第49話 また春が来て僕ら

 雪解けを寂しく思えば、そこはもう春の最中である。僕は何故か、今日そう思った。


 ティアラの誕生日から約一ヶ月。三月に入り、日照りは徐々に増していくばかり。舗装された道路の隙間から小さい花が顔を出すのも、そう遠くはないだろう。


 ティアラは、最近店に来る頻度は幾分か減った。毎日働いてレッスンにと躍起になる必要も、時間的余裕も無くなったからだ。


 ピアノ専攻科に進級するからには、僕以外のプロの教師からも真剣にピアノを習う。僕はその足がかりに過ぎないので、当然の帰結だ。


 今は週に多い時で三回ほど働いては、腕を鈍らせない程度にピアノを教えるという日々が続いている。進級するにあたっての準備も忙しいらしい。


 夕方頃に来る常連は、随分と寂しそうだ。毎日のようにいた人間が少し距離が遠くなったのだから当然かもしれないが、ティアラが正式に進級する頃には、その距離感にも慣れるだろう。


 ん?僕は寂しくないのかって?さぁ、どうだろう。


 変わったことがあるとすれば、たまにティアラと出かける機会がたまにある事だ。


 と言っても、ヘーゼルさんのところに服を買いに行ったり、レッスン終わりに気まぐれに屋台で買い食いをするくらいのものだ。きっと、ティアラも少し肩の荷が降りて、遊びたいのだろう。先生としてそれに付き合うくらいは、なんてことは無い。


 それ以外に変わったことがあるとすれば、クリスが最近よく店に来るようになった。常連と言ってもいいかもしれない。


 カフェオレを飲みながら、音楽の話なんかをする程度だから確信は持てないけれど、クリスの中でも何かが変わり始めているのだろう。ティアラと軽口を叩き合うように言い合っているのも、その一部だと思う。


 そんなクリスを見て、ウォルツさんはボソリと僕に「クリスに良きライバルが出来た、得難いものだ。礼を言う」と言われたけれど、僕ではなくティアラに言うべきだと返せば「いつかね。今は、何も考えないであの状態でいて欲しいんだ二人共」と笑っていた。ウォルツさんは、僕が思うより教育者なのかもしれない。


 ティアラは進んで変わっていく。けど、僕の日常は変わらない。


 それに寂しさを覚える日もあるけれど、僕がピアノを辞めた日のように、きっと巣立ちの日も近いのではないだろうかと、予感のようなものをより大きく最近感じる。


 と言っても、それはまだ先だ。横でフーフーと息を吹きかけコーヒーを冷ます、あどけなくも美しい少女は暫くはここを宿り木に飛ぶ力を蓄える。餌を多めに食べてね。


「何か変なこと考えたでしょ」


 湿った視線が突き刺さるから、冷や汗をかきながら僕はとぼけてコーヒーを飲む。靴がぺしゃんこにされなかっただけマシだ。


 きっと、今僕が感じる些細な変化は積み重なり、いつか気づけば大きな変化になって僕の目の前に現れるだろう。それが良いものなのか悪いものなのかは分からないけれど、それを前者に近づけるために、僕らは毎日を精一杯生きる。もちろん、息抜きを大切にして。


 変わることなど、コーヒーを飲んでいる今くらいは考えなくていいだろう。僕らの傍には、常に変わらない美しい季節が寄り添うかのように迫っているのだから。


 ティアラの小さなあくびの音をかき消すように、ドアベルが鳴り、一つの背中が去っていく。


「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしていますね」


 次にドアが開く時、あなたは変わっていますでしょうか。


 どうであろうと、僕は変わらぬ味で迎えようと思う。この名無しのまま変わらぬ喫茶店で。気づかれない程度に新調した、真っ白なシャツ姿で。


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 これにて、一章本編完結でございます。明日に一話、断章として、とある人の話を書いて完全な終わりとしたいと思います。

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