巻くのも忘れない。簡易的なお弁当を作ろうと思って、中身を考えるけれど、自分が誰かにお弁当を作ってもらった経験がないのでスッと案が出てこない。


「うーん、揚げ物は面倒臭いし…」


 唐揚げ、とんかつ、なんかの茶色い心躍るものは流石に今の時間帯から作るのは面倒臭い。


 仕方が無いので、卵焼きを焼いて、ベーコンみたいな燻製肉を焦げ目がつくまで焼いたら、野菜も含めて、それっぽくお弁当箱に詰めてみた。


「うん、燻製肉が桜色っぽいから悪くない」


 正直弁当としてはもっと工夫できるのだろうが、一人で暇つぶしにする花見ということを考えれば上出来だろう。


 米に合わないと分かっていながら、一杯コーヒーを淹れると、弁当箱とおにぎり、コーヒーを盆に乗せて自室へと運ぶ。


 日記を書く時くらいにしか使わない、小さなテーブルに盆を置くと、押し開きの窓を前回にする。


 春の夜の冷たい風が室内に吹き込んで、身震いした。花冷えとはよく言ったものだと、シャツの上に一枚カーディガンを羽織る。


 机を窓のすぐそばまで持ってくると、椅子に腰を下ろす。


「本当に、何度見ても見事だな」


 開け放った窓の奥には、見事に薄ピンクの花を咲かせた世界樹の姿がある。


 春風に煽られて、遠目でもひらひらと花びらが落ちていくのが見える。その一枚一枚が、月光に照らされて、雪のように見えた。


「さて、お花見としようか」


 おにぎりの海苔の部分を掴むと、大きく口を開けてかぶりつく。


「やっぱり味噌って最高の調味料だよね」


 表面に軽く塗っただけで、味が濃いし米と合うことこの上ない。醤油と味噌がある世界に飛ばされたのが唯一の救いだ。


 米を口に頬張っている間に、燻製肉も口に入れる。スモーキーでこちらも味が濃いけれど、味噌に負けないから満足感がすごい。


 咀嚼を終えると、次は卵焼きだ。僕は、うんと甘いのが好きである。卵の本来の甘みプラス砂糖を多めに。フワッと、プルっと。最高である。


「うーん、晩御飯って感じじゃないけど、これはこれでいいな」


 完全に花より団子になってしまっていたので、もぐもぐと口を動かしている間は、ぼーっと世界樹を眺める。


 雲を突き破らんばかりに聳え立つ大樹。不思議なもので、春には桜のように色づき、夏は青葉を、秋になると紅葉をするのである。


「日本の情緒お得セットみたいな木だなぁ」


 そんなことを言ってみても、美しいものは美しいし、僕だって桜大好き日本人なので、目の前の光景に密かに圧倒されて感動してはいるのだけれど。せっかくだし、一人だけじゃなく、誰かとも春のうちにお花見をしようか、うん、悪くない。


「この世界に飛ばされて、もうすぐ本当に一年か...」


 世界樹が桜色に色づくのを見るのは初めてである。あの桜が散り、青葉になった頃僕はこの世界にやってきた。


「こんな光景見てると、今でも夢なんじゃないかって思うよね」


 でも、机の端に置かれた日記に刻まれた日々が、くたびれ始めたシャツの襟が教えてくれる。僕はここで生きたのだ。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせると、少し冷めたコーヒーを飲んだ。いつも通りの味。酸っぱさ控えめの、飲みやすい味。


 世界樹を眺めながら、少し感傷に浸っていると、窓から一際強い風が吹き込んできた。


 前髪が揺れて、思わず目を瞑る。突風はすぐに立ち去り、残ったのは面食らったような僕と静けさだけ。


「おっ」


 風に運ばれてきたのか、カップの中の黒い水面に、ひとひらの桜色の花弁が浮かんでいた。


「茶柱みたいなものかな、明日はいい事あるかも」


 そんなことを願って、残りのコーヒーを一気に飲み干した。僕はコーヒーを飲んだ後でもすぐ寝られる人なので心配はない。


 もう、食べ物も飲み物もないけれど、僕はしばらく窓枠に腰掛けて、世界樹を見ていた。


 ふと、視線を眼下に向ければ、金曜日の夜だからかそれなりに多い人通りのざわめきが聞こえる。


 どこに行こう、家に帰ろう、明日の約束。


 カーディガン越しでも、肩が冷えたように感じた時、僕は窓を閉じた。


 歯を磨いて、食器を水に漬けたら、寝台に潜り込む。


「さて、また明日も頑張りますかね」


 明日は休みだけれど、新メニューの開発でもしてみよう。そんなことを思った夜だった。


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