第33話 ティアラ印とグレープフルーツ
僕が決闘とかいう素晴らしく不穏なものの商品になったとしても、店は通常営業だ。
ティアラのレッスンも、本選の楽譜が発表されるまでは練習曲で基礎技術を上げるしかない。要するに、今までと変わらないという訳だ。
今日も今日とて、僕はせっせと開店準備に向けて、食材の下処理を頑張っている。
「どうもー、こんちはー」
そんな時だった。店の外から聞き慣れた声が聞こえた。
ふと、外を眺めると重そうな荷物を抱えた青年と目が合った。
「ああ、コーエンさん。おはようございます」
「おう、おはよう。今日もいつも通りで良かったよな?」
「ええ、毎度ありがとうございます」
僕が扉を開いて招き入れると、コーエンさんはカウンターテーブルに荷物を置き、ひとつ息を吐く。
「少し、寒くなってきましたね」
「おお、そうだな。だから、こうやって身体を動かしてるとちょうどいい」
コーエンさんは、僕が仕入れをお願いしている『ハイドアウト』の店員さんだ。毎週、店に必要な食材を届けてくれている。そして、地味に僕がこの世界に来て初めて会話をした人物である。
「どうぞ」
「いつも悪いな」
「いえ、お世話になってますから」
少し額に汗を浮かべたコーエンさんに果実水を差し出す。本当ならアイスコーヒーを出したいところだが、コーエンさんはコーヒーが苦手なのだ、誠に遺憾ながら。
コーエンさんが果実水を飲んでいる間に、荷を解いて中身をチェックする。といっても、不備があったことなんて一度もないので形だけのものだ。
「ん?」
そうして、中身をあらためているといつもの食材に紛れて、見慣れないものが入れられていた。
「コーエンさん。これって?」
小箱を軽く持ち上げてコーエンさんに見せると、得心したように頷きこう言った。
「それ、うちの店長からのサービスだとよ。森で見つかった新種の果実らしい」
「へぇ、店長にお礼言っておいてください。また、店に来た時にサービスします。とも」
「分かった。それじゃ、俺はそろそろお暇すらぁ」
「ありがとうございましたー」
コーエンさんの背中を見送ったあと、小箱を開いてみると、そこには月のような色をしたまん丸の果実が敷きつめられていた。
ある種の確信に近いものを得ながらも、確かめてみないことには分からないと、包丁を取りだし、半分に切る。
滴る果汁と、断面を見て僕は呟く。
「グレープフルーツだ、これ...」
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時刻は夕刻。おやつの時間が終わり、店内にはのんびりとくつろぐお客さんのみになり、騒々しさは去った辺り。僕は、まな板に向かいながら首を捻っていた。
「うーーむ」
どうしたものかと思うものの、これは頭を悩ませて解決出来る問題でもないため、打つ手がない。
「何してるの?」
そんな僕を見兼ねて、ティアラがホールからキッチンへとやって来ると僕の手元を見てギョッとする。
「どういう状況?」
僕手元には、何かを諦めたかのように放り出されたひとさじのスプーンと、赤い果肉が飛び散ったまな板があった。
真っ赤な果汁が流れ出て染まったまな板の上は事件の香りすら漂っている始末だ。
「いや、実はですね...」
僕は簡潔に、ハイドアウトから新種の果実をおすそ分けしてもらったこと、そしてその果実が見知ったものに似ていたことを伝えた。
「それで、これを使って新しいデザートを作ろうと思ったんだけど」
グレープフルーツというものは、食べるのが非常にめんどくさいことで有名だ。僕調べだけど。
半分に割って、アスタリスクのように分けられた果肉を皮からスプーンでこそぎ取って食べる。
手も汚れるわ、果肉は上手く取り切れないわで非常に手先の器用さが要求される食物なのである。
「僕子供の頃から、グレープフルーツの果肉を取るのすごく苦手でさ」
僕は、果肉の大部分が残り、果汁がまな板の上に飛び出てしまっているグレープフルーツを指差して言う。
実は、僕は手先があんまり器用じゃない。細かい作業とか、気が遠くなる程である。ピアノとか料理の手先は、出来るまでやっただけの話で、また別なのだ。
「グレープフルーツ?っていうの?これ。確かに、上手にくり抜くのはちょっと大変かも」
そういうとティアラは手を洗い、スプーンを持つと僕の失態を示すグレープフルーツに向き合う。
「ん、こんな感じ?あ、皮に沿ってスプーン入れたら意外と...」
ティアラがそんなことを呟きながら差し出したスプーンの上には
「えっ、めちゃくちゃ綺麗」
僕の失態を見事にリカバリーする綺麗な果肉が乗っていた。
その調子でひょいひょいと、残りの果肉もこそぎ取っていくティアラを尊敬の目で見つめていると、数分後には綺麗に空洞の空いたグレープフルーツの姿があった。
皿の上に盛られた綺麗な形の果肉の山を見ながら、僕はつい
「ティアラさん...」
と敬意の念を込めて名前を呼ぶ。
「やめてよ、そんな大したことじゃないわ」
「まぁ、僕はそんな大したことないことで心折れてるんだけどね」
「ちが、そういう意味で言ったんじゃなくて」
「いいんだ、僕不器用だからさ...」
僕が、少し落ち込んだような声色でそんなことを言うと、あわあわと体の前で手を振って否定して、フォローに頭を悩ますティアラがなんだか可笑しくて、思わずくすくすと笑いが漏れてしまう。
そこで、やっとからかわれていることに気づいたティアラが目をつりあげて「...ナギ?」とワントーン下がった声を出したので、ここらで打ち止めておくことにする。
「そ、れ、で?ナギはなんでこのグレープフルーツと格闘してたの?」
「いや、結構な量のおすそ分けだったもんだから、せっかくだし期間限定メニューでも作ってみようかと思ったんだけど、ご覧の通りメニュー開発以前の問題でさ」
箱いっぱいに敷き詰められたグレープフルーツをティアラに見せる。
「わ、確かにいっぱい」と目を瞬かせるティアラに、果肉を差し出す。
「食べてみる?美味しいんだ」
赤く透き通る果肉をティアラが口に含むのを、なんだか雛鳥に餌をやる親のような気持ちで見る。
「ん、美味しい!甘酸っぱくて爽やかね」
「でしょ?僕も大好きな味なんだ。だから、メニュー作りたいけどこれじゃあなぁ...」
「メニュー自体は思いついてるの?」
「うん、ゼリーを作ろうと思うんだ」
「そう、一品につきこの果実、どれくらい使うの?」
「この真っ二つにした片割れくらいだと思う」
「ふーん、じゃあこの量でも一週間ぐらいで無くなっちゃうわよね」
ティアラが問うてくることの意味がいまいち分からず、首を傾げる。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「一週間なら、私が毎日この果実綺麗にくり抜くから、メニューに加えましょう」
「えっ!」
「こんな美味しい果実、余らせるには勿体ないわ。それに、ナギに任せるよりこの果実も私にやって貰いたいと思うわ」
ティアラは悪戯っぽく、まな板の上の惨状を指差しで笑う。きっとさっきの仕返しだろう。
「ありがと、ティアラ」
「いいのよ。ダメなところを補い合うのは、別にピアノの前に座ってる時だけじゃないんだから」
少し恥ずかしそうにそっぽを向いたティアラの赤い横顔に気付かないふりをして、僕はゼリーに添える予定のヨーグルトソースを作る。味見すると甘酸っぱくて、僕は顔が綻んだ。
「料理の合作、初めてだね」
「果肉を取ってるだけよ?」
「それがなきゃ、スタートラインにも立てなかったんだから、二人の力だよ」
「そうね、一度キッチンにも立ってみたかったの。少し、楽しいわ」
「そうだね、面倒なこともあるけど、ここから眺めるお客さんの顔のおかげで毎日楽しいよ」
そんな会話をしながら作り終えた僕達のグレープフルーツゼリーを、しばらく冷やすと、出来上がったゼリーは爽やかで、綺麗で、食べるのが勿体ないくらいだった。
皿の上から、ゼリーが消えて僕はティアラにとある要望と共にメニュー表にグレープフルーツゼリーを追加で書いて貰った。
この日から、時折メニューの文頭に可愛らしいリボンがあしらわれた期間限定メニューが名無しの喫茶店に登場するようになったらしい。
ティアラ印と僕らが呼ぶそれは、毎回大人気になるのだった。
「いらっしゃいませ。今日は、グレープフルーツゼリーがおすすめですよ」
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