第50話 断章 空までの距離
子供の頃は、手を伸ばせば空に届く気がしていた。だが、徐々に背丈が伸び、自分の身の程の限界を悟った時、自らは空に届き得ないのだと人は知る。
高層マンションの真下に佇んでいる時なんて、さらにだ。
私はいつものように、豪奢なエントランスへと歩みを進めると、エレベーターに乗り込み二十六階のボタンを押す。最上階ではないものの、ほど近い位置。
キーケースの中から、凝った形をした鍵を取り出すと、角部屋のドアを開ける。
広々とした玄関が私を迎える。初めて来た時は、度肝を抜かれたものだが、五年以上ここに通っていた身としては、その広さに豊かさより、寂しさを感じ取る。
玄関の真正面のドアを開けると、だだっ広い空間に出る。大理石の床が煌びやかなダイニングキッチン。そこには、行き場を失ったようなL字型のソファーと映像を写している記憶があまりない大きなテレビ。
そして、部屋の端には、佇む大きなグランドピアノと、床にまで散らばった楽譜がある。やけにそこにだけ人がいた形跡が残っているせいか、部屋のイメージがそこで完結されている。
当然だけれど、人の気配はない。一応、名前をそれなりの声量で呼んでみたけど、返事はない。家具や物が少ない故の反響音がどこまでも残酷だった。
今日も私は、この部屋の埃を払う。それが、ここ一年間の私の週一回のルーティンなのだ。
彼の父親の持ち物件な上に、本人は使う予定もないようなので、好きにしろと言われている。好都合ではあるけれど、その無関心に腸が煮えくり返る気分だ。
ーーーー自分の息子が消えたのに、なぜ書類と向き合っていられるのか。
私はしがないピアニストをしている。そんな私に師事してきた男の子がいた。 世間的には恵まれすぎた家庭に生まれ落ち、空高く聳える豪奢な部屋に一人暮らし。望めば与えられ、まさに勝者。私の目も、初めは彼をそんな風に捉えた。
だが、私の目が節穴だったことはすぐに露呈した。彼は、愛に恵まれず、空高くの独房に隔離され、何かを望むことを知らない悲しい男の子だった。
そんな男の子に、家政婦代わりをしながら週に三日ピアノを教えるというのが私の仕事だった。親の裕福さを証明するかのように、報酬はとても良かったので、当時名のないピアニスト崩れだった私は飛びついたものだ。
音大の奨学金にすら苦しむ私は、坊ちゃんの相手をすることに憂鬱さを覚えていたけれど、そうも言ってられない状況だったのだ。
そんなこんなで、私がそれから五年間。思春期の間ほとんどを見守ることになった少年は、ある日忽然と姿を消した。
食事を作りに来る家政婦さんがおかしいと思ったらしい。全く冷蔵庫の食事が減っていない。外食なんてするくらいなら、自分で作るくらい料理上手な子だったから。
紆余曲折あって、彼もピアノから距離を置き、私もここに通うことがしばらく無くなっていたことから、私が彼の異変を知ったのは少しあとの事だった。
学校に来ない、家に帰った形跡が一切ない。家からなにか持ち出した様子もない、親が与えておいたカードや通帳からお金が引き落とされた形跡も一切ない。
そんな異常事態に冷蔵庫の食事が減らないと雇われ家政婦に気づかれないと、誰にも気づかれない彼が、どこまでも哀れだった。
少なからず自信があった。私と触れ合うことで、彼は成長と共に張り詰めたものが緩んでいったような、そんな気がしていた。
誘拐、失踪、家出...そんな、浮世離れしたようでありふれた言葉が彼を包み込んだ時から、私はそれが自惚れだったのかと疑う毎日を過ごしている。
資産家の息子ということもあって、警察も随分真剣に彼を探したようだ。だがそもそも、ある日家に帰ってから、家を出た形跡が一切無いのだ。監視カメラに、彼がエントランスに入ってから、そこを抜けた記録は一切なかった。
なら、同じマンション内のどこかに監禁でもされているのかと、全部屋を警察が調べ回ったそうだけれど、それも空振り。どこかの三文雑誌が題した「神隠し」というのが、現実味を帯びてくる始末だ。
私は彼の行方知れずの情報をテレビのニュースで初めて知った。五年連れ添った曲りなりの親代わりの師匠に、本当の親は一報も寄越さなかった。
彼がいつ帰ってきてもいいように、私は埃を払い続ける。帰る場所はあるのだと、そう示し続けることで彼がひょっこり疲れて帰ってくる気がしたから。
夫は、何も言わない。静かに、泣く私の肩を叩くだけ。結婚式の余興でピアノを弾いてくれただけの、記憶の片隅の少年には思い入れはなくとも、私に気を使ってくれているのだ。
カサリと、何か音のするものを私は靴下越しに何かを踏んだことに気づいた。
拾い上げてみると、それは青葉だった。やけに青々とした、見かけない不思議な形をした葉。
彼の、私の弟子の寝室に観葉植物なんてものはない。窓も開けていなければ、開けたとしても葉が舞い込むような高さにはない。
不思議に思いながら、しげしげとそれを見つめるけれど、青葉は答えない。何も、答えはしない。
作り物かと疑うほどに均整のとれた美しいその葉は、ただ悠然と産毛を揺らすだけ。それでもなぜか、彼を見つける重要な鍵な気がして仕方なかった。
「そんなわけないか、気が立ちすぎね」
私は一応、その葉を尻ポケットに仕舞うと、掃除を続けた。毎週誰も使わない部屋の掃除をしているのだから、時間はそうかからない。
換気のために開けていた窓を閉めると、鍵を閉めて帰り支度を整えた。あの可哀想な主人を失くしたグランドピアノのチューニングが狂うまでは、私はここに来続けるだろう。
施錠を確認すると、エレベーターに乗り込む。下に降りるエレベーターなのに、珍しく人が乗っていた。これより上の階から降りてきたなら、さぞかしお金持ちだろうなと野次馬根性ながら、顔をのぞき込む。
大層な美形だった。芸能人だろうか?とそんな下世話なことを考えるけれど、思い当たる顔もない。ただ、その日本人離れした顔がどうしてか脳裏に焼き付いた。
「悲しいな」
なぜだか、そんな声が聞こえた気がしたけれど、ちょうどエレベーターに乗り込んできた他の住人の足音やざわめきで、正体は曖昧になってしまった。
青葉の季節。君は今どこにいるのでしょう。ピアノは弾いていますか?私の下手の横好きを鼻で笑うようにどんどんと淹れるのが上手くなったコーヒーは、今でも毎日飲んでいますか?
吹かれて舞い上がっていく青葉にそんなことを書けば、空まで届くだろうか。神隠しなんて、人の身に余る目にあった君に、手が届くだろうか。
そんなことを考えた。
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ナギ君がいなくなった世界のお話でした。少しだけナギ君の境遇が判明するという意味でも、一章の最後に書きたかった話です。これにて、一章完全完結となります。更新再開時期は未定ですが、六月末くらいには帰ってきます。ちょうど五十話で一章完結!キリがいいですね。
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