第43話 終わってゆく十二月③

 身体の痛みで目を覚ます。腰が痛い。どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。今は何時だろう。


 壁の時計を見ようと、首をほぐすように回しながらぼやける視界を元に戻す。徐々に定まっていく像の中に、流れるような藍色を見た。


「おはよう、ナギ」


「ティアラ…」


 看病していたはずのティアラは、どうやら僕が眠ってしまった間に目を覚ましていたらしい。僕の間が悪すぎる。


「調子はどう?店で倒れたんだ。覚えてる?」


「まだしんどいけど、割と平気よ。覚えてる。ごめんね、迷惑かけちゃって」


「迷惑なんて…」


 そんな僕の寝起きの掠れ声が、深夜の静寂に消えていく。その後、僕たちはなぜだか会話が続かなかった。かけたい言葉も、かけなきゃいけない言葉も、いくつもあったはずなのに。


「お腹すいたでしょ?薬も飲まなきゃいけないし、何か作ってくるよ」


 僕は、ティアラの顔も見ずにそう言うと厨房へと向かった。階段を降りる足音の迷いは、二階のティアラへとまっすぐ届いている気がした。


 今日の営業で余った野菜を細かく切って鍋に入れ、色が濃く着くまで炒めた。そこに水とコンソメもどきを入れて、野菜が柔らかくなって姿を消す寸前まで煮る。


 胃に優しく、そこまで味も薄くない。上出来だ。白湯と、野菜スープを盆に乗せてティアラの下へと向かった。まだ起きているだろうか。


 ノックをして、部屋の中へ入ると、ティアラはベッドに腰掛けるような形で、窓の外を眺めていた。釣られて僕も、窓の外へと視線をやる。雪はまだまだ降り止む気配を見せない。


「いい匂いね」


「僕が風邪をひいた時の、定番料理なんだ」


「私風邪なの?」


「…過労だって」


 僕が、少し尖った声でそう言うと、ティアラは「そっかあ…」と、どこか他人事のようにつぶやいた。


「それに関しての話は後だ。とりあえず、これ食べて薬を飲むこと」


 サイドテーブルに盆を置く。湯気が立ち昇って、少しティアラの姿をぼやけさせる。それが、二人とも何かを言い出せないような感覚に似ていた。


「ん、おいひ」


 ティアラがそんな声を漏らすと、思い出す。僕も、風邪をひいた時こんなふうに寝床で野菜スープを飲んだ。先生の作ってくれた野菜スープは、野菜の切り方は不揃いで、味が薄くて、だけどどんなものよりも温かかった。

 親がほとんど自宅にいない僕にとって、先生はピアノの先生であり、親代わりだったのだ。少なくとも本人はそう豪語していた。


 こんな時でも食欲は健在で、ティアラはものの数分で器を空にした。薬を手渡すと、少し顔を顰めて、粉薬を水で押し流すようにして飲んだ。どうやらこの世界に錠剤はないらしい。


「明日は終業式だから、休むといいって」


「誰が言ったの?」


「寮監?みたいな人。ちょっと目が吊り上がったさ」


 僕が目の端を人差し指で吊り上げて、真似をすると、得心したようにティアラが「なら大丈夫」と胸を撫で下ろす。今のでわかるんだ…


「シオンちゃんにも会ったよ。心配してた」


「そう、悪いことしたわね」


 ティアラは、疲れてきたのか、ぽすりという間抜けな音ともにベッドに寝転がった。毛布をかけてやると、少し目がとろみ始めた。薬が効き始めたのかもしれない。


「夜更かしの事も聞いたよ。ダメじゃないか、隣の人に迷惑かけたら」


「ん、でもね。どこかに…行っちゃいそう…から…」


 ほとんど寝言か譫言のように呟くティアラに、ほとんど届いていないのをわかって問う。


「なんで、無理なんてしたの?」


 返事はない。あるのは、ただ視界のカーテンが閉じた綺麗で安心し切った寝顔だけ。


「気づけなくて、ごめん」


 僕は、あどけない寝顔を最後に一度だけ見つめ、そう呟くと食器を持って一回に降りた。今度は足音を殺して、ゆっくりゆっくりと。


「無理した理由なんて、私もわからないのよ、ばか」


********************************************


 ティアラの食器を、水に浸けると、ぼんやりとカウンター席に座り頬杖をつく。自分ではあまり座ることがないので、視界に新鮮さがあった。


 蛇口から時折垂れる雫の奏でる音が、僕の気分をどこか憂鬱にさせる。時刻は三時過ぎ、気づけばもう日付はクリスマスだ。


 クリスマスの夜といえば、世間一般的には今日の夕方だろうけれど、今だって思えばクリスマスの夜だ。そこにロマンチックさも、綺麗なイルミネーションもかけらほども存在しないけれど。


「クリスマスの真夜中…なんだか違和感のある言葉だな」


 今頃サンタさんは、大忙しの時間帯だろう。このまま朝を迎えれば、子供たちは枕元に置かれた包みに目を輝かせる。ティアラの枕元に、何か忍ばせようかなんて考えるけど、文化のないこちらでは、ただ気味が悪いだけだ。


 沈黙が嫌で、僕は立ち上がると、ピアノの蓋を開けた。ペダルを踏んで小音にすると、椅子に座り、鍵盤に手を置く。


「真っ赤なお鼻の、トナカイさんは…」


 ポロポロと溢れる音に乗せて、小さな歌声を乗せる。この世界では、誰にも意味を知ってもらえない歌、僕みたいな可哀想な歌。


 サンタクロースは、やってくるだろうか。僕の元にも。世界を超えて、やってくるだろうか。迷子の僕の元へも。


「ま、寝てない時点でサンタさん来れないだろうけど」


 自己満足でそう呟き、口の中だけで笑う。クリスマスソングの楽譜を頭に思い浮かべていると、不意に背中から声がした。


「なんの歌?それ」


 首を痛めそうな速度で振り返ると、そこには毛布に包まったまま暗闇に立っているティアラがいた。


「今日のための歌なんだ」


「何か特別な日なの?今日」


「うん、いい子のための日なんだ。きっと、ティアラにもいいことがあるよ」


「倒れたんだけど」


「もう、昨日のことだから」


 僕は苦笑して屁理屈を返す。ティアラにも僕にもプレゼントが届けばいいのに。


「また、ナギの故郷の風習?はろうぃんみたいな」


「そうだね。赤い服を着た白ひげのおじさんが、一年間良い子で頑張ってきた子供にプレゼントをくれるんだ。煙突を通って、気づけば枕元にね」


「ナギの故郷の街は、全部の家に煙突があるの?」


「いや、ある家を見たことがないな」


「じゃあ、プレゼントもらえないじゃない」


「細かいことはいいんだよ」


「相変わらず、ナギの故郷の風習は細かいところが雑ね」


 そう言ってティアラは笑うけれど、笑い声は途中から咳に変わる。僕は慌てて、ティアラに駆け寄る。


「なんで起きてきたのさ、寝てないと」


「なんだか、目が冴えちゃって。そしたら、ピアノの音が微かにしたから、ついね」


 とりあえず、ピアノの前の椅子にティアラを座らせる。毛布の衣擦れの音がと共に、ティアラがソの白鍵を不意に鳴らした。


「ね、ナギ。今日は良い子に、プレゼントが届くんでしょ。じゃあ、ピアノ弾いてよ」


 そう言って、椅子の右半分を空けて、出来た空白をポンポンとティアラはここに座れと叩く。僕は、何も言わず隣に座った。毛布越しに感じる体温が熱い。風邪のせいだろう。


「夜更かしして、隣室に迷惑かける子は、良い子じゃないと思うんだけど」


「一年間トータルしたら、街で一番いい子よ。多少のマイナスなんて、もろともしないわ」


 やたらと飛躍した理論を語るティアラにため息を吐く。こういう屁理屈を言うところは、最近誰かさんに似てきた気がする。ピアノの漆黒に映る自分の顔が見えた。


 僕は反論を諦めて、ピアノを奏で始める。有名なクリスマスソング。英語の発音に自信はないので、歌いはしない。


「なんで、倒れるまで夜更かしなんてしたのさ」


 音に紛れさせるように、僕は再度尋ねた。隣のティアラが首を傾げたのがわかった。


「分かんない。焦る必要はないって、理性ではわかってたの。本当よ。なのに、ナギが離れてっちゃう夢を見たら、いてもたってもいられなくなった」


 困り顔で笑うティアラ。コツンと、僕の肩にティアラが頭を乗せたのがわかった。やはり、体調が悪いのだろうか。


「今は、焦燥感なんて少しもないの。こうやって、ナギがいるって分かれば、ちっとも」


「どこにも行かないよ」


「行っちゃうかもしれないでしょ」


「行かないよ。ティアラが体調崩したりして、予定崩れなければさ」


 僕は揶揄うように笑う。ティアラは、笑っただろうか。触れているのに、わからない事もあるんだと思った。


「不思議ね、夏頃はあんなに怖がってた本選のステージは全く怖くないの。ただ、ナギがいなくなるのだけが怖いわ。なんなんだろう、この感じ。分かんないな」


 僕の右手だけのクリスマスソングに、ティアラの弱々しい左手の和音が加わった。所々音が乱雑になるけれど、随分と耳が良くなったものだ。


「なんだか、僕も覚えがあるよ、そんな感覚」


「そうなの?」


「うん、僕の先生が、ピアノの先生を辞めちゃうって時に、そんな感じだった」


 その頃を思い出す。先生が、辞めちゃう前の最後のコンクール。一位をとって、僕は先生のおかげでもう大丈夫だって示したくて、無茶な努力を続けて体調を崩した。コンクールの舞台で競うことは、少しも怖くなかったのに、コンクールが終わると先生がいなくなっちゃうことだけがとてつもなく怖かった。どうしようもなかった。


「なら、私は結果次第で先生を引き止められるから、まだマシね」


「そうかも。似たもの師弟なんだ、結局」


 僕もそんな時、先生がレッスンの合間に隣で曲を弾いてくれる時だけは、焦りがとてつもなく和らいだ。今だけは、世界に二人だけだと信じられた。あの気持ちの名前は、今も僕は知らないままだ。


 似たもの師弟なら、僕が先生にかけてもらった言葉でティアラの言葉にならない感情は和らぐだろうか。


「ね、ティアラ」


 僕は、和音を奏でるティアラの左手に、空いている左手を重ねる。旋律の一部が止まって、欠ける。


「な、何よ」


「んー、おまじない。先生直伝なんだ」


 ティアラの熱い体温を左手に感じながら、僕はまたしても借り物の言葉を贈る。本当に情けない先生だと思う。


「大丈夫だよ、ティアラ。僕は、どこまで行っても、君だけの先生なんだから」


 降り頻る雪みたいに、ティアラの体温を、僕の冷たい手が温度を奪っていく。今度はティアラが、微笑んだのが分かった。


********************************************


 体力の限界がきて、私はふらふらと借り物のベッドに倒れ込んだ。頭が痛い。


 毛布に包まると、とてつもなく暑い。体が、過去で一番熱を持っているのを感じる。私の感情が、きっとナギにもらった冷たさをかき消すぐらいに熱されている。


 痛む頭は、どこかスッキリしていた。ここ数日の、焦燥感を生み出していた、どこまでもありふれた感情に、ナギの冷たさに気付かされたから。


 目を瞑って思い出す。迎秋祭の前、綺麗だと言われた。彼と踊ったダンスフロアが、色づいたままはっきり瞼の裏に焼き付いている。

 

 酔ったお客さんに触られそうになった時、ナギが倉庫で私の女の子としての弱さを認めてくれた言葉が脳裏に浮かぶ。


 何かを自力で掴み取ってばかりだった私に、初めて甘やかに何かを与えてくれた人。どこにも行かないと、そう言ってくれた人。


 ナギのピアノを弾きながらの雑学めいた話を思い出す。雪は、一粒一粒が音を複雑に反射して音を吸収してしまうらしい。それが何千何万と降り積もっているから、世界は私一人だけみたいに静かだ。全て、音がかき消されたみたいに。


「好き」


 でも、私の熱を持ったそんな言葉だけは、きっと雪を溶かして世界に響いた。雪の降り頻る温かな十二月は、まだ終わらない。

 

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 僕は、これ以降の話が書きたくてこの作品を書き始めたので、ようやくここまでこれた!

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