第40話 名無しの常連さん
「いらっしゃいませ」
時刻は開店直後の、朝一番。朝食には少し遅く、昼食には少し遅い。
来店した客は、僕の歓迎の言葉に特に反応も示さずカウンターの一番端に座った。
ゆっくりと腰を下ろしたにも関わらず、立派な体格の重量で椅子が軋む。熊の獣人さんらしい、お客さんは額の目立つところに大きな傷があって、それが尚更迫力を増している。もう、僕は慣れたけれど。
このお客さんは、僕にとって少し特別なお客さんだ。注文を聞くことも無く、僕は他に誰もいない店内でせっせとコーヒーを淹れ始める。少し濃いめになるように。
今まで、あまり触れてこなかったけれど、僕の店の壁の一面には所狭しと本棚が存在している。
そこに存在する小説はとても不思議で、何故か僕が開くと日本語に変換されるので僕でも読める。
『ご自由にお読みください』とティアラの字で書かれた張り紙が貼ってあるそこに、お客さんは向かい、一冊抜きとると、もう一度席に着く。
「お待たせしました」
本を開く前に、僕がコーヒーを置くと、お客さんは少し目を細めるようにしてカップを持ち上げると、軽く香りを楽しんだあと、少量を口に含んだ。
完全に通の楽しみ方なんだよなあと、心の中で苦笑する。迫力のある見た目も相まって、すごくかっこいい。
静かに時は過ぎていく、ページを捲る音と、僕がキッチンの調理器具を整理する音だけが響く。
本当にいつものことなのだ。カウンターに座り、常連さんの中でもかなりの頻度で店を訪れるこのお客さんとの間に、会話はない。あったとしても、注文を受けるときなどの些細なものだけで、世間話や身の上話なんてものは一度もない。
喫茶店というのは、基本的にマスター側から話しかけることはないので、このお客さんは会話も対話も望んでいないのだろうと思っている。ただ、棚の本とコーヒーを純粋に楽しんでくれる。こちらとしても、文句は一つもない。
そうして一時間ほどがたっただろうか。そろそろ、早めの昼食をとる人が現れそうだなと思っていると、目論見通りすぐにドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、ラルフさん」
入ってきたのは、最近長女が生まれて幸せいっぱいのラルフさんだった。元々優しげだった顔が、お子さんが生まれてから、さらに拍車がかかった気がする。
カウンター席に座ったラルフさんに、お冷を渡すとラルフさんはメニュー表を開こうとして、少し離れたカウンターに座るお客さんに気づいたのか、さっと目を逸らすと、僕を手招きした。
またかな?なんて思いながら耳を貸すと、ラルフさんは少し震える小さな声でこんなことを言う。
「ナギくん…あのお客さん、大丈夫?その、いろいろさ」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。見た目ほど怖い人じゃありませんから」
「いや、そうじゃなくて、あの人は…」
僕は、その言葉を口に人差し指を当てるジェスチャーで制する。ラルフさんが、少しバツの悪そうな顔をする。
「分かってます。ここを一歩出れば、あのお客さんがどんな方なのかも、他の方から伺っています。でも、ここではただの一人のお客さんです。もちろん、店に何か被害があればその限りではないですが…」
僕は、既に少し懐かしく感じる在りし日を思い出しながら、ラルフさんに微笑む。
「今のところ、全く問題ないですよ。ただの、本とコーヒーが好きな常連さんです」
そんな話をしていると、お客さんが大きな体を揺らして立ち上がり、本棚へと本を仕舞うと、ドアの外へと姿を消した。僕にだけ聞こえるくらいの声量で、一言残して。ゆっくりと、ドアベルの振動が消えていく。
テーブルの上に置かれた、一杯分の代金を回収すると、ラルフさんが注文したクリームパスタの準備に取り掛かる。
乳製品の濃厚な香りに乗って、思い出す記憶がある。それは、僕が喫茶店マスターとして乳飲み子同然だった時の記憶だからなのかもしれない。
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「お客さんが、来ない」
僕が異世界に飛ばされて、三日ほどが経っただろうか。メニューをひと取り揃え、勇み足で、とりあえず店を開けたところ、お客さんが本当に誰も来ないのである。
「開店初日にお客さん0人はまずいんだけどなあ…」
本当に世の中ままならない物である。僕が、カウンター内の椅子に座り、肘をついてぼやいていると、ドアベルが鳴った。
「い、いらっしゃいませ!」
慌てて椅子から立ち上がったせいで、脛を強打して、少し声が上擦る。そして、お客さんの姿を見た瞬間、ただでさえ固かったであろう僕の笑顔が凍結される。
お客さん第一号の顔がものすごく怖かったのだ。精一杯の勇気を振り絞って「お好きなお席へどうぞ」と言った僕を褒めて欲しいくらいだ。
向こうも、店内をゆっくりと見渡している。随分とお客がいないとでも思っているのだろうか。あ、ダメだ。気持ちがネガティブになってる。
お客さんは、カウンター席にどっしりと腰掛けたので、初めてのお客さん相手の緊張と、発せられる圧で僕はもう泣きそうだった。
「ご注文、お決まりですか?」
僕がそう尋ねると、低く唸るような声で「あったけえ飲み物。おすすめぐらいあんだろ」と言われた。どすの利いた声に、僕の膝が震え出す。緊張してるだけだ。そうだと思いたい。
おすすめはと言われたら、僕としてはコーヒーを出すしかない。この世界にも、コーヒーはあるのだろうかと、そんな思いを抱きながら恐る恐るコーヒーミルで豆を砕く。
丁寧に丁寧に、豆を膨らませて、抽出したコーヒーをかき混ぜで、カップに注いで。僕がこの世界で初めて淹れるコーヒーになるのだから、これからの規範になるような一杯をと、集中しっぱなしだった。
きっと、人生で初めて自分の淹れたコーヒーをお客さんにお出ししたあの瞬間を僕は忘れることはない。
手の震えで揺れる黒い水面を、なんとか溢れさせることなくテーブルに置いて。首を傾げながらも、コーヒーを口に運んだお客さんを失礼だと分かっていてもじっと見つめた。
黒い湖が傾いて、お客さんの口に飲み込まれていった。僕の喉と、お客さんの喉が同時になった気がした。
「なんだあ、これ。匂いはいいが、まじぃな、おい」
その言葉に僕は、がっくりと肩を落としたことだけは覚えている。結局、その日はお客さんは一人しか来なかった。それどころか、それから一週間ほど、お客さんは一人しか来なかった。
お客さんは、毎日来てはまずいと文句をこぼしては、閉店時間まで本を読んだ。彼が文に目を向けている間、僕も決してその世界にずけずけと踏み込もうとはしなかった。
彼が好む匂いの濃さを理解した頃、僕のお店は少しずつお客さんが増え始めていった。
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時がたち、彼が来る頻度は、お店にお客さんが増えるとともに減っていった。きっとそれには、理由があるのだと思う。
ある日、新規のお客さんが、カウンターを見て悲鳴を上げた。それからだ、彼が開店時間きっかりに来るようになったのは。
週に三日ほど、開店時刻ちょうどにやって来ては、コーヒーを一杯。小説をキリがいいところまで読むと、去っていく。
度々常連さんは僕に言う。彼には気をつけろと。でも、僕は外での彼を知らないし、知ろうとも思わない。
もしかしたら、顔の傷の他にも傷があると囁かれる人なのかもしれないし、真相はわからない。でも、僕が知っているのは、顔を顰めながらも、匂いを楽しみ、少しも残さずカップを空にして「また来る」と言う言葉を欠かさない彼だ。
きっと、誰もいない時間帯に彼が来るのは、僕や店への配慮なのだろう。だが、僕はそれにも気づかないふりをする。彼がただの常連さんであるために。この空間の中では、ただ小説とコーヒーの香りを楽しめるように。
僕は彼の名前すら知らない。だが、少しでも知っていることがあれば、それがその店でのお客さんの確かな一つの姿なのだと思う。
だから僕は、それを尊重しながら今日も一杯のコーヒーを丹念に用意する。
名無しの喫茶店にふさわしい、第一号の名無しのお客さんを。
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少し納得がいかなくて、ボツを繰り返してたら、昨日更新できませんでした、すいません。次回から、第一章の締めのシリーズに入ろうと思います。
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