第45話 終わってゆく十二月⑤
ティアラが里帰りしても、宣言通り大晦日以外は店の営業を続けた。幸いというか、なんというか、ティアラの抜けた穴を攻めるかの如く、人の波が押し寄せるなんて事もなく、緩やかに年の終わりへと僕は流されていった。
今年最後のお客さんはフリーダさんで、仕事納めに乾杯しながら、店全員に私の奢りだ好きなだけ飲めと騒いでいた。居酒屋のようなテンションだが、うちの店は喫茶店です。あと、店の全員と言っても、三人しかいません。
防寒をしながらも、いつもおしゃれなフリーダさんに「良いお年を」と告げると、店の看板を下げるために僕も外に出た。
年が終わっていくということは、冬が深まるということだ。今日も粉雪がちらついている。寒い。
看板を下げながら、店の外観を眺める。一年間、僕の全てがここにあった。ともすれば、これほど感慨深い光景もない。雪に降られて濡れる外壁に触れ「ありがとう、これからもよろしく」と呟く。来年も僕の居場所は変わらずここにある。
寒さに急かされながらも、道行く人達を見る。大晦日の一日前、年の瀬に立って人は足早にどこかへ向かってるように、僕の目には映る。
どこへ向かっているのだろうか。家族の元へ?恋人の元へ?それとも一人の家へ?馴染みの店へ?
年の瀬だろうと、なんだろうと変わらないペースで迎えてやれる場所であればいいと思う。
「来年も頑張りますか」
チリンと小さく、僕だけを迎えるベルが鳴る。年明けまで、どう過ごそうかと考える。とりあえず、いつもの味のコーヒーを淹れながら。
道行く人みたいに、忙しなく過ぎた激動の一年が終わっていく。
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時刻は早朝。私は待合で、馬車を待っていた。それに乗って揺られる事丸一日と少し。もちろん途中で休憩を挟むものの、途中からの腰の痛みは筆舌に尽くし難い。他人と鮨詰めになるストレスも考えれば相当なものだ。と言っても、個人馬車なんて、高くてとてもじゃないけれど使えないので、仕方がないのだが。
「病み上がりにはきついわね…」
もう少しで馬車が来る。周りを見る限り、優しそうな老婆や、子供連れの家族しかいないので安心だ。筋骨隆々の男の人なんかとゼロ距離で丸一日過ごすのは流石に怖い。ナギみたいに、細くて頼りなさそうなら、ギリギリ、まあ…
蹄の音が近づいてくる。生まれ故郷に帰るのは一年ぶり。と言っても、去年と今年では街を発つ気持ちが違う。馬車に乗り込む一歩目が、軽やかだ。
去年は、足取りが重かった。少しもピアノが上達しなくて、それでも気持ちだけは折れないように踏ん張って、両親の優しさにさえ強がって素直に笑えなかった。上手くいっているのだと、そう偽った。両親に心配をかけたくなくて。
けれど、今年は笑える気がした。そして、笑える理由をお父さんに、お母さんに、寝不足になるまで語ろうと思う。手紙なんかじゃ足りなかった、溢れそうな私の一年を。もちろん、私の想いは秘密にして。
流れていく景色を横目に、両親のことを考えた。いつの間にか暮れていく陽を見つめて、楽譜を思い浮かべた。馬車が止まった休憩地点で、配布された白湯で体を温めながら、消えてゆく湯気の中にあなたのことを想った。
そうすれば、生まれ故郷の外門が見えてくるのは案外すぐだった。もちろん、腰は痛いし眠りは浅くて、気は晴れないけれど、それでも爽やかだった。
故郷の土を踏んだ時には、すでに陽は高く、街には生活の気配が充満していた。年が暮れていくにつれて濃くなっていく気がする、何かを惜しむような、今更遅いのに生き急ぐような、やり残しを残さないようにするかのような、そんな皆の早足が、私に帰ってきたのだと実感させた。
慣れたものから、懐かしく感じるものに変わってしまった実家への道を歩く。見慣れない看板がある、きっと私が街を出た時は赤ん坊だった少女が元気に私の足元を通り過ぎていく。些細な、世界にとってはあってないような変化が、確かに私はこの街の時間からは取り残されて生きているのだと実感させてくれた。
そして、辿り着いたのは私が育った小さな食堂。年末だから営業はしていないので感じないけれど、いつも窓の隙間からは素敵なお腹を空かせる魔法の匂いが漏れていた。
息を一つ吸い込んで、横開きのドアを開ける。ノックはしない、ここは私の居場所なのだから。
「ーーーただいま」
お母さんは、テーブルでお茶を。お父さんは、私を迎えるための料理の準備をしてくれていたのだろう。
二人は、ゆっくりとした足取りで私のほど近くまで歩み寄ると何も言わず抱きしめてくれた。
その温かさに、もう一度「ただいま」と呟く。人生で一番聞いた声が重なった「おかえり」が鼓膜を震わせて、私はただの、この人達の娘に戻った。
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年明け十分前だとしても、なにか特別なことをする気にはならなかった。
感慨はあれど、特にやり残したことは無いのだ。年が変わっても、特に何も変わらないものしか人の手には残らないと知っているから。
なんとなく日本の習慣に従って、年越しそばを食べようとしたけれど、なんとそばを入手出来なかった。仕方が無いので、細麺の和風スープパスタを作って、箸でちゅるちゅると啜っている。うん、なんだろう、このこれじゃない感。
お客さんにも、こっちの年越しの文化なんかをさりげなく尋ねてみたけれど、特に何も無いらしい。強いていえば、家族と過ごすとか、そんな感じ。
残念ながらというか、僕には家族が存在しないので、必然的に一人で新年を迎えることになる。
カウントダウンライブもない、除夜の鐘も聞こえない。静まり返った中で、きっと僕は騒がしい程の何かが待っている年を迎える。
チクタクチクタク、気づけばあと秒針がゴールすれば、年明けの時間だ。一年間走りきった秒針もラストスパートの気持ちだろう。ありがとう、また次のコースが休まずに君を待ってるよ。
「三、二、一…ゼロ」
周りの家屋から、少しざわめきが聞こえた気がした。やはり年越しの瞬間の特別感は世界が違えど共通なのだろう。
店のどこからか家鳴りのような音が聞こえた。この店からの祝砲なのかも、なんてそんなことを思った。実際、誰がくれたのかもさっぱり分からないお店だから、そんな事もあるのかもしれない。
思えば、結局僕をこの世界に連れてきて店を預けて消えたと思しき人物のことは、何も分からなかった。
この世界に来て、お客さんが全く来なかった時分は恨んだものだが、最近は考えることすら少なくなっている。考える暇がないほど、充実しているからだろうか。適度に忙しく、眠るために目を閉じると、思い出す素敵なものがあるから、きっと思い浮かばないのだろう。
失ったと思った分、この世界には埋めてくれたものがあって。人間、上手くいっている時は人を恨まないのかもしれない。都合がいいように出来ているけれど、今は少しは感謝もしている。
「いい一年だったな」
ポツリと、独り言が溶けていった。本心は、誰にも聞かれず消えていく。きっと、僕にとってはそういうものなのだ。
一人での年越しなど、慣れているのだから。
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年越しまで、あと数分。私は、二階の居住スペースのリビングテーブルでちびちびと甘酒を飲んでいた。
テーブルの上は、綺麗になったあとだ。さっきまで、お父さん渾身のたくさんの料理が並んでいた。私がすっかり平らげてしまったから、今はシンクの水に浸かっている。積もる話が、随分と盛り上がってしまって食べる量まで見境がなくなってしまった。正月太りという悪魔の言葉が頭に浮かぶ。大丈夫…なはずだ。
私の舌とお腹を満たしてくれた料理の作者であるお父さんは、目の前でそれこそ満たされたように眠っている。珍しく、飲めないお酒をたくさん飲んで、年明けを目の前にして眠ってしまった。
「ティアラが帰ってきたのが、よっぽど嬉しかったのね」
甘酒は苦手らしく、熱いお茶を淹れて戻ってきたお母さんが、微笑ましそうにお父さんの寝顔を見ながらそう言う。
「ここ数日、四六時中話しかけてきたからね…普段は寡黙なのに」
「子煩悩な人だから。ティアラが、夏に帰ってこないと知った時なんて、ひどい落ち込みようだったのよ?」
「それは申し訳ないというか、なんというか…」
予選会を突破するためとはいえ、送り出してくれた両親に、なかなか親不孝をしてしまったかもしれない。
「いいのよ、それのおかげでしょう?今年は、本当にいい顔して帰ってきて、お父さんも私も嬉しいんだから」
「えっ」
飲んでいた甘酒を思わず吹き出しかける。震える手で、なんとかコップをテーブルに置く。優しく置いたつもりが、少し大きな音が鳴ってしまって、お父さんの寝顔を伺うけれど幸い変化はなかった。きっといい夢の中にいる。
「あら?気づいてないと思ってたの?いくら、半年に一度しか会わないとはいえ、娘の表情が本物か作り物かなんてすぐ分かるわよ」
呆れたような顔でそう言うお母さんに唖然とする。昨年までの私の努力はなんだったのだ。まあ、よくない努力だったとは思うが。
「お父さんも、きっとそれが嬉しかったのよ。よほどいい一年を過ごしたのね」
「うん、素敵な一年だったわ」
終わっていくものを目前にして、思い出すこと。素敵なものを生み出してくれた、全ての始まりは黒髪のあの少年だった。ピアノを介して、あの喫茶店で繋がり続けた。
「素敵な人に出会えたのね」
「うん、そうね。そうだと思うわ」
私のそんな言葉と共に、年が明けた。秒針がゴールテープを切り、新しい道を歩み始めたのを見て、私はお母さんと顔を見合わせる。
「あなた、お布団に行かないと風邪ひきますよ」
そう言って、お父さんを揺り動かすお母さんに、温もりを感じた。あの人は、どんな風に年を越したのだろうか。
「ねえ、お母さん、お父さん」
「どうしたの?」
「うん…?」
優しい笑顔で私を見るお母さんと、寝ぼけ眼で赤ら顔のお父さんに笑顔で告げる。
「あけましておめでとう」
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「娘が巣立つのも、案外早いかもしれないわね」
「俺はまだ許さんぞ」
「うふふ、でもティアラの表情、見たでしょう?」
娘の表情くらいわかる。それは豪語した通りだ。だからこそ、娘が知った感情だって、簡単に感じられるものだ。
「おばあちゃんになるまで、もしかしたら、もう幾ばくもないかもしれないわね」
「その前に会いに行かんとな、ティアラの先生とやらに」
果たして私たちが会う時はただの先生なのだろうか。なんてことを口に出すと、隣の夫が機嫌を損ねてしまうので、心にしまっておく。いい気分を損ねたくない。だって、今日は素敵な年の始まりの夜なのだから。
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次回から、一生の終わりのエピソード本選編に入ります。五月中には終わらせたいですね。
昨日お休みしてしまったので、久しぶりの定時投稿です。
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