第47話 始まりより、この手に万感の想いを込めて②

 いつもより半時間ほど前に目が覚める。目覚めは良かった。鏡台に向かい、いつもより丁寧に身支度を整えた。大事な日なのだから、見た目だって完璧にしていたいという気持ちと、想いを伝えるような日なのだから、身綺麗にしていたいという心から、浮いた三十分を上手に使えた気がする。


 トーストが焼けたようなので、お皿に乗せてダイニングテーブルに座りバターと蜂蜜をたっぷりと塗って頬張った。お供に、昨日保温瓶に入れてもらったコーヒーを飲む。どこかふわふわとした朝の雰囲気が、一気に消えて行くような感覚に陥った。あまりにも嗅ぎ慣れた香りだからかもしれない。


 体調がいい、空腹がちょうどいい。お腹が一杯にならない程度に、もう一枚トーストをお腹に入れると、歯を磨いた。

 時刻を見ると、まだ余裕があるけれど家を出ることにした。制服にサッと着替えると髪を慣れた手つきでリボンで一纏めにした。鏡の前で、意味もなく口角を指で無理やり上げて笑顔を作って頬を叩くと、今日も私の完成だ。


 壁にかかっている温度計で気温を確かめると、外は殺人的な温度。外に氷像が生まれてそうだ。

 マフラーをしっかり巻き、コートを羽織ってボタンを一番上まで閉める。これでも外に出ると、ないよりはマシ程度に感じるのだから恐ろしい。


 外に出ると、一気に私を雪の精が包み込む。今にでも雪だるまになってしまいそうなところを、踏ん張って意識を保つ。

 当然というか何というか、雪が降っていた。静かな雪だった。風はなく、空から音もなく糸を引かれたように垂直に降ってくるだけのそんな雪。


 人通りはあるのに、静かだった。隣にいるのに、各々が、隔絶された世界にいるような感覚。

 何度か味わったことがある、そしてこれを感じる時は大抵集中できている時だ。悪くない。


 大粒の雪が私を彩っては、体温で溶けて消えていく。ナギが言うにはよく見れば一粒一粒に形があるらしい、それが音を吸収するのだとか。


 私が両手を差し出すと、降りしきる雪はすぐに手のひらに数粒ほど姿を表す。目を凝らして見てみるけれど、形があるようには見えない。


「何してるの、ティアラ」


 そんな周りから見れば不可思議に映るであろう行動をとっていた私に、背後から声をかける人間がいた。


「あ、クリス」


「久しぶり、ティアラ。調子はどう?」


「悪くないわ、特に今日は」


 いつも決まった時間に登校しているせいか、登校中にクリスと会ったことはなかった。今日に限って引き合わせるとは、神様がいるとしたらずいぶん意地悪なものだ。


「いつもこの時間なの?」


「そうだね、この時間だなー」


「へえ、意外」


「あ、僕のこと遅刻ギリギリのイメージだったんだろう?昔から、寝入りも寝覚めもいいんだ」


 そういえば、初対面の時も花壇で入眠していたんだっけ。私が起こしたら、割とすぐ目を覚ましていたので言葉に嘘はなさそうだ。それでも意外だけれど。


「…ティアラはさ、怒ってないの?」


「怒ってるわよ」


「だよね」


「そもそも、そんな心配するなら、ナギを横取りなんてしなきゃいいのに」


「…それは出来ない」


「じゃあ、私を怒らせるしかないんだから、仕方ないじゃない」


 校舎まで、歩きながらそんな会話を不器用に、途切れ途切れに交わした。雪は一層強くなる。


「今はね、怒ってないわ」


「え?」


「怒ってたけど、怒る必要がないわ。だって、ナギは取られないもの」


 私の宣戦布告じみたそんな言葉に、クリスは不敵に笑う。ああ、少し塩らしい表情より、こっちの方が彼女らしい。


「じゃあ、今日もう一度怒らせることになっちゃうね」


「言ってなさい」


 コートに積もった雪を手で払い、靴箱で室内靴に履き替えた。クリスとは、教室が違うのですぐに別れることになった。もう、言葉はなかった。


 本番は、今日の放課後。予選突破の十五人が演奏するだけだから、そう時間はかからない。日が沈み切る頃には、結果を携えて私は喫茶店にたどり着く。

 とりあえず、いつもと同じく六限分授業を受けなければならないのだけれど、珍しく教師の言葉は何も頭に入ってこなかった。


 同じクラスに、本選出場者が私の他に二人いるけれど、チラリとそちらを覗き見ると同様の有様みたいだった。

 教師もそれを承知しているのか、何か言ってくることはなかった。友人も気を遣っているのか、話しかける様子もない。


「ティアラさん、今日は頑張ってくださいね」


 食堂で昼食をとっている時、一人だけ話しかけてきたのはシオンちゃんだった。ナギのお店でお喋りしてから、なんだかんだ縁が深い気がする。

 冬休みが明けてから一度、倒れた時に心配をかけて申し訳なかった旨を伝えてからは、たまに一緒にお昼ご飯を食べたりすることもある。


「あ、ありがとう」


「ナギさんも、今は気が気じゃないでしょうね」


「お皿割ってないといいけど」


 私のその言葉に、シオンちゃんは口に手を当て上品に笑うと「五位以内に入れるといいですね」と言い残して、背を向けた。

 私にはもう一段上の壁が立ちはだかっているから、もっと頑張らなきゃならないの。なんて言えるはずもなく、礼を返すと、思い出したかのようにシオンちゃんは振り返り「あ、本題を忘れるところでした。お誕生日おめでとうございます」と告げると今度こそ、人混みの中に消えていった。


「そういえば、シオンちゃんどうして私の誕生日知ってるのかしら?」


どこかでポロリと零したことがあったのだろうか?と考えるけど、思い浮かばない。まぁ、さしたる問題でもないから、気にするほどでもないのだけれど。


結局、昼食をかき込んで五線譜を頭の中でおさらいしていると、すぐに昼休みなんてものは終わってしまった。


お昼の授業も同様だ。私は、ピリピリしているというよりは、どこかふわふわと浮いている気分だった。言葉にしにくい感覚。普段の私とは、特に変わらないのに集中は出来ている。技術を心が追い越す気さえする、そんな視界の狭まった集中があった。調子がいい気がする。


授業を終えて、会場の小ホールへ向かう時さえ、私はステージに立つとは思えないくらいだった。


順番をくじ引きで決めた。引いたくじは十五番。トリだと聞いても、特に何も思うことは無かった。ベストを出すだけだとは思うけれど。


「ティアラ、何番だった?」


「十五番」


「お、僕十四番なんだ」


「比べるにはちょうどいいかもしれないわね」


「ティアラの演奏が耳に入らないように頑張るよ」


「大きい音で審査員の鼓膜でも破くの?」


クリスとそんなやり取りをしたおかげで、適度本番の空気によるピリつきはようやく出てきたけれど、やはり本番に向かう足取りなような気がしない。


審査委員の一人の理事長の激励の言葉を聞いても、一番目の演奏が始まっても私はたった一つのことだけを考え続けた。


「集中、しているね」


「理事長先生...」


舞台袖から、他の生徒の曲を見守る私に声をかけてきたのは、理事長先生だった。

喫茶店でも最近見なかったので、なんだか妙な気まずさが存在する。


「どうかな、調子は」


「クリスと同じこと聞くんですね。とても調子はいいですよ」


「そうか...それは良かった。悔いは残して欲しくないからね」


「理事長先生、審査員なのにこんな所に居ていいんですか」


「幸いというか、耳は良くてね。きちんと聴いているさ。君の演奏も、楽しみにしているよ。どうかクリスを...いや、これを言うのはやめておこう。健闘を祈るよ」


「え、はい」


なんだか歯切れの悪い言葉を残して審査員席に戻っていく理事長に首を捻りながらも、徐々に私の、そしてクリスの演奏順が近づいてくる。


音が鳴る。頭の中で音が鳴る。指も動く、想いは動かない。それに変化を為せるとしたら、彼女だけだと思った。


「クリスさん、出番です」


天才がステージに呼ばれる。奏者、スタッフ、審査員、全ての人間が息を飲む。

一体、今日はどう驚かせてくれるのかと、そんな期待と、ひと枠どうせ減るのだという諦念のようなものが、空間に満ちていく。


迎秋祭の時のようなドレス姿な訳でもない、ただの制服なのに彼女をそれ以上に彩る何かがある。スポットライトが当たるピアノの前に座った時に、誰もがそう感じたはずだ。


ただ、そんな小綺麗に纏まった美しさなんか、クリスが出した和音一つでかき消された。


誰かから、思わず漏れてしまったかのようなため息が聞こえた。それは、感嘆によるものだったのか、諦めを突きつけられた故のものだったのか。


全身を使って音を表現する。どこかデタラメに感じる運指のクセも、味になる。クリスの音が、みんなの心を揺り動かす。

和音が弾ける、トリルが優雅。スタッカートがスキップしたみたいに軽快で心地いい。


思わず体が揺れてしまう、熟練のダンサーみたいに、誰もがクリスの音に飲まれる、世界に連れていかれる。


「やっぱり、私とクリスは違うよ、ナギ」


音が途切れて、余韻だけが会場に残った。誰かが、ライバルだということを、公正な審査員であることを忘れて小さな拍手を贈る。それは、徐々に大きくなって、クリスの満面の笑みを境に最大値に達して消えた。


「見た!?聴いた!?」


ステージ袖に帰り着くなり、クリスは私を指さして、興奮冷めならぬ様子でそんなことを言った。迎秋祭のあの日、ナギに向けられた指が、私に向けられている。

それに高揚を感じる私はきっと、成長しているのだと思う。今からそれを証明しに行くのだ。


クリスの視線を真正面から受け止めると、私はにこやかに微笑んだ。

ポンと背中を押された気がした。行ってきます、先生。


名前を呼ばれた、さぁ私のステージだ。頬を染めて、体を熱くさせて向かおう。


スポットライトの当たるあのモノクロの場所は、まるで人気のない校舎裏みたいだ。現れない想い人を待つ時間みたいに、ようやく私の体は緊張した。

そっか、伝わらない想いを伝える時ですらこんなに緊張するんだな。


「見ててね」


それが誰への呟きだったのか、分かる人は誰もいない。

スポットライトの白光の元へ、腰を下ろす。彼女が鍵盤に触れた瞬間に浮かべた笑みに、天才が纏った何かに似て非なるものを皆が見た。


独奏が始まる。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


いや、ほんとにすいませんね。大事な場面なせいで納得いかなすぎて筆が遅いこと遅いこと。ラストまであと少し頑張ります。

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