第46話 始まりより、この手に万感の想いを込めて①


カランカランとベルが鳴る。冬の激しい乾燥のせいか、どこか本来の音より乾いて聞こえるその音は、神社参りの時に打ち鳴らす鐘の音色に似ていた。


新年始まって五日目の昼下がり。三が日も過ぎ、日本人なら大抵の人間が、神への所信表明を済ますであろう時分に、僕は初詣なんてものはしていなかった。

それは、この世界で神社というものを見かけたことが無いからだし、そもそも元の世界にいた時でさえ、初詣の習慣がなかったからでもある。


教会はあるらしいが、何となく近寄り難い。それに、この世界の神がいるとしたら、僕は異物なので、廃されるか、僕が恨んでいるかのどちらかだと思う。


一応商売人になったので、商売繁盛でも祈っておけばいいのだろうか。そんなことを思っていた時に、冒頭のドアベルが鳴ったわけだ。そこには、我が店の商売繁盛の神がいた。


そもそも、僕は今年の営業を新年始まって数えて八日目からと決めていたので、今日は営業日でもなんでもない。

ともすれば、ドアベルを鳴らすのは、CLOSEを見損ねたおっちょこちょいか、それとも。


「商売繁盛の神兼従業員でファイナルアンサーっと...」


僕が顔を上げた先に立っていたのはティアラだった。

喫茶店にお客さんが来るきっかけになった子だし、うちの店の守り神か何かだろう。こき使ってて大丈夫なんだろうか。


そんな益体もないことを考える僕に、ティアラの少し呆れたような視線が突き刺さる。


「新年早々、凄く下らないことを考えてるのがよく分かったけど、この際置いておくわ。ただいま、ナギ」


「おかえり、ティアラ。長旅疲れたでしょ?コーヒーを淹れよう」


「もう帰ってきて、半日経つし平気よ」


そんな返事を背中向けで聴きながら、コーヒー豆を挽き始める。椅子を引いて腰掛ける音がした。


僕は、なみなみと入ったコーヒーカップと共に、こんな言葉を差し出す。


「あけましておめでとう、ティアラ。いい一年にしよう」


僕と視線を絡ませ、不敵に笑うティアラは「当然よ」と胸を張った。


新年早々、また僕達は音符の乱立する場所へと帰っていく。


********************************************



僕達が早速取り掛かったのは、帰省前にティアラが言っていた、演奏スタイルを変えるという話のすり合わせをすることだった。


「具体的には、どういう感じにするの?」


「うーん、口にするのは難しいんだけど...」


ティアラは、十二月の間に一通り弾けるようになった楽譜をなぞってみせる。


不思議な感覚だった。部分部分なら前の表現の方が良かった気がするのに、全体を軽く演奏し終えたあとでは、変化した部分が作用して曲を良くしている。

 ただそれは、曲全体のバランス感覚を磨かないと曲全体もダメにしてしまうということだ。


「うん、悪くないけど、そこまで強弱を変えるなら運指もやっぱり考えないとね...それと、強弱を強くしすぎて、ペダルの使い方が雑だ。とりあえず、そんなとこからかな。明日から一つ一つ、最高に近づけよう」


「そうね、今日はこのくらいで」


気づけば、陽も沈み、宵闇が顔を出す。街からは、夕餉の香りが漂う。


「せっかくだし、夕飯食べていくでしょ?ティアラ」


「お言葉に甘えるわ」


思えば、誰かに食事を作るのは今年が初めてだ。お金を頂くわけじゃないから、厳密には違うけれど、やはり最初のお客さんは君じゃないとしっくり来ないなんて、そんなことを思った。


仄かな灯りの下で食べたロールキャベツみたいに、ゆっくりと噛み締めて一月は進んで行った。


その日は、奇しくもティアラの誕生日なのだそうだ。二月十日、本選当日だ。


冬が深まりきった頃。結果の芽とともに、僕達は春へと向かっていくのだろう。


一月の間中、僕達はピアノと向き合い続けた。なんとも不思議なもので、ティアラは倒れた雪のあの日から、何かが変わった気がする。ピアノの音がまさにそれだ。感情表現が豊か。音が跳ねる。

 なんだか、僕の何かがむず痒くなるほど直接的に、直接的な心を揺り動かす音楽。


「んーでもなあ…」


 二月に入った、本番まであと一週間となったある日、僕は楽譜を眺めながら悩ましい声を吐き出す。


「どうしたの?」


「いや、今更なことなんだけど、最近のティアラの音色がクリスに似てるんだよ。直接無遠慮に心を掴みに来る感じ」


「それがどうかしたの?」


「いや、上手くいけばいいけど、何かあればクリスに完全に力負けしちゃう気がしてさあ」


「本当に今更ね。大丈夫よ、私とクリスの音色は決定的に違うわ」


「え?」


「はっきりと違うから大丈夫よ。確かに系統は一緒かもしれないけどね」


 そこまで断言されると、二の句は継げない。「そもそも、私より先生が動揺してどうするの」と言われてしまえばなおさらだ。


 確かに、僕にできるのはティアラの底上げをすることだけだ。あと一週間、不安点をなるべく潰して本番へ行こう。


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 喫茶店から寮へ帰る道すがら、寒さで随分と澄んだ星空を見上げる。私の吐いた白い息が、次第に空へ昇って、星をぼやかす。


 研ぎ澄まされている。そう自分で感じられる。寒さではなく、自分の音楽で総毛立つほどに今の私は肌を刺す冷気みたいに、ピアノに向き合えている。


 直接心を掴みにくる。ナギがそう称してくれたことが何よりの証明に思えた。だって、私が曲に込めたのは、あなたへの想いなのだから。


 クリスの誰をもの心を動かす音色と、私の一人の心を動かすための音は違う。心を動かす量なら大敗するけれど、心に訴えかける純度なら、クリスにも決して負けない。


 寒さが足の回転を速くする。温かな場所へと急がなきゃ。温かな場所を、守らなきゃ。気持ちの温かさを、忘れないように。


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 春を待ち焦がれる気持ちの逸りのせいなのか、本番はすぐ明日までやってきた。教師が、この冬一番の冷え込みになると憂鬱そうな顔をしていただけあって、喫茶店まで来る道も凍えそうなほどだった。


 あまりの寒さのせいなのか、お客さんがほとんどおらず、ナギは早めに店じまいの準備を始めた。


「さて、ちょうど早めに店じまいとなったことだし、始めようか」


「ええ、手をほぐして万全で明日に行くわ」


 本番さながらの気合の入れようで、私は頭から終わりまで楽譜を走る。背中側で見守るあなたの存在が、その熱を上げていることが伝わっているのだろうか。少しでも伝わればいいと思った。


 そんな雑念のせいなのか、私はミスタッチを犯して、旋律が止まる。雪に吸い込まれたような静寂が、ひどく重いものに感じた。


「ごめん、寒くて手が冷えちゃったみたい」


 まるで言い訳みたいに、手を握ったり閉じたりする私にナギは微笑みながら「温かいコーヒーを淹れよう」と言う。


 手の冷たさが寒気によるものじゃないことなんて分かってる。想いが肩にのしかかる。曲を弾くたびに降り積もるそれは、明日へのプレッシャーのせいでピークに達したみたいだ。それを証明するみたいに、カップの取っ手を握る私に指は真っ白で、琥珀色の湖面が揺れるのも、きっと私が震えているからだ。


 体だけは温まっても、指の力は抜けたままだった。次にピアノの前に腰を下ろした時も、それは変わらなかった。


 白鍵が、やけにぬるく感じる。黒鍵がやけに柔らかく感じる。視界が、狭まる。


「ティアラ?」


 ナギのそんな問いかけにも、答えなきゃいけないのに息ができない。ああ、想いの分だけプレッシャーとは大きくなるのか。


 そんな時、白鍵に横たわる私の左掌を、温かいものが包んだ。背中から、抱きすくめるような形で、手を重ねたナギの影が私を覆う。


「手、寒さで冷たいんじゃないでしょ。僕でもそれくらい分かるよ」


 何も答えずに、スッと体の力を抜くと程近い距離にいるナギに背を預けた。固いような、柔らかい感覚が頭に伝わる。お腹だろうか。


「バレてたのね」


「そりゃ、先生だからね」


 私の緊張がひどい理由まで見抜けたら、あなたは先生じゃなくなるから、それくらい鈍くてちょうどいいと微笑んだ。


「で?これは、おまじない?」


 私が、熱の伝わる左手を逆の手で指差しながらそう言うと、ナギも微笑んだのが分かった。


「うん、この前も落ち着いてくれたみたいだからさ」


「味しめちゃって」


 そんなことを言って、強がるけれど効果はてきめんだ。たちどころに、手に温もりが戻っていくのを感じる。


 風邪で全身が熱い時は冷たさを、凍えそうなほど、体が固まるほどの冷たさには熱を。ああ、そうだ。あなたはいつでも私を平熱に戻してくれる。いつもの私でいられる。


 そんなあなたが好きなのに、私が想いに振り回されてそうするのだ。私の空回りをいつもあなたが治してくれるからって、甘えすぎだ。


「ティアラ、大丈夫。明日は君の誕生日だ。君が主役だよ。思いっきりやってくるといい」


「…うん!」


「いい知らせを、誕生日ケーキを焼きながら待ってるよ。もちろんご馳走もさ」


「ふふ、お腹が空くように目一杯演奏してこなくちゃね」


 私はそんな素敵な未来だけを想像しながら、名残惜しさをかなぐり捨ててナギの重なる手を退けて、楽譜を奏で始める。


 これが、本番前にあなたに聴かせられる最後の音になる。それを少し残念に思った。きっと、あなたの余熱が私に染み込んで明日はもっと良いものになってゆくから。


 聴いてほしかった。明日なら届くかもしれないと、そんな風に感じたから。


 私は演奏を終えると、ナギに気取った礼なんてした後、ナギが作った玉ねぎたっぷりのカツ丼をお腹いっぱいになるまで食べて、明日への臨戦体制を完璧にした。


「行ってらっしゃい」


 私はそれに応えない。「ただいま」と言うのは、明日にしたかった。それを言えるように帰ってくる、必ず。


 今日も憎たらしいほど澄んだ星々が、私を見ている気がした。


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 いよいよ、一章ラストエピソードに入ります。このサブタイトルはずっと温めてたので、ようやく書けて嬉しい。




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