第54話 カフェオレの温度
葉桜の青い香りがする昼下がり。僕はランチ時にしては、静かな時を過ごしていた。お客さんは五人程度。カウンター席には、例のごとく学院をサボっているルルが寝息を立てている。
洗い終えたグラスを棚に戻す際に他のグラスと擦れて発生する、カチャカチャという音にも微塵も反応しない。落ち着いてくれるのはいいが、落ち着きすぎだと思う。
「ぐっすりね」
ちょうどお客さんに料理を運び終えてキッチンに帰ってきたティアラも、どうやら同様の感想を抱いたらしい。呆れと、微笑ましさを同量含んだような表情でルルの寝顔を見ている。
なぜ昼下がりの平日にティアラが居るかというと、今日ピアノ専攻生徒は昼からは授業がないらしい。今週は新一年生が、施設や専攻授業を見て回る予定だから、二年生はお役御免なのだそうだ。
「せっかく降って湧いた休みなんだから、ゆっくりすればいいのに」
「私は癒されたくてここに居るのよ」
「確かに、ルルの寝顔は癒し効果がありそうだ」
筋金入りの猫耳好きのティアラからすれば、垂涎ものの光景なのかもしれない。
「そういうことにしておくわ」とティアラは笑うと、じっとルルの方を見つめる。
「ま、教室でせっかく授業受けてるのに寝るよりは、潔いのかもね...」
「へぇ、優等生のティアラなら許せないことなのかと思ったけど違うんだね」
ティアラには、それとなくルルの現状は伝えている。その時は、簡潔に「へー、そう」としか言わなかったので、心中が定かではなかったのだ。
「私は頑張る理由があったから頑張ってたの。クラスメイトにも、寝てる子だっているから、私の生き方を強いたりしないわよ」
「ま、それもそうか」
「それに、時には休養も必要って先生が口酸っぱく教えてくれたから」
「へぇ、最近の先生はいい事を言うね」
「ばか」
しらばっくれる僕を、ぽしょりと罵るティアラ。どう切り取っても、この店のいつもの光景だ。
「この店では、外のことは言いっこなし。それも、先生がいつも言ってるからね」
「優秀な弟子を持てて光栄だよ」
穏やかな時間が流れる。聴こえるのは、わずかなお客さんの話し声や、食器の立てる音と寝息だけ。
「今日は、お客さんあんま来ないかも」
「いい天気なのにね」
「たまにあるんだよ、そういう空気みたいなの」
麗かな日は、比較的長居してくつろぐお客さんで賑やかなものだが、たまにこういう日がある。なんとなく、静かで穏やかな日。
僕はその日がたまらなく好きだった。お客さんが来ないので、飲食店的には良く無いのだろうけど。
「分かるわ」
口には出していないはずなのに、ティアラがそんな同意の言葉を吐露するから、驚いて顔を見つめるけれど、ティアラは悪戯が成功した子供のように微笑むだけ。
どうもたまに、ティアラには心を読まれることがある。ティアラが鋭いのか、それとも僕の顔に書いてあるのか。どちらかは分からないけれど、とりあえず意識して表情を引き締めてみようと思う。威厳あるマスターまでの道は遠い。
静かにドアベルが鳴った。入ってきた人物の人となりを表すかのように、凛と均等な音で。
「いらっしゃいませ」
「ええ、お久しぶりね店主さん」
「少し落ち着きましたか?」
「そうね、暖かくなったおかげで、患者さんの総量は減ったわ」
カウンター席に座ると、背もたれ泣かせの綺麗な背筋がよく目立つ。スラッと高い身長と、藍色の髪とメガネがクールな印象を抱かせる。
身に纏う白衣が非常によく似合う、この女性の名はハイネさん。店の近くにある診療所で働くお医者さんである。
「あら、あなたもお久しぶりね。過労に気をつけて、しっかり休養取ってる?」
「はい、おかげさまで。切羽詰まったものも無くなりましたから」
そして、冬休み前にティアラが倒れた時に僕が助けを求めたお医者さんでもある。ティアラもその時からの顔見知りである。過労を知られている負い目からか、少しぎこちないけれど。
「いいことね」
僕は、雑談に興じながらも記憶の中にあるハイネさん好みの一杯を淹れることに余念がない。彼女が好んで飲むのは、
「お待たせしました、甘さ控えめのカフェオレです」
カフェオレである。この一杯が、ハイネさんがうちにきてくれる理由だ。なんでも、医者の激務をこなす彼女にとっては、なぜか眠くなってもカフェオレを飲んだ後だと、元気に働けるのだそう。
恐らく、カフェインの作用だろうが、それを教えると、少しティアラのことを言えない過労気味のハイネさんの体がやばい気がするので「気のせいですよ」と誤魔化している。よかった、ハイネさんがコーヒー苦手で。
ハイネさんがここに来る時は大抵の場合疲れている時なので、いつもあんまり顔色はよろしくないのだけれど、今日はいつも以上のように見受けられる。
疲れている、というよりどこか物憂げで、時折イメージにそぐわないため息を吐いたり、どうも様子がおかしい。
「どうしたんです、溜め息なんて吐いて。幸せが逃げますよ」
「これ以上逃げられると困るわねえ…」
ハイネさんは、カップの残りのカフェオレを一気に飲み干すと、再度ため息をついた。
「おかわりくれる?」
長い嘆息の後、ボソリと少し据わった目でそう言われた僕は広告と頷くことしかできない。酔っ払ってないよなと心配になる。
「どうしたんですか?少し荒んでるように見受けられますが」
ミルクを温める間、僕は流石に聞かずにはいられなかった。ティアラも、いつもと違うハイネさんの様子にこちらを伺い見ている。
「店主さんなら、話してもいいか…」
ミルクの優しい香りが漂い始める中で、ハイネさんが語り始めたのは、僕には少し遠い未来の大人の苦い話だった。
「私も、もうすぐ三十歳になるのよね」
女性に年齢を聞くのが失礼にあたるというのは、どの世界でも共通のようで、僕はお客さんに年齢を尋ねることはないので初耳である。
「必死で勉強して医者になって、父さんの診療所で働き始めてからも一人前になるまでがむしゃらに患者さんと接して、後悔はしてないけれど忙しい毎日だったわ」
ハイネさんは、近くの診療所の一人娘であり、親娘二人で切り盛りしているという話だ。
「ご立派だと思いますけど」
「ありがとう。父もそう言ってくれるんだけど、診察やらに慣れて、少し手が空くと次はこう言われるようになったの」
少し間を置くと、ワントーン低い声でハイネさんはこう言った。
「ーーー結婚したらどうだ、って」
「ああ…」
いわゆるアラサーと呼ばれる人間が、実家に帰ると親に言われて鬱陶しい言葉第一位に元の世界でも輝いていた、あれである。
「その、失礼ですけど、お相手とかって」
「いるはずがないのよね…勉強漬け働き詰めだったんだから」
ティアラが「踏み込んで大丈夫?」と言うかのように、僕のシャツの裾をちょいちょいと摘む。女性目線でダメなら止めてくれ頼むぞ。
「それで、結婚ってものの先が見えなくて悩んでいると」
「いや、そうじゃないのよ」
「え?」
「話はもう一歩先に進んでてね、父が最近大量にお見合いの話を持ってくるの」
机の上に積み上がる見合い写真を想像した。元の世界でアニメやらで見た光景でしかないが、その中から自分が選り好みしないといけないとなると、確かに気が滅入りそうだ。
「なるほど。それで、お見合いが嫌だと」
「そういうわけでも無いのよ」
「おっと!?」
今日は予見の相槌が一つも当たらないなと、コント番組みたいにズッコケるようなポーズをとる。ティアラから真面目にやれという視線が突き刺さる。
「今更、一から恋愛してというのが難しいのは自分でも分かってるから、お見合い自体は進んで受けているし、最近も数件受けたのよ」
「ほうほう」
「けど、なんだかしっくり来ないの」
「というと?」
ハイネさんは、言葉を選ぶように視線を宙に彷徨わせる。
「なんだか、上手く言えないんだけど父が話を持ってくる人って、すごく私と気が合いそうな人なの」
「いいことじゃないですか」
「そうね、真面目で仕事も出来て、似た者同士気が合うような人が多かったわ。いいことのはずなんだけどね…」
「そういう人がしっくり来ないなら、いっそ自分と真逆そうな人を選んでたらどうでしょう」
返事に煮詰まった僕に代わって、ティアラがそんな提案をする。確かに妙案な気がする。だが、それに対するハイネさんの返答は苦笑だった。
「私の反対って、明るくて、表情豊かで少し人生に遊びが入っているような人でしょ?そんな人が私みたいな鉄仮面、相手にするわけないわよ」
そんな最初から諦めたような言葉を聞いて、僕の頭に一つ浮かぶものがあった。
「ハイネさん」
「うん?」
「せっかくですから、いつもハイネさんが飲んでいるカフェオレの作り方をお教えしましょう」
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唐突な話題の転換に、ハイネさんもティアラも不思議そうにしていたが構わず温めたミルクと、淹れたばかりのコーヒーを用意する。
「作り方といっても、コーヒーを淹れられればそう難しいことじゃありません」
理想の比率はコーヒーとミルクが半分ずつ。甘さ控えめのハイネさんには六対四で出している。
お湯を注いでカップを温めると、コーヒーを先に入れ、ミルクをそこに注いでいく。
「わあ」
「へえ…」
黒い土壌に真白が注がれて、柔らかな色になっていくのはいつみても美しい。混ざり合うその光景に、二人もそれぞれ、思わずといった様子で声を上げる。
「どうです?綺麗でしょう」
「ええ、いつも軽い気持ちで飲んでいたけど、より一層美味しく飲める気がするわ」
僕は、そうやって出来上がったカフェオレをハイネさんに差し出す。
「人もきっと、カフェオレと同じだと思うんです」
「カフェオレと?」
カップを受け取り、一口飲んだハイネさんは意図を測りかねるといったように、首を傾げる。
「ええ、これは不思議な飲み物です。真っ黒なものと真っ白なものが混ざり合って出来てる。刺激が強くて苦いものと、甘くて優しいものが混ざり合って出来ているんです。でも、美味しいでしょう?」
「ええ、とても」
「僕は、もちろん結婚したことも、ろくに恋愛をしたこともありません。だから、今から言うことは、ただの私見に塗れた理想論なのかもしれません」
きっとそうだ。そう簡単なことではないのは、子供の僕でも知っている。でも、そう信じたいから言葉にするのだ。
「自分とは違うから、きっと理解し合えない。自分とは真反対の性格で違う人生を歩んできたから、目を向けない。それは、違うんじゃないでしょうか」
「店主さん…」
「他人を引き合いに出すのもあれですが、少し隣を見てください」
僕は、カウンター席で呑気に船を漕いでいるルルを手で示す。
「彼女は三つ子です。けれど、他の姉妹とは性格が全く違う。長女とは真反対と言ってもいいぐらいに。けれど、いつも仲良しです。付かず離れずといった風に」
自分の話をされているというのに、ルルは幸せそうに夢の中にいる。皆がその寝顔にやられ、少し空気が和らいだ気がした。
「僕とティアラだってそうです。違うけれど、歩み寄ってここまで来ました。何度かすれ違いもしましたけど、今は僕の心の内を読まれる始末です」
「それは、ナギが分かりやすすぎるのよ」
くすくすと、ハイネさんが笑った。
「確かに、店主さんは分かりやすそうね」
「放っといてください」
僕の拗ねたような態度に、今度はティアラも笑う。笑い声が大きくなって、僕はより一層複雑さが増すばかりだ。
「コホン、僕の話は置いておいて。カフェオレっていうのは不思議なもので、混ぜる時の温度が非常に大事なんです。片方が冷めた状態で混ぜると、とても飲めたものじゃないくらいに」
「へえ、不思議なものね」
「だからです、きっと人間も、真反対な人同士であったとしても、同じ温度が大事です。最初から片方が、冷めて、諦めていたら、美味しくなったかもしれない組み合わせだって、ダメになってしまう」
「同じ温度で…」
「はい。違っていても、お互いに熱量を持って、理解しようと思えばきっと違う味が見つかる。そう思います。きっと、ほろ苦いこともあると思います。でも、同じくらい甘いこともあると思います。二人がずっと同じ熱量でいられるなら」
そんな日々を夢想するには、僕はまだ若くて、人に物を言えるような立場じゃあないのかもしれない。けれど、目の前のこの真面目なお客様には、きっと何かが届くと願う。素敵な昼下がりなのだから。
「…もしかしたら、店主さんの言う通りなのかもね」
長い沈黙の後、ハイネさんは、二杯目のカフェオレを飲み終わると、そう一言だけ呟いて帰路についた。
「もしかしたら、余計なお世話だったのかも」
ドアベルの残響を聞きながら、そう零すけれど後の祭りというやつだ。
「きっと、大丈夫よ」
ティアラのそんな、なんの根拠もない言葉だけが僕の慰めだった。
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それから少しの時が過ぎ、また麗かで愛すべき退屈を享受する日は訪れる。きっと、偶然なのだろう。
そんな、少し店内が寂しい日に、一組の男女が訪れた。片方はメガネをかけたクールな女の人で、仲睦まじくその人と談笑する男の人は、笑顔の絶えない優しげな人だった。
綺麗でなくても混ざり合えばいいと思った。あの、ミルクとコーヒーみたいに。
「お待たせしました、甘さ控えめのカフェオレです」
僕にはブラックのコーヒーが必要かもなんて考えた。目の前の光景は、コーヒーに沈んだ角砂糖よりも、僕に苦さを忘れさせてくれそうな甘く幸せな画だったから。
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これは書いてて楽しくて、早く出したかったやつです。最近はすっかり夏で暑いですね。早めに本編も夏まで追いつきたいです。
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