第42話 終わってゆく十二月②

 病院の方向なら知っていた。たまに来るお客さんが近くの診療所のお医者さんなのだ。雪で埋もれた道に、足を取られそうになりながらも走る。こけたけれど、痛くない。


 血相を変えてドアを開けた僕に、見知らない医者としての顔をしたお客さんが、少しの間だけ見知った表情を覗かせたのを見た。


 そこから覚えているのは、医療箱を抱えたお医者さんを先導するみたいに走り出したことと、店の扉まで辿り着いた時の微かな安堵だけ。


「過労と、季節の変わり目にやられたのね」


 お医者さんは、熱にうなされながら眠るティアラを診た後、そう僕に言った。


「過労…」


 確かに、ティアラは学校に行き、僕のお店の手伝いをしてピアノを弾いて眠るという結構忙しい一日を送っている。僕は、気づかなかったのだろうか、積み重なった疲労に。ティアラの頑強さに甘えていたのだろうか。


「とりあえず、薬を出しておくから。しっかり休んで、欠かさず食事後に飲むようにこの子が起きたら言っておいてね。あ、もちろん食事は優しいものを」


 僕はそう言って、雪の中を去っていくお医者さんの背中に頭を下げた。ようやく冷静になれた気がした。

 二階に戻って、眠り続けるティアラの氷嚢を替えてやったあと、少し気が抜けたのでぼんやりとしていると、ふと窓の外を見てしなくちゃならない事を思い出す。


「ティアラの寮に連絡しないと…」


 いつもなら、ピアノのレッスンを始める頃だろうか。落ちるのが随分早まった陽はすでに完全に眠りにつき、不夜の街の灯りだけが人を照らす。

 いつもは許可をもらって、割と遅くまで外出しているティアラだが、帰らないと騒ぎになるだろう。その前に、ティアラの状態のことを伝えないと。


 思えば、先刻雪の中を走ったせいで冷え切っている身体を、ヘーゼルさんのお店で買ったコートや防寒具で包んで、冷気への備えを済ませた。

 この指先の冷たさを、少しでも目の前で熱に喘ぐ少女に分けてあげられればいいのに。


 斜め降りになった雪が、頬を打ち付ける。きっと服なんかも同じなのだろうけど、もう真っ白になってしまっていてわからない。

 アルスター芸術学院のすぐそばにある寮まで、十五分ほどだろうか。僕は、夢うつつの中にいるみたいに、数日のことを考えながら歩いた。たまに足がもつれて転んだけれど、気にもならなかった。


 寮まで辿り着いた時、僕は雪だるまみたいになっていて、危うく警備兵を呼ばれてしまうところだった。女子寮だから特にそうだったのだろう。そこまで、考えが及ばなかった。


 寮監らしい、厳しそうな老女にティアラがお店で倒れて、店で寝ていることを伝えた。どういう対応をしたらいいかも話し合った。

 結果、今夜はお店で泊めて休ませる事になった。移動させようにも、そもそも眠りについているのだ。それにこの雪で、移動が不可能なので仕方ない措置だといえる。


 念入りに変なことをしないようにと言われたが、偶然通りかかったシオンちゃんが仲裁してくれたことで、ことなきを得た。どうやら、同じ女子寮だったらしい。


「ティアラちゃん、大丈夫なんですか?」


「熱が酷いけど、一応は大事にはならなさそう。過労なんだって。無理してたの気づけなかったな、先生失格だ」


 僕が自嘲するように呟くと、シオンちゃんが慰めるかのように「いえ、私も同じ教室にいたの全く気づきませんでしたし」と小さな声で言った。その優しさが、今はどこか辛かった。


「でも、ティアラちゃん、ここ数日すごく夜中まで頑張ってたみたいだから。隣室の子が言ってました。トントンって、音がするらしいんです」


「音が?」


「そう。眠れなくて、ティアラちゃんの部屋をノックして、ちょっと文句を言おうとしたらしいんです、その子。そしたら、ティアラちゃんのテーブルに楽譜が広げられてて、頭の中での運指練習でテーブルを結構強く叩いちゃってたみたいで。頑張ってるんだなあ、って何も言えなくなっちゃったって、困った顔してました」


「それは、ここ最近?」


「ええ、ここ三日くらいだって」


 三日間を思い浮かべる。特に無理をする時期でもないと伝えた記憶すらあるのに、なぜティアラは夜中まで練習を?


 わからないまま帰路に着いた。足音を殺して二階に上がると、ティアラはまだぐっすりと寝ていた。用意してあったタオルで、頬や首筋の汗をせめてもの思いで拭った。できることはそれくらいしかなかった。


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 ああ、夢だと思った。なんとなく、わかる時があるのだ。体も心もふわふわ浮いているような感覚。そして、私の場合この感覚に陥る時、たいてい碌な夢は見ない。


 手足の感覚を確かめる。違和感がないということは、子供の頃の夢ではないということだ。

 なぜ、そんなことを確かめるかというと、私の悪夢というのはたいてい子供の私がアルスターに合格せず、抜け殻になったように毎日を生きている夢だったから。


 じゃあ今日は何を見るのだろうかと、ぼんやりとした思考と視界で考えていると、景色が転換する。


「ああ…」


 暗転したあとの私の目の前に映ったのは、どこかの豪奢な部屋でピアノを弾いているクリスとナギの姿だった。当然ながら、私はそこにはいない。


「嫌な夢ね」


 これはきっと、私が負けた夢。クリスに本選で負けて、ナギをクリスに取られちゃった夢だ。

 この夢の中みたいに、ナギの視界から私は透明になってしまうのだろうかと考えると、胸が不思議な痛み方をした。


 決闘が決まってからも、私に恐怖はなかった。ナギと一緒なら、乗り越えられるとそう信じていた。確かに、クリスは凄いけれど、私の先生と一緒なら負けないと、そう信じていたから。


 けれど、焦りはどこかにあったのかもしれない。その焦燥感は、少しずつ、少しずつ私を蝕んでいった。

 私だけなら良かった。私だけの未来が掛かっていれば、私の憎らしいぐらいに揺らがない理性は、体に合った一定の努力を課したのかもしれない。


 でも、最近、ナギの笑顔が脳裏にチラつく度、私にだけ聞こえるエラー音が鳴り響く。私の優秀な自己管理能力は、徐々にその音で狂っていった。


 トドメになったのは、防音室をふと覗いた時だった。そこにはクリスがいたドアの隙間から漏れる音に、私の脆く錆びた防波堤は一気に崩れ去った。


 解釈が違う、技術が違う、音の滑らかさが違う。卑屈な私が顔を出す前に、私は走ってそこを後にしたけど、きっと遅かった。


 ナギに頼りすぎているのかな、なんて思った。ナギがいなければ、私にあの天才と張り合えるところはない。なら、差を詰めるところは結局のところ私の得意分野の努力だ。ナギを差し引いた、私たち二人の差を少しでも埋めなければならない。


 気づけば夜更けまで、運指を考えた。強弱が安定するように机を鍵盤に見立てて叩いた。夜更けに私を訪ねてきた隣室の子の顔には、迷惑だと顔に書いてあったけれど、やめるつもりはなかった。


 近頃の自分がおかしい事には、ずっと気づいていた。クリスが凪を奪っていく可能性が浮上したあの日から、胸に何か重いものが沈んでいる事に気づいた。


 それが、心の水面に姿を現してはいけないと心が常に叫んでいる。その重いものを浮かばせないために使う労力も、私の体力を少しずつ奪っていった。


 ナギと休日に出かけた。単に服を買いに行っただけだ。ナギがシオンちゃんと和やかに話しているのを見て、なんとなく机の上に広がる甘いものを目一杯口に含んだ。いつもより甘みを感じない。

 彼がエプロンを着て、誰かと話していようが何も感じないのに、この日はやけに頭が重く感じた。相談屋さんは、そんな私の肩をポンと叩いた。その感触の意味を考えている。


 寒い日が続いた。寒さは人を殺す。だから、その時が来るのは当たり前で、視界が歪んだかと思うと、床が急に近くなった。最後に少し、見たことのないナギの顔が見えた。


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 目を覚ますと、まず感じたのは気持ち悪さだった。身体が汗だくで、着ていたシャツを随分と湿らせていた。


 見慣れぬ室内が私を包んでいた。どこだろうと少し考えて、一度だけ足を踏み入れたナギの私室に似ているのだと気づいた。じゃあ、ここは。


 そこまで思い至った時、部屋の隅の椅子で器用に座りながら眠るナギの姿を見つけた。なんとなく、濡れた体を羽毛布団で隠した。


 またエラー音が鳴る。エラー音が…

 

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 ワクチンの副作用、なかなか強敵でしたね…ティアラを脅かすものがなんなのか、きっと思い当たるものがあると思いますが、本人にとっては正体不明の敵です。

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