第32話 迎秋祭 あふたーぷろぶれむ
ティアラと共に店内に入り込んだ少し冷めてきた風が、僕の首を撫ぜた。その感触で、僕は一度頭の中を整理しようと、顎に手を当てる。
「こんにちは、ティアラ」
「クリス!なんでここに?」
クリスの用事とやらを、確かに聞いたはずだが頭が混乱してよく覚えていない。ティアラが訪れたこともあって、尚更。
「ナギがやってる店だって聞いて一度訪れてみたくてね」
「いい場所でしょ?」
「うん、気に入ったよ。雰囲気も、このコーヒーってやつも」
ミルクを入れた方が美味しいだの、私の好みはどうだのと姦しさを増す二人の会話をぼんやりと見つめていると、さっきのクリスの言葉は幻聴か何かだったのではないかとすら思えてくる。
「でさ、ナギ。考えてくれた?さっきの?」
「うん?」
「だから、私のピアノ講師になる話」
幻聴でもなんでもなかったらしい。再び場に沈黙がやってくる。
「クリス?どういうこと?」
場の静寂を破ったのは、ティアラだった。少し動揺したような目で、クリスに問いかける。
「え?ナギに僕の先生になって欲しいんだ」
「イアンさんは?あの人、クリスの先生でしょ?」
「あー、辞めてもらった。つまんない人だったし」
あっけらかんと言うクリスに、ティアラも面食らったのが分かった。当然僕もだ。
「え、あの人結構有名な人だったんでしょ?」
嫌な人ではあるけど。と言う言葉は飲み込んだ。クリスが言っていた、面倒ごとが一つ消えたというのは、イアンさんのことだったのか。
「元々、僕のことを自分の経歴を上げるためのアクセサリーか何かだと思ってたみたいだから、辞めてほしかったんだけど、なまじ実績があるから困ってたんだ」
「なるほど、それで先の迎秋祭で彼に随分と恥をかかせて、すぐにでも切れるようにしたというわけか、クリス」
「あれ?やっぱり理事長せんせーのとこに文句来てた?」
「ウォルツさん…?」
静観していたウォルツさんが、突如クリスへと言葉を投げかける。ティアラは、ウォルツさんがいたことに驚いたようで頬を固くしている。そろそろ慣れてほしい。
「文句も何も、朝一番で怒鳴り込んで来て、私の方から君に口添えしろなどと随分ごねられたよ」
「あはは、ごめんごめん。でも、仕方ないじゃん。新しい、すっごく面白い先生見つけちゃったんだからさ」
「それって、ナギのこと?」
「うん、そうだよ」
ティアラからの問いかけを変わらぬトーンで肯定すると、クリスは迎秋祭の人同じように僕を指差す。
「受け取ったでしょ?僕からのラブレター。返事をちょうだいよ」
「やっぱりあの演奏って…」
「ああ、ナギなら気づいてくれるんじゃないかと思った。そうだよ、ナギの演奏に合わせて即興でアレンジしたんだ」
内心が驚愕の二文字に染まる。本当にあれを、僕の演奏に合わせて瞬時に弾いていたと言うのか。
「ラブレターって、あの演奏のことなの?クリス」
「うん、ナギに僕の思いを、ああすれば伝えられるかと思ったんだ」
クリスは、何かに思いを馳せるように天井を見上げる。
「ナギの演奏を舞台袖で聴いた時、僕は震えたよ。歴史の偉人の力を借りてふんぞり帰ってる奴らなんかとは違う。ナギ自身の音。まるで、この世のものじゃないかと思うみたいな色の音」
それは違う。この世にはまだない解釈だったり楽譜を繰り返してきたのだから、確かにそう聞こえるのかもしれないが、結局は僕も前の世界の偉人の力を借りているに過ぎない。僕は、クリスのように、何かを創っていく側の人間ではないのだ。
「僕は、その音が欲しいんだ。凝り固まった音を強いられるのには飽き飽きしてた。自分の音が停滞してきたのも、知ってる。だからさ、ナギ、僕には君の教えが必要なんだ。君の音を吸収できれば、僕はまだ先を見れる」
クリスは、僕へと手を差し出す。
「だからさ、僕の先生になってよ。ね?」
その真摯な目を見て、僕も真摯に応えなければとクリスの目をきちんと見据える。そして、少しだけ視線を逸らすと、ことの成り行きを不安げに見守るティアラを見る。
大丈夫だよ、そんな顔するな。あの日から、僕の腹は決まってるんだ。
「ごめん、クリス。それは出来ない。君より先に、先を見せてやりたい子がいるんだ」
僕がそう言うと、ティアラとクリスは相反する感情を浮かべた表情をした。ティアラは喜色を堪えきれないような、クリスは何だか悲壮な。
「そっか…」
クリスはそう呟くと、持ってきていた鞄を何やらゴソゴソ探る。なんだろうと、ぼんやりと眺めていると、クリスが取り出したのは、皺くちゃな封筒のようなものだった。
「本当はさ、使いたくなかったんだ、これ。ティアラは友達だし、あんま気分良くないから」
「クリス…?」
ティアラが、名を呼ぶと同時にクリスはウォルツさんへと向き直ると封筒らしきものを差し出す。
「ねえ、理事長せんせ。これ、まだ有効だよね?」
「…ああ、もちろんだとも」
「じゃあ、この権利、今使うよ」
「いいんだな?」
「うん、決めたから」
何やら、勝手に進んでいく話を呆然と眺めていると、ウォルツさんがクリスへと問う。
「アルスター学院高等部音楽科一回生クリス。この証文に記した通り、君の音楽活動を推進するために一度だけ伯爵と同等の権利の行使を許可する。望みは?」
「ここにいる、ナギを僕の講師にして」
クリスの言葉を聞き届けたウォルツさんは、僕を向くと小さな声で「すまない」と言った。
「店主さん、これは伯爵からの勅命だと思ってくれ」
「え?」
「ここに居る、クリスの講師に君を任命する」
「えっ!?」
一切冗談の気配がない言葉に僕は戸惑いながら、一応「冗談ですよね?」とウォルツさんに返すけれど、ウォルツさんは何も答えてくれない。
「何よそれ!」
当然、そんな突然の出来事に黙っていられないのは僕だけじゃなくティアラもだ。椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると、クリスに詰め寄る。
「クリス!どういうこと!?」
「どういうことも何も、言葉の通りだよ。僕は、一度だけ自分の音楽の発展のためなら伯爵と同じだけの権利を使える証文を貰ってたんだ。そこの理事長の、父君にね」
「でも、こんな横暴!」
「貴族位って、そういうものだよ」
「そんなの納得できるわけない!ナギは私の先生なの!」
「僕にも、ナギの力が必要なんだ」
ティアラが肩で息をするほどの激情をぶつけても、クリスの表情は揺るがない。僕は展開についていけず、混乱しっぱなしだ。
「ウォルツさん、こんな無茶苦茶って通るんですか?」
「ああ、問題はない。もちろん、心象は良くないだろうが」
「当たり前ですよ」
「一つだけ、手立てがないこともない」
「なんですか、手立てって!?」
ウォルツさんの呟きを聞いて、ティアラが掴みかからんばかりの勢いで、次の言葉を急かす。
「昔から、庶民が貴族の横暴に異議を唱えるときに行うことと言えば一つだ」
「それって…」
「そう、決闘だ」
「決闘!?」
現代日本ではファンタジー小説や漫画でしか聞かない単語の登場に、思わず裏返った声が飛び出る。
「昔は、命をかけて剣を持って決闘をしたそうだが、もちろん今の時代にも、この芸術の街にも、そんな野蛮さは似合わない」
「つまり?」
「クリス、一つ提案がある」
「…何?」
「冬のピアノ専攻の本選を決闘にしないか」
「本選を…?」
「本選通過者は、明確に順位付けがある。演奏も含め、これまでの学科成績なども含めてね」
「なるほど、それで上の順位だった方がナギに師事できるわけね」
「僕はそれでいいよ。ピアノで負ける気はしないし」
ティアラとクリスが睨み合う。そこに、和気藹々としていた友人としての気配はなく、それがなんだか悲しかった。
「クリスの学科成績の悪さを考えると、それなりにイーブンな条件だと思う。ならこれで行こう。クリスが勝てば、証文の通り店主くんは君の講師に、ティアラくんが勝てば元鞘だ。いいね?」
「いいわ」
「いいよ」
もしかして、今僕は決闘の商品みたいな立場なのだろうかと、新たな波乱の予感にため息を吐く。
「ティアラ、本選まではナギと二人で練習してよ。その上で僕が勝つ。僕にはどうしても、ナギの音が必要だ」
「私にも譲れない夢があるの。そのために、ナギに教えてもらわないといけないの」
そんな会話を最後に、クリスは身を翻してドアの向こうへと消えていった。扉が閉まる音と共に、ティアラが僕にこう言った。
「大変な冬になりそうね」
全く同感だった。息が白く色づく季節は、そう遠くない。
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「クリスは、私の父が見つけてきた子でね」
ティアラが着替えている間、ウォルツさんはポツリとそう切り出した。
「どこぞの街の商家に訪れた時に、オルガンを弾いているあの子に惚れ込んで連れてきたんだ」
「そんなことが…」
ウォルツさんは、僕が淹れた二杯目のコーヒーを飲みながら肩を落とす。
「その商家に便宜を図り、あの子にあんな証文まで書いてやるくらいだから、とんでもない入れ込みようだよ。そのくらい、あの子の才能をユグドラシルで育てたかったらしい」
「確かに、あの才能は見つけたら魅入られますよ。そのくらいのものです」
「確かにね、神童という言葉が僕の耳にも届く数が、日に日に増えている。だが、いささか突き詰めるために手段を選ばなかったり、変わったところがあってね」
「もちろん言い訳にもならないが」とウォルツさんは自嘲したように笑うと、立ち上がり、クリスの分のお代も払って帰っていった。最後にもう一度「すまない」と残して。
ドアが閉まる直前、僕はウォルツさんにこう言った。
「うちのティアラも、負けませんよ」
ドアが閉まった後、ウォルツさんがどんな顔をしていたのか、僕には分からなかった。
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